五月六日、水曜日。振替休日であり、そしてゴールデンウイーク最後の日でもある。
本来ならば明日からまた授業が再開するということもあり、学生にとって気の重い一日となるはずであったが、僕たちについては例外であった。その理由は、言うまでも無い。
「じゃあ、今週いっぱいはとりあえず休校、ってことなんだな」
「おう。あと、葬儀は身内だけで行なうのと、自宅にも来るなってさ。可哀そうだが、仕方ねぇよな。事情が事情なだけに、な」
「そうか……まあ、そうだよな」
そう、木村が死亡したために、西光学園高等学校はしばらく休校となったのである。当然、世界史教諭であった彼の後釜を見つけなければならないし、生徒や教員たちの動揺を少しでも軽減させる必要がある。この状況で、むしろ休校にしない方が不思議であった。
「しっかしよぉ……」
行儀悪く頬杖を突きながら、金子はトントン、と不機嫌そうにテーブルを軽く叩く。
「なんで水島んとこに、休校の連絡が来てねぇんだよ。おかしいだろ」
「……そんなこと、僕が知るかよ。担任の武田にでも聞いてくれ」
「あー、あのイケメンマッチョ、先輩のクラス担任なんでしたっけ。先輩、何か嫌われることしたんですかぁ?」
「してない……と、思うけどな。わかんないけど」
歯切れの悪い返答に、高城は不服そうに口を尖らせつつストローでアイスコーヒーをかき混ぜる。カラカラという氷とコップの当たる音が、『カフェテラス・ボム』の狭い店内へ小さく響く。
人をいつ不快にさせたか、それが分かるものなら苦労はしない。今となっては『サヴァン症候群』なんかより、そういう能力の方がよっぽど欲しい。人の心さえ分かれば、どうやったって上手く生きていけるのだろうから。
さて、それはともかく……僕たちがどうしてここ『カフェテラス・ボム』へと集まっているのか。なぜ顧問的な役割を担っていた木村が亡くなったばかりであるというのに、自粛もせず呑気にカフェで会話をしているのか。その答えは、およそ二時間前……正午過ぎまで遡る。
いつものように昼食は軽くカロリーブロックで済ませた僕は、昨日見た『ハルマチ』という女性のブログの内容を抜粋し、代々木にある東京総合国際病院のホームページや間柴 忠に関する情報を閲覧していた。しかし、情報を集めていく毎に、計画の無謀さが浮き彫りとなってゆく。
「厳しい、よな。やっぱ……」
東京総合国際病院は、病床数も四百を超える総合病院だ。通常の外来ともなれば、大勢の患者でごった返すだろう。そんな中、小児科ブースの近くで待ち伏せるにしても、よほどタイミングが良くなければすれ違うことすら困難だ。
それに、都心の大型病院のセキュリティが、そう甘いとは思えない。万が一不審者扱いされれば、それこそ両親や箱崎の耳にも届くだろう。それだけは意地でも避けねばならない。
大きく溜息を吐き、どうにか上手い方法は無いかと思い悩み、天井を仰ぐ。
すると――――
「ん……?」
僕の耳に、微かに振動音のようなものが届いた。ゆっくりと、ベッドの上に置いていたスマートフォンへ視線を移すと、その画面にはチャットアプリの新着メッセージ通知が表示されていた。
誰かがメッセージを入れたのだろう、と軽く考え、僕はまたモニターへと向かい直した。だが、その後も断続的にメッセージがやり取りされているらしく、微弱ながらも耳につく音が静かな部屋に谺したのだ。
あまりに耳障りであったため通知を切ろうとも考えたのだが、また身を案じられるようでは困る。昨日は僕の様子に気付いたのが出水だったから良かったものの、あれがもし高城であった場合、どれほど詰られるか想像に難くない。通知を切るのは止めておこう。
「はあ……」
軽く頭を掻きつつ、不本意ながらも情報収集を諦めた僕はチャットアプリを起動し、彼らの一連のやり取りを目に通した。
その選択は、結果的に正しかった。何故なら、グループチャット内で話し合われていた内容というのが、「今後の活動についてちゃんと話し合いたい」、というものであったからだ。
これを見落としていた……もとい、無視していたならばそれこそ非難囂々であっただろう。危ないところであった。
しかし、これは頭をリフレッシュするいい機会である。暗い家の中、一人で悶々としているよりは誰かと話をする方が良いに決まっている。それに、出水はともかく金子や高城のような明るいキャラクターと会話すると、運気も前向くかもしれない。活動のリーダーでもあるし、ここは積極的に仕切るべきだろう。
そういうことで、改めてチャットに参加した僕はホームグラウンドである『カフェテラス・ボム』を待ち合わせ場所とし、全員を招集するに至った、という訳だ。
「ま、それはどーでもいいですけど。それより……」
相変わらず僕たちしか客のいない店内を軽く見渡すと、高城は妙に声のトーンを落とし、僕へと問い掛ける。
「活動……続けます、よね」
高城はいつになく真剣な眼差しを僕に向ける。たった一言ではあるが、そこに強い想いが込められていることは明白だ。やはり彼女も僕と同じく、学校での居場所を失いたくないのだろう。
先ほどから作り笑いしか見せていない出水へ、ちらっと視線を送る。僕の視線に気付いた彼女は、音もなく頷いた。そして僕の隣に座る金子もまた同じく、口角を上げて僕を見つめている。みんな、気持ちは同じであるようだ。
それならば、この活動の代表として出す結論は一つである。
「……ああ、もちろん」
「そう、ですか。良かった……」
ほっとした様子で高城は大きく息を吐くと、だいぶ氷が解けて薄くなったカフェラテを一口含んだ。そんな彼女へ、僕はまだ少しだけ言葉を付け加える。
「ただし、事情が事情だ。当面はアップせず構成とか、そういう作業を中心にしていこうと思う。さすがに不謹慎だし、そもそもカメラが無くなった以上、撮影なんてできないし」
「そう、ですよね。それはもちろん、理解して……って、カメラが、無い?」
少し物悲し気に俯いたと思いきや、高城は即座に顔を上げて呆然と返す。
「お、おい水島……カメラが無いって、どういうことだ⁉」
「あ、えっと……」
笑顔を浮かべていた金子すらも驚愕し、人気のない店内へ声を響かせる。出水は特に表情を変えていないものの、僕の話に興味があるようで、じっと凝視している。
決して失念していた訳ではないが、カメラを紛失したという件は西野と真中以外、僕は誰にも話していなかったのである。全員がこうして驚くのも無理はない。
もちろん、事件直後は全員にカメラの件を話せるほど、僕には余裕が無かった。いや、たとえ余裕があったとしても、容易に切り出せるような話題だとは言い難い。何の変哲もないカメラが盗難に遭ったのだ、そんな不気味な出来事を、おいそれと話せるものか。
しかし、全員がある程度落ち着いて話せるようになった今、その事実を黙っておく必要はもう無いだろう。全員に活動を継続する意志がある以上、打ち明けておかねば。
「そうだ。あの日、金子が撮影機材を片付けてから……えっと、そうだな……僕が学校に戻ったのが午後四時くらい、かな。その間に、カメラは無くなってたんだ。状況からして、多分だけど盗まれたんだと思う」
「はぁ? そんなバカな。ちゃんと探したのかよ」
「当たり前だろ。僕だけじゃなく、西野や真中……えっと、ほら。高城は知ってるだろ、あの態度の悪い女の警察官。あの人と一緒に探したけど、無かったんだよ」
「ああ、あのイヤな人かぁ……仕事だけは出来そうですしね、あの女」
「マジかよ……」
戸惑いつつも、真中のことを思い出したらしく高城は眉を顰めた。一方の金子は、その事実をすぐには受け入れられない様子で、肩を落としながらもテーブルに肘をつき、こめかみ辺りを指でなぞる。
「なんであんなものを……金に困ってた、とか? んな訳ねぇよな」
「ああ、それは……恐らくだけど、木村先生が転落するまでの間の様子を、僕が撮っていたからだと思う」
「は? なんでまた」
指の動きを止め、金子は目を丸くして僕へと問う。その疑問は尤もだが、ちゃんとした理由がある。それに加えて、ここにはその証人もいるのだ。
「屋上に人影があったからさ。奇妙だな、と思って。そうだよな、高城?」
「え? あー、そういえば。先輩、電源ボタンを押そうとして、間違えて録画しちゃったんでしたっけ」
「……ズームだ。それに、間違えて押したんじゃない。焦って手が滑っただけだ。勘違いするな」
「あれ、そうでしたっけ。どっちにしろ、危なっかしい操作でしたねぇ」
「……」
こいつ、本当に腹が立つ……。まあいい、今はそんなことに構っている暇など無い。録画していたという事実さえ共有できれば、一先ずそれでいい。
あのカメラが盗まれる理由といえば、木村が転落した様子を撮影したデータが残っていたためだと考えていい。つまりあの映像があれば、少なくとも死ぬ間際の木村が異常な様子であったと証明できるのだ。犯人があの事件を自殺で処理させたいならば、確かに隠滅しておくべき証拠と言えよう。
しかし、そうだとすれば納得できないことがある。自殺に見せかけたいのならば、どうして空き教室に木村の血を溜めたバケツを放置したのか。そんな物証があれば、転落時の映像など無くとも自殺ではないと判断されるだろうに。
だからこそ、映像だけは見つからないようにする理由……それが分からない。まあ、そんなことを話し合ったところで、答えが導き出せるものでもない。箱崎や真中からの吉報を待つとしよう。
「ゴホン……それで、だ。とりあえずカメラの件は警察に任せてるから、そこは安心していい。見つからなかったら、みんなで金を出し合って買うしかないけど」
「ま、そりゃしょうがねぇだろ。また出水の親にねだる訳にもいかねぇしな」
「ですね。カメラの無事を祈りましょ」
「うん……そう、だね……」
意外なことに、カメラが盗まれた理由について口にする者はいないようだ。いや、それもそうか。木村の死因については、今のところ正式に発表されていない。転落死ではなく失血死であると知っているのは、警察を除くと僕、それに西野くらいである。
せっかくだ、木村の死因についてもみんなに話しておくとしよう。本来は、僕以外の人間に捜査情報を漏らしてはならない。しかし箱崎曰く、『建前上は』……つまり、僕が必要だと感じた場合は多少の情報流出も止む無し、という意味を孕むのだ。
それに、ただ情報を流出させるのとは訳が違う。他でもない、顧問であった木村の死について、なのだ。彼の事件が自殺なのか他殺なのかでは、彼の死に対する受け止め方がまるで違う。ここは、正しい情報を周知させておくべきだろう。
遺体の胸ポケットにあった、西蓮寺の絵『エンプーサ』。空き教室にあった、バケツいっぱいの血液。そして、あの写真に写る人物との関係……話す内容はたくさんあるが、まずは西蓮寺の絵について、話し始めよう。
頭の中で情報を整理し、いざ口を開いたその時であった。ふと時計を見た金子が、慌てて立ち上がったのである。
「あ、ヤベッ! そろそろ塾の時間だ、帰らねぇと」
「へ……?」
金子の声につられ、僕を含めた全員が時間を確認する。時刻は午後三時……通常ならば塾の始まるような時間ではないが、今はゴールデンウイーク期間なのだ。詰め込み教育を行なう塾ならば、特殊な時間割を組んでいても何ら不思議ではない。
「あー、そっか。金子先輩、受験組なんでしたっけ。大変ですねぇ」
「うっせ、他人事だと思いやがって。……つーことで、悪いな。先帰るわ」
「だったら、みんなで帰りません? もう話し合う内容もありませんし、遅くなると何かと物騒ですし。ね?」
「え、あ、ああ……」
木村の件について語る予定だったはずが、あっという間に解散する流れとなってしまった。この状況でみんなを引き留める訳にもいかないし、仕方がない、この話はまた後日に取っておくとしよう。
冷静に考えれば、飲食店で話すような内容でもない。非常にグロテスクなものであるため、万が一の場合、店を出禁にされてしまう恐れもある。僕にとって唯一の贔屓店なのだ、そういう事態は避けるべきだ。
高城の意見に従い、大人しく外へと出たところで空を見上げる。雲に覆われているせいか、コンクリートに包まれた世界がいつもより薄暗く思えた。これは、早めに帰宅する方が無難だろう。
「さて、と。僕はJRに向かうけど、みんなは?」
「私もJRです。由惟は、えっと……丸ノ内線で良いんだよね?」
「う、うん。御苑前から、一本……中野の方、だから」
「お、じゃあ俺と同じだな。荻窪だし」
「そうか、じゃあ……みんなで御苑前まで行って、そこで解散かな。それでいいか?」
僕の提案に、全員は特に意見することもなく軽く頷いた。
ここ、『カフェテラス・ボム』から南へ向かうと新宿御苑前駅、西へ向かうとJR新宿駅が見えてくる。金子と出水が新宿御苑前駅を利用するならば、そこを経由して新宿駅へと向かえば問題ない。そう距離的にも遠くなるものでもなく、御苑前駅のある新宿通りを歩く方が治安の面からも安心できるだろう。
僕らも新宿御苑前駅を利用すれば早いことは早いが、その分お金がかかる。金銭的に苦労している訳ではないが、この程度の距離くらいは歩かないと体に毒だ。それに、ずっと座りっぱなしだったこともあって、体を動かしたい気分でもあったのだ。
その後、他愛のない会話を交わしているうちに呆気なく駅へ到着した。名残惜しそうに見つめる出水と、時計を見てまた焦り出した金子に別れを告げ、残された僕と高城は、また大して意味のない話をしながらJR新宿駅へと向かう。
その途中、新宿通りを進み、ちょうど志摩丹が見えてきた頃のことであった。人を避けながら、僕はふと高城へと問い掛ける。
「そういえば、高城の最寄りはどこなんだ?」
「最寄りっていうか、通学に使うのは五反田ですね。家、高輪の辺りなんで。先輩は?」
「駅で言うと、恵比寿かな。広尾との間くらいだから、時間で……おっと」
「あ、痛っ!」
会話に入り込んでしまった僕は、正面から来た女性を避け切れず軽くぶつかってしまった。僕の方は少しよろけた程度であまり影響を受けなかったのだが、一方の女性は転倒し、小さく悲鳴を上げる。
「あ、す、すみません!」
「もー先輩、なにやってんですかぁ……だいじょぶですか?」
咄嗟に頭を下げる僕に対し冷ややかな視線を送った高城は、すかさずその女性へと手を差し伸べる。少し派手な衣装を身に纏ったその女性は、少し呻き声を上げつつ伸ばされた高城の手を握り返す。
「ああ、ありがとう。大丈夫よ……」
「本当に? まだ痛ければ、そのへんで休――――」
そう言って、その女性は顔を上げて笑顔を向ける。だが、その顔を見た瞬間、僕は凍り付いた。高城もそれに気付いたようで、握り返された手を繋いだまま動けずにいる。
柔らかく、整った目鼻立ち。長く美しい黒髪と、それに似合わない奇妙な衣装……。
そう、僕が偶然ぶつかった女性は、西蓮寺 真冬であった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!