「っ……!」
急いで振り返ると、間柴の背中はまだ目で追える範囲にあった。すぐに駆け寄れば、容易に追いつけるほどの距離である。
こんなチャンスは、滅多にあるものではない。相手は外来対応中の医師で、駅でのやり取りを考えれば性格的にもあまり優れた人間ではないのだろう。話しかけたところで無視されてしまう可能性は高い。だがそれでも、僕の過去を知っていると思われる数少ない人間の一人なのだ。ここで見逃してなるものか。
「よし……あっ」
しかし、今の僕には彼を追いかけるだけの体力は残されていなかった。それどころか、間柴の存在に気付き勢いよく立ち上がった拍子に体のバランスを崩してしまい、その場にへたり込んでしまう始末であった。
「あら、大丈夫ですか?」
すぐ傍を歩いていた看護師から心配そうに声を掛けられ、僕は慌てながらも平静を装い答える。
「あ、その……え、ええ。ちょっとふらついただけ、ですから」
「そうですか。また具合が悪くなりそうでしたら、遠慮なくお声がけくださいね」
「は、はい……」
優しく微笑み立ち去る看護師の背中を軽く睨み、改めて間柴の後を目線で追う。しかし、もうすでに彼の姿はそこに無かった。僕が看護師に気を取られる間に、どこかへと消えてしまったのだろう。
もはや溜息すらも出てこない。待ち望んだ好機であったというのに、みすみす逃してしまうとは。僕は本当に、こういうところで詰めが甘いのだ。
無論、あの看護師を憎む訳にもいくまい。彼女は看護師として、当然の仕事をしたまでなのである。それに文句をつけては、あまりにも理不尽すぎる。むしろ、こんな挙動不審な僕を相手でもすかさず声を掛けた彼女の行動は、医療従事者として讃えられるべきだ。
それにしても、あの男が間柴だったとは。確かに思い返してみると、例の写真に写る間柴と彼の顔は瓜二つである。僕の父親とは異なり、まるで外見上の変化は見られない。強いて言えば、少々老けたことくらいだろう。
ああ、駅のホームで気付いていれば、こんなことにはならなかっただろうに。……いや、あの時点では間柴にとって、僕はとても悪い印象しか抱いていなかった。そんな状態で話しかけても、ロクな結末にはなるまい。
「はぁ……何やってんだか、僕は」
もう間柴の後を追うことは諦め、大人しくベンチへと座り直す。ここで彼と言葉を交わせなかったことは残念だ。しかし、これが最後の機会であるという訳では無い。こうして出会えたということは、またどこかで遭遇できる可能性もある、ということなのだから。
しかし、随分と待たされているように思える。西野と出水が化粧室へと消えてから、もう十分は経った。身だしなみを整えるついでに用を足したとしても、さすがに長い。
「まさか……」
僕の脳裏に、志摩丹での出来事が浮かぶ。あの時とはかなりシチュエーションが異なるものの、どうにも嫌な予感がしてしまう。このまま二人が戻らないようならば、病院のスタッフに頼んで中を見てもらおう。
誰も知り合いが傍にいないという不安要素も加わり、額から嫌な汗が滴り始めた、ちょうどその時。僕の心配とは裏腹に、西野と出水はゆっくりと、何事も無かったかのように化粧室から出てきた。
「な、なんだ……」
どうやら、出水の寝癖は想像以上に手強いものだったらしい。シャワーを浴びてきたのかと勘違いするくらい、彼女の髪は湿っていたのだ。それでも、先ほどの酷い髪形よりは圧倒的にマシではある。着衣の乱れも直り、これならばそこまで違和感のある姿ではない。
「お待たせ。なかなか直らなくて、結局びしょびしょになっちゃったわ」
そう言って苦笑する西野の隣で、出水はバツが悪そうに僕から視線を逸らす。別に、そう負い目を感じる必要は無いのだが……彼女にも多少は羞恥心というものがあるのだろう。
「ああ、見れば分かるよ。お疲れ様」
「ええ、本当に。……ああ、そうだ。さっき化粧室で高城さんのお母様に会ったのだけど、私たちの面会、OKなのだそうよ」
「は?」
不意に驚きの情報がもたらされ、僕は思わず気の抜けたような返答をしてしまった。そんな僕の間抜け面が面白かったのか、西野は小さく噴き出しつつも、すぐに真剣な表情へと戻し話を続ける。
「事件が事件なだけに、個室に一人でいるよりも知った顔が傍に居た方が良い、ってことらしいわ。ご両親は仕事の都合で一時的に離れなくちゃならないそうだから、逆に私たちがみてくれると助かるみたい」
「仕事って……娘が刺されたのに、随分と薄情なんだな」
「そう言わないであげて。大人には、色々と事情があるのでしょうから。さて」
チラ、と一瞬だけ西野は腕時計へと視線を落とす。そして小さく頷いた後、出水と僕の顔を交互に見つめる。
「それじゃ、私はここで家に帰るわね。本当は生徒会長として、あなたたちを見張っていなきゃいけないかな、と思ったのだけど……そういう訳にはいかないもの」
「は? 見舞いにはいかない、のか?」
「ええ。さっき出水さんには話したのだけど、高城さんと私は、その……ほら。あまり相性がいいとは言えないじゃない? だったら、気心知れたあなたたちが傍に居た方が、よっぽど良いかなって思って。それに、夏……水島くんの顔を見て分かったの。二人は別に、やましい行動をしていた訳じゃない、って」
つまり、本当ならば当日の行動について高城にも問い詰めようと考えていた、ということなのだろう。だが、僕の話や高城の容態を考慮して、大人しく引き下がる決意をしたようだ。
すっかり忘れていたが、個人的な繋がりは別として西野と僕たち活動メンバーは、まだ睨み合いを続けているのだ。ならば、高城の面会に西野が行くというのは不自然である。幾ら生徒会長とはいえ、入院した生徒一人ひとりを見舞う者などいない。それが敵対する関係の生徒ならば尚更、である。
「本当にいいのか?」
「良いの。よく考えれば、あなたが女子に、しかも高城さんに手を出せるとは思えないから。この状況で遅くまで遊んでいたなんて、って思ったけど……有り得ないわよね」
「有り得ない、です。絶対に」
「おい、そこ。妙なとこで意見を一致させるな。さすがに怒るぞ」
確かに、僕から女子に……それどころか、男子にすらも声を掛けられないことは事実だ。しかしそれでも、はっきりと口にされると大いに傷つく。もう少し、昨日僕が経験した出来事を考慮して欲しいものだ。
僕の反応に満足したのか、西野は小さく微笑むとそのまま身を翻し、病院を後にしていった。気丈に振舞ってはいたが、その足取りは少しだけふらついている。やはり西野も、それなりに疲弊していたのだろう。
「大丈夫かな、西野……」
「それは分からない、けど。会長さん、本当はみんな、気にしてる。美琉加も、先輩も」
「うん、それは分かる。分かるけど、なんていうのかな……素直じゃないよな」
心配して来たのならば、一瞬だけでも高城の顔を見れば良かっただろうに。お陰で、『新人類計画』について話しそびれてしまった。まあ、出水が一緒にいる状況では語れなかったのだから、結果は同じなのだが。
「ま、いいか。それより、高城の部屋に急ごう。さっきの話だと、もう高城の両親はここにいないんだよな?」
「う、うん。忙しそう、だった」
だとすれば、少なくともこの三十分程度の間、精神の不安定な高城は個室で一人きりとなってしまっているはずだ。これ以上、彼女に負担を与えてはいけない。
「よし。で、病室はどこだ?」
「あっち、一番奥らしい、です。でも先輩、一つ、聞いていい?」
「ん? なんだ」
決して駆けず、しかし足早に院内を進み始めた僕へ、出水はおずおずと問い掛ける。
「なんで会長、先輩を下の名前で呼ぶの?」
「……」
「仲良し?」
なんでこの状況で、そんな質問を。しかも何やら、いつも以上に興味深げな様子だ。西蓮寺の絵を見た時とはまた異なる、純然たる好奇心、とでも表そうか。しかし、残念だが出水の質問に答えることは出来ない。これは僕と西野、二人だけの問題なのだ。
「ねえ、なんで?」
「……機会があったら教えてやる。それより、早く行くぞ。高城が待ってる」
「あ、う、うん」
そんな機会は来ないだろう。僕が僕を許さない限り未来永劫、訪れやしない。
そう心の中で吐き棄て、僕は脇目も振らず病室へと向かう。昨日、僕のせいで不幸な目に遭ってしまった後輩へと謝罪するために。
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