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小欅 サムエ
小欅 サムエ

3-6

公開日時: 2021年2月6日(土) 18:31
文字数:5,593

 午後七時を過ぎ、ようやく僕は自宅の前へと辿り着いた。都心の高級住宅地であり、この時間になっても人通りは比較的多い。こうして無意味に家の前で佇んでいると、どうしても周囲の人間から怪しまれるものだが、それでも僕はこの家の中へと入ることが出来ずにいた。

 

 それと言うのも、はっきりとリビングダイニングに灯りが点いていると視認したから、である。僕は基本的に、両親が普段過ごしているリビングダイニングへと立ち入ることは無い。故に、あの部屋の電気が煌々こうこうと灯っている、ということは、つまりそういうことなのだ。

 

「……」

 

 つい一時間ほど前、西蓮寺さいれんじの話を聞いて湧き上がっていたはずの感情は鳴りを潜め、むしろ幼少期に叱られてきた記憶ばかりが想起される。どうやら、過去に植え付けられた恐怖心というのは、どれほど時間が経過をしても風化しにくいものらしい。

 

 しかし、ここで躊躇していても埒が明かないことは事実だ。『サヴァン症候群』、『新人類計画』……それらについて、ちゃんと自身の耳で確認しないことには何も始まらない。

 

「よし」

 

 軽く両頬を叩き、活を入れ直す。そして鼓動だけが脳内に響く中、僕はゆっくりと玄関のドアを開けた。

 

 そこで僕は、一つの違和感に気付く。玄関だけならばまだしも、リビングダイニングへと通じる廊下の電気すらも灯されていなかったのである。

 

「あ、れ……?」

 

 通常、午後七時などの早い時間帯であると、トイレへ繋がる廊下の電気も点けておく場合が多い。特に両親の場合、省エネルギーなど環境面への関心は薄かったと記憶している。用を足すためだけに、わざわざ電気を点けたり消したりするという労力を、極端に嫌う人種であったはずだ。

 

 単純に消し忘れ、であろうか。僕が外出したのは昼間であったし、灯りが点けっぱなしであったかどうかなど確認しようが無い。そうだとすれば、一応合点がてんの行く結論だ。

 

「はあ、緊張して損した……」

 

 まあ、あえて灯りを点けておくことで空き巣による被害を防ぐ、という意図もあるのだろう。一気に緊張の糸が切れてしまったが、どうせ両親が帰宅するのは夜遅い時間帯だ。一応、リビングダイニングの様子を確認した上で、彼らが帰宅するまで自室で待機しておくとするか。

 

 拍子抜けした僕は、軽い足取りで廊下を突き進み、リビングダイニングへと繋がるドアを開ける。暗闇から急に明るい部屋へと踏み入れたため、目が慣れるのに少々時間を要したものの、ほんの数秒もしないうちに僕の視界には部屋の光景が映し出された。

 

「……ずいぶん、さっぱりしたな」

 

 久しぶりに入ったこの部屋は、家族が生活しているものとはとても思えないほど小奇麗であった。どこかのショールームであると紹介されても特に疑念を抱かないくらい、余計な物は置かれていない。

 

 考えてみれば、この部屋に入ったのは中学卒業以来……もう二年以上ぶり、ともなる。僕が足を踏み入れなくなった以上、ここで必要となるものといえば食器だとか、家具一式程度である。

 

 両親は自宅で仕事をすることが無かったし、重要書類の類に油などが染みることを防ぐため、別室で処理することが多かった。加えて子どもも入らないとなると、必然的にこうした部屋へと変貌を遂げるのであろう。

 

 しかし、それにしても生活感が無さすぎる。中学以前までは僕が壊してしまった西野にしの家との写真だとか、観葉植物だとか、そういったものが配置されていたのだが……これも、もしかすると箱崎はこざきの言っていた、世間からのバッシングが影響しているのかも知れない。

 

 精神的に病み、子どもに辛く当たるようになり、そしてただ仕事のためだけに生きる屍と成り果てた。そうだとすれば、この光景にも説得力が生まれよう。

 

 無論、同情などする訳がない。自業自得なのだ、これくらいの罰を受けて当然だろう。

 

「さて、と……」

 

 リビングダイニングの現状を把握したところで、僕はさっさと自室へ戻るためきびすを返した。だがそこで一つ、嫌な予感が脳裏を過る。

 

「今日、帰ってくるのかな……」

 

 そう、もし両親が出張などで今日中に帰って来なかった場合、僕はこのヤキモキとした感情を抱えたまましばらく過ごす羽目になるのだ。それは是非とも避けておきたい。

 

 今日中に帰ってくるのかどうか、それが分かれば多少は精神的負担も軽減されるだろう。あまり気は進まないが、彼らのスケジュールを確認しておかねば。もちろん、スケジュール帳を放置するような両親では無いため、確認する手段とすればカレンダーくらいであろう。

 

 だが、残念なことにそれすらも叶わなかった。

 

「カレンダー……も、無いか」

 

 異常なほど殺風景な部屋である。当然のことながら、卓上型のものも含めカレンダーが存在しているはずがない。やはり改めて考えても、これは異常である。ここまで生活のすべてを放棄するような事象が、彼らの身に起きたと考えるのが自然だろう。

 

 そうなると、だ。もしかすると、この部屋も含め家のどこかに、何か両親を狂わせた要因のヒントが隠されているのでは無いだろうか。僕の人生を破綻させた人間たちなのである、彼らのことを少しくらい調べ返したとしても、文句を言われる筋合いなどなかろう。

 

「ふう……よし」

 

 気を取り直し、玄関の方へと神経を集中させつつ、手始めにリビングダイニングを物色し始める。とはいえ、ここにあるのは食器棚と、以前まで写真立の置かれていた大きめのチェスト、それに収納椅子、テレビボードくらいなものだ。そう時間はかかるまい。

 

 まずは食器棚を開けてみるが、そもそもガラス張りであり開けたところで食器以外に目立ったものは存在しない。むしろ、僕が以前使用していた食器が跡形もなくなっており、両親の異質さが浮き彫りとなっただけであった。

 

「ここまで頭のおかしい連中だったなんてな……」

 

 忘れかけていた怒りが噴出しかけるも、大きく息を吐き感情を抑え込みつつ、棚の扉を閉めた。僕はもう、以前の僕とは違う。こんなことで癇癪かんしゃくを起こしたりなどするものか。

 

 活動のメンバー、それにずっと僕を支えてくれた西野 心深ここみがいるのだ。両親が僕のことをどう思おうと関係ない。

 

 相変わらず静かな室内を移動し、収納椅子、そしてテレビボードと開けてみる。しかしテレビボードには機材の外に納まっておらず、収納椅子に至っては空っぽであった。これならば、収納機能のない椅子でも充分であっただろうに。

 

「ふっ……」

 

 ここまで何もないと、もう笑うしかない。まあ、僕の成長を期待した上で買い揃えたのかも知れないが、それをすべてぶち壊したのは彼ら自身なのだ。まったく、愚かしいものだ。

 

 そして最後に、僕にとっては少し嫌な思い出のある茶色のチェストへと向かう。近づいてみると、あの時に付けたであろう傷がまだ残っており、それが僕の心に少しだけ突き刺さる。

 

 あの頃までは、表面上は幸福な家族だったのだ。そう思うと、このチェストの存在はある意味、思い出の品、とも言えようか。

 

 そんなことを考えつつ、まずは一番上の抽斗ひきだしを開ける。特に変わった様子はなく、判子などの小物や、僕にはよく分からない役所関係の書類が束になっているのみであった。

 

 二段目も同じように書類だけ入っており、これといって気になる点は無い。この様子では、恐らく三段目も同じであろう。

 

 やはり、父親の書斎からまず調べるべきだったか。しかしその部屋に関しては、家の中であるというのに常時施錠されており、その鍵を持っているのは父親だけである。官僚という立場である以上、家族にも見せられない類の文書が山のようにあるのだろう。その部屋に入るには、さすがに彼の承諾を得なければ色々と問題がありそうだ。

 

「やっぱ、さっさと部屋で休めば良かったかな……」

 

 そう恨み言にも近い言葉を零しつつ、チェストの最下段を開ける。すると思った通り、同じように書類が積み重なっているのみであった。

 

 しかし肩を落とし、軽く天井を仰いだ時であった。

 

「うわっ、と!」

 

 これまでの疲労、それに栄養不足が祟ったのか、蹲踞そんきょを保つことが出来ず体のバランスを崩し、チェストの取っ手を握ったまま後方へとひっくり返ってしまった。背中をフローリングに打ち付けるのと同時に、抽斗を完全に抜いてしまい、大きな物音が室内、それどころか家中へと響き渡る。

 

「あー、痛って……くそっ」

 

 背部に伝わる痛みに加え、間抜けな姿勢で転倒した自分に腹を立てつつも、完全に引き抜いてしまった抽斗を元に戻すため、急ぎ両手で抱え込んだ。だが両腕に力を込めた時、ふと抽斗の中へ視線を落とすと、妙なことに気が付いた。

 

「ん……?」

 

 抽斗が、妙に軽いのだ。軽いといってもそう極端なものではないが、他の二段と比較すると明らかに軽い。無論、中身の重さによっても当然重さは変わるものだが、記憶している限りでは、中身の量に大差はない。僕はその程度のことすらも記憶できるのだ、間違いないだろう。

 

 それに、考えてみると長さも短い。チェストの奥行に対し、奇妙ともいえるほど容量が少ないのだ。余程の不良品か、もしくは……。

 

何かが奥にある……のか?」

 

 大きな物音を立てたことで跳ねていた心臓が、また一段と激しく動き出す。あまりの脈拍の強さに体ごと動いているような、気色の悪い感覚に支配される。

 

 こんな細工をするということは、少なくとも何らかの重大な秘密が奥に隠されている、と考えるべきだ。一般的な家庭であれば、男性が隠すものなどたかが知れているだろうが……僕の家の場合は、それとはまったく異なるのだ。

 

「……」

 

 喉が鳴る。じわりと汗が噴き出す。玄関へと向けていたはずの神経が、今はすべてこのチェストへと向けられる。この先に広がる世界は、想像を絶するものに違いない。

 

 しかし、躊躇ためらっている場合ではない。万が一、この状況で両親が帰宅してしまえば、当然妨害されるだろう。この奥にあるものを処分してしまう可能性が高い。

 

 そうであれば、もはや決断をするしかない。僕はもう、十年前の出来事を……水島みずしま 龍太郎りゅうたろうの罪を知ってしまったのだ。今さら引き返すことなど、出来ない。

 

 抽斗をゆっくり床へ下ろし、恐る恐る、空となったチェストの奥へと視線を向ける。暗くてよく見えないが、どうやら小箱のようなものが一つあるように思える。

 

 一度、大きく息を吐き、玄関へと耳を傾ける。今のところ、玄関どころか家の前を通り過ぎる車の音すらも聞こえてこない。やるならば、今しかない。

 

「っ!」

 

 意を決し、勢いよく奥へと両腕を伸ばし、小箱を手に取った。外観は至って普通の、木製の小箱である。鍵もついておらず、何か重要な書類が収納されているとは思い難い。

 

 サイズとしてもA四用紙どころか、文庫本一冊入るかどうか、それくらい小さなものである。どちらかというと子どもの宝箱、とでも評すべきだろう。もしや、母親のへそくり入れなのだろうか。それならば、この大掛かりな仕掛けにも多少は頷けるが……。

 

「……開けて、みるか」

 

 先ほどよりも張りつめた糸が僅かに弛緩したせいか、さほど躊躇いを感じることなく僕は小箱を軽い調子で開けた。

 

「ん? これは……」

 

 その瞬間、僕の目に飛び込んできたものは、あまりにも僕の想像していたものと異なっていた。木製のフレーム、笑顔で写る二つの家族……。

 

 そう、これはあの時、西野へと投げつけてしまった写真立である。

 

「な、なんだ……」

 

 完全に力が抜け、へなへなとその場に座り込む。こんなものを後生大事に、しかもチェストに細工までして隠すとは、何とも意味不明である。

 

 まあ、僕のせいで西野の家族とは険悪になってしまったのだ。この写真を堂々と飾っておく訳にもいかないし、恐らく僕の母親が思い出として隠しておいたのだろう。今となっては永遠に撮影されることのない、唯一の家族写真なのだから。

 

 しかし、あの父親と同じような性格を持つ母親にしては、随分と人情味の深い真似をするものだ。もしかすると、僕の教育方針は父親が全権を握っており、母親はそれに従っていただけなのかも知れないな。それで彼女の罪が消える訳ではないが。

 

「はあ、疲れた……」

 

 結局、この部屋には何も無かったとなれば……やはり父親の書斎を探るしか、どうにも出来ないのだろう。今から書斎の鍵をこじ開けるには、もう体力が無い。今日のところは、もう寝てしまおう。

 

 深く溜息を吐き、元の状態に戻すため小箱の蓋を閉じようとした際、ふとその写真に視線を落とす。写っていたのは数年前の自分と、両親。そして西野へと目を向けた、その時である。僕は一つ、大きな違和感に気が付いた。

 

「……あれ?」

 

 そこに写っていた少女は、小さな背丈で短めの髪、そばかすの多い顔に決して高くない鼻……容姿端麗で誰もが畏怖するあの生徒会長とは、まるで別人だったのである。

 

「誰だ、この女の子……これ、昔の西野なのか?」

 

 何度も確認し、軽く目を擦ってみたが、事実は変わらなかった。もちろん、彼女以外に僕と同年代くらいの女子は写っていない。紛れもなく、これが数年前の西野なのだ。

 

 まさか、美容整形でもしたのだろうか。いや、幾ら何でも中学生以下の年齢の子どもに、美容整形など行なわないだろう。特殊な事情があるならばさておき、この写真だけで考えれば少女の容姿には病的な素因は見当たらない。

 

 だとすれば、この写真の少女は一体……。

 

「なんだ、これ……うっ!」

 

 その刹那、僕の頭が割れるように痛み出した。比喩表現などではなく、本当に割れてしまうのではないか、とパニックになるほど強烈な痛みである。

 

「ああ! 痛い、痛い痛い!」

 

 小箱を放り投げ、その場でのたうち回る。自然と涙が零れ、口からも唾液が溢れる。頭の痛みで感覚が麻痺してしまったようで、手足をあちこちにぶつけているにも拘わらず、痛覚は頭部だけに集中していた。

 

「あ、ぐ……ああっ!」

 

 そして、一層強い痛みに襲われた僕はついに耐え切れなくなり、そのまま気を失ってしまった。

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