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小欅 サムエ
小欅 サムエ

3-4

公開日時: 2021年1月16日(土) 19:18
文字数:4,069

 梅雨入りを前にした生温なまぬるい風が僕たちの間を縫い、駆け抜けてゆく。その風は不意に滴り落ちそうになった僕の汗を拭い去り、すべての感覚を奪う。

 

 そんな呆然とした表情を浮かべ硬直し切った僕らを前にし、顔を上げた西蓮寺さいれんじは不思議そうに首をかしげる。

 

「えっと、あの……何か?」

「あ、いえ! その……」

 

 唐突に現実へと引き戻されたのであろう高城たかしろは、狼狽うろたえつつも必死に繕う言葉を選び始める。繕おうとしたところで、すでに数秒ほど顔を見つめ合ってしまっているのだから、何をしてももう遅いことは確かである。

 

 さて……少し取り乱してしまったが、冷静に判断してみれば、この状況はかなりの僥倖だ。それというのも、例の写真に写っていた人物の中に、この西蓮寺がいたのである。東京総合国際病院の小児科へと潜り込むより遥かに安全で、しかもある程度素性の知れた相手と話す方が気分としても軽い。

 

 どう切り出そうか、悩ましいところだ。高城のいる手前、直接事件について問いただすことは難しいだろう。まずは、先日の件について話を振ってみるとするか。

 

「お、お久しぶりです、西蓮寺先生。あの、覚えてますでしょうか?」

「え? あなたは……」

 

 僕の声に反応し、西蓮寺はゆっくり立ち上がると僕の顔を眺め始める。そして、そう時間のかからないうちに、彼女は少し口元を綻ばせる。

 

「ああ、確か……個展にいらっしゃった出水でみずさんの彼氏、でしたか。こんなところで奇遇ですね」

「え、彼氏?」

 

 つい先ほどまで無理に平静を装おうとしていた高城は、その言葉に強く反応を示し、僕の方へと振り返る。不意をつく発言であったためか、その表情はいつもの茶化すようなものではなく、単純に驚愕した様子だ。

 

 何をそんなに驚く必要があるのか少し戸惑いつつも、軽く溜息を吐いて西蓮寺の話を否定する。

 

「……違います。会場でも否定したと思いますけど、僕は出水の先輩です。それ以上でも、それ以下でもありません」

「あら、そうだったかしら……ごめんなさいね。あの事件の後、警察の方々からずいぶんと長く質問されたものですからね、記憶があまり出来ていなくって」

「それは……いえ、こちらこそ無神経でした。すみません」

 

 よく考えれば、偶然にもあの事件に遭遇した僕たちはもちろんのこと、無関係であるならば西蓮寺も被害者の一人だ。そんな彼女が、僕のしょうもない話を覚えていられるとは思い難い。少しは彼女のことも気遣うべきだった。

 

 無論、本当に彼女が事件と何も関わりが無いならば、だが。

 

「気にしなくていいわ。あなたも事件現場を見てしまったのでしょう? 私の絵が苦手なのですから、相当しんどい思いをしたでしょうし。まあ、私も本物を見るのは初めてでしたから、驚きましたけどね」

 

 そう言うと、高城から伸ばされた手を笑顔で制しつつ西蓮寺はゆっくりと立ち上がる。特に大きな怪我をした、という雰囲気では無さそうだ。大きく安堵しながらも、僕はまた一つ彼女に問いかける。

 

「えっと……本物、とは?」

「……」

 

 僕の問いに対し、西蓮寺は僅かに表情を曇らせる。その反応から察するに、先ほどの発言は明らかに無意識であったと云えよう。

 

 しかし、思いがけず口にするにしては違和感の強い言葉だ。幾ら彼女の創作物である『ギロチン』において切断された生首を描いていたとしても、あの遺体を目にして『本物』と呼ぶのは異常である。何故ならば、『本物』と称するほど克明に、あの凄惨な光景を想像していた、と言えるためだ。

 

 それが出来るのは、精神的に破綻している人間であるか、もしくは事件を予見していたか……前者の可能性も捨てきれないが、状況的に後者であると考えて然るべきであろう。真中のことをイメージしていたかどうかは分からない。だが、不自然であることは確かだ。

 

 すると、西蓮寺は周囲の雑踏へと視線を送り、苦々しく微笑みながら一筋の冷や汗を垂らす僕へと返答する。

 

「言葉の綾よ。知っての通り、私はあまり趣味が良いとは言えない絵を描いていますから。現実に見てしまうと、恐怖よりも驚きの方が強いの。理解はできないかも知れないけれど、そういうものなのよ」

「でも、それにしても……」

「うーん……何か私を疑ってるみたいだけど、あなたの考えてるようなことは無いわ。それに、好奇心旺盛な年ごろだから仕方がないのでしょうけど、警察の真似事なんて止めなさい。あんな事件なんて忘れて、出水さんやそこの彼女と真っ当な高校生活を送ればいいの」

「……」

 

 周囲の目を気にしながらも、西蓮寺は顔をしかめて強く言い放ち、きびすを返す。無論、疑いの目を向けられて気分を良くする者などいない。ただでさえ個展が取り潰されたのだ、彼女が不快感を示すのもよく理解できる。

 

 それでも、僕は退かない。この一連の事件は、僕に関係している可能性が高いのだ。それに僕は、そう簡単に忘れることなどできない。

 

「僕は、忘れられないんですよ」

「は……?」

 

 歩みを止め、怪訝な顔つきで振り返る西蓮寺へ向け、話を続ける。

 

「僕は、『サヴァン症候群』なんです。あの事件も含め、過去にこの目で見た出来事はすべて記憶しています。いえ、記憶してしまうんです。僕の意思とは無関係に、すべてを」

先輩センパイ……」

 

 唐突に持病を打ち明け出した僕へ、高城は不安げな顔を向ける。勘の良い高城のことだ、いつもとは違う不穏な空気を察知したのだろう。しかし、僕の決意を汲み取ってくれたようで、発言を止めるような真似はしてこなかった。さすが、僕の大切な後輩だ。

 

 僕の話を受け、西蓮寺は一瞬だけ眉間に皺を寄せた。だが、すぐさま目を見開き、ゆっくりと近づき始める。

 

「サヴァン、症候群……もしかして……」

 

 ポツリとそう零した西蓮寺は、僕の顔をじっくりと覗き込む。そして唇を震わせながらも、確かめるようにはっきりとした口調で僕へと問い掛ける。

 

「あなた、水島みずしま 夏企なつきくん、かしら……?」

「え……?」

 

 不意に告げられた、僕の名前。それが鼓膜を伝い脳内に反響し、体中が雷に打たれたように固まった。

 

 吹き付ける都心の嫌な温いビル風も、まるでその温度を感じさせない。行き交う雑踏の音色も届かず、ただ西蓮寺の声だけがこだまする。

 

 どうして、西蓮寺が僕の名を。もちろん、志摩丹しまたんの個展ブースでフルネームを教えた記憶もない。出水の先輩である、としか話していないはずだ。

 

 加えて、彼女は僕がサヴァン症候群である、と打ち明けてようやく思い至った様子なのだ。それはつまり、彼女は僕の持病についても知るほど交流があった、と断定できる。しかし僕は彼女のことを全く覚えていない。これほどの美人で、しかも奇怪画家などという強烈なインパクトを持つ人物を、この僕が忘れるなど有り得ないのにも拘わらず、だ。

 

 あるとすれば、僕がサヴァン症候群を自覚した小学校入学以前に、どこかで親交を深めていた可能性だが……そうなると、一体……。

 

 跳ね回る心臓と乱れ舞う思考に苛まれ固まったままの僕へ、西蓮寺は嬉しそうに、しかし頬に涙を伝わせながら話を続ける。

 

「やっぱり、夏企くん、だったのね……そうよね、もうあれから十年も経つんですもの。生きていれば、こうしてちゃんと大きく育つのね……」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 理解が及ばず、一度仕切り直すため強引に話を遮る。そして、まだ早鐘を打つ胸を押さえつつ、呼吸を整えて問い質す。

 

「えっと、話が全然見えてこないんですけど……西蓮寺先生は、僕と面識があった、ということですか? それって、やっぱり僕の父、水島 龍太郎りゅうたろうと関係が?」

「……どうして?」

 

 水島 龍太郎、と口にした瞬間、西蓮寺は緩んだ口元を真一文字に結び、静かに切り返した。あまりの豹変に戸惑い、紡いだはずの言葉が喉元でほつれる。

 

「ど、どうして、って……その、えっと……」

「どうして、そこであの男の名前が出るの。夏企くんも、私も……あの男に全て狂わせられたのは明白じゃない。確かめるまでもないのに、そんなこと……!」

 

 憎悪に満ちた眼と声に圧し潰され、僕はただ口をパクパクと動かすことしか出来ずにいた。共に写真に納まる仲であったはずの二人が、ここまで拗れた関係になるとは……一体、過去に何があったのだろうか。

 

 その時、明らかに雲行きが怪しくなったことを察した高城は、素早く僕たちの間に割って入ると、一つの提案を持ち掛けた。

 

「あ、あの! こんなところで立ち話というのもアレですし、場所を移しませんか? ここだと、ほら。他の人から怪しまれちゃいますし」

 

 確かに高城の言う通り、新宿の中でも比較的往来の激しい道であるため、僕たちのやり取りを横目にする人間は多かった。先ほどの調子で西蓮寺が声を荒げていれば、場合によっては通報されかねない。場所を変えるという案は適切だろう。

 

「……そう、ね」

 

 高城の声を受け、ようやく冷静さを少し取り戻した西蓮寺は、頬に残った涙の痕を軽く拭う。そして摩天楼のひしめく夕空を仰ぎ、大きく息を吐くと疲れた表情で僕を見つめる。

 

「ごめんなさい。あまりに驚いたものですから、取り乱してしまって。でも、夏企くん。一つ確認したいのだけど……さっきの話から考えて、あなたは何も覚えていないと思っていいのかしら。十年前、あなたの父親が何をしたのか」

「え、ええ。調べても何も分からなくて……それで、西連寺先生に聞いてみようかと……」

「そう。それなら、教えてあげてもいいわ。でも」

 

 より一層、品定めするような視線を僕に向け、話を続ける。

 

「でもね、きっと後悔すると思う。知ってしまったら、もう後戻りはできない。何も覚えていなかった頃には引き返せないわ。それでも、知りたい?」

「……はい」

 

 その決断は、とっくに済ませている。今はただ、自分自身の過去を知りたい。ちゃんと知って向き合いたいのだ。

 

 すると、僕の意思に揺らぎが無いと確信したようで、西蓮寺は小さく頷くと腕時計へと視線を落とし、溜息交じりに口を開く。

 

「分かったわ。気は進まないけど、あなたがそう決めたのなら私は何も言わないわ。そうね……あまり聞かれたくない話ですし、良ければ家にいらしてください。そこで話しましょうか」

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