汗が首筋を伝ってゆき、背筋を撫でる。嫌な感触に支配されながらも、僕はようやく言葉を絞り出すことができた。
「さ、さーて! せっかく主演の二人がいることだし、雰囲気だけ撮影させてよ。ほら、いろいろと調節しないといけないからさ!」
そう、窮地に追い込まれた僕が思い付いた妙案とはカメラリハーサル……つまり、本番さながらに撮影をするリハーサル、通称『カメリハ』であった。
あまり聞き馴染みのない言葉かもしれないが、テレビ番組の撮影では日常的に行なわれているものである。通常のリハーサルは演者の最終確認という側面が強い一方、カメリハの場合は主に撮影側の予行演習となる。
これをしていないと、たとえ台本通りに高城たちが喋ったとしても、うまく撮影できなかったがために撮り直し、となってしまうこともある。映像作品は、最終的に映像となったものが評価に繋がる。だからこそ、演者だけでなく撮影者のリハーサルも非常に大事なのだ。
本来ならば、台本がないままやることではない。とはいえ、全体の流れはおおよそ決まっているはずなので、カメリハだけ先にやっていても問題は無いだろう。
「あー、カメリハっすか。いいですよ……っていうかぁ、いっつも思ってたんですけど、先輩ってカメラの扱い下手ですよね。一人で大丈夫ですか? できます?」
「……おい、馬鹿にすんな。高いカメラだから緊張してるだけで、別に不器用な訳じゃないからな」
「ふうん? 本当に大丈夫かしら。強がりにしか聞こえないのだけど。ふふっ」
クソッ、二人して僕を馬鹿にしやがって。まあいい、僕の機転のためか先ほどの嫌な空気が和やかなものへと変わりつつある。この程度の犠牲は仕方がない、早いところ撮影に取り掛かろう。
「それじゃあ、そうだな……」
この場所からだと……ちょうど、講堂から校舎の正面玄関へと向かう場面が映せる。講堂の脇に大きな桜の木が植えられているので、それをまず『引き』で撮ってから正面玄関へ移し、二人に『寄る』。校舎もチラッとだけ映るし、イメージとしてはこれでいいだろう。
「まずは、講堂の横……桜の下まで移動して貰っていいか? 『引き』で桜と校舎を、『寄り』で二人の画を撮ろうと思うんだけど」
「ふうん……なるほど、分かったわ。あ、でもまずはそのイメージのまま、カメラを動かしてみたら? どういう映像になるのか、私も一度確認しておきたいし」
「ああ、それもそうだな。ええっと……?」
西野の言う通り、ただ撮影するだけなら二人を玄関前に立たせる意味はないか。ただでさえ蒸し暑いというのに、時刻はそろそろ正午を迎えようとしているのだ。僕だけならばともかく、二人に余計な負担を与えない方が良いだろう。
それならばと思い、より画角を自由に決めやすいよう三脚からカメラを外す。あまり手で持って撮影したことは無いのだが、いきなり固定した映像を見せるよりはイメージしやすいだろう。
「よし。それじゃ、カメラテスト、っと……」
「先輩、その持ち方だとブレますよ。もっと姿勢を正して」
「指の位置がおかしいわ。そこだと、上手くズームが出来ないと思うのだけど」
「……」
ただカメラを構えただけで、これほどボコボコに指摘される人間がいるだろうか。撮影に関しては初心者であるはずの西野にすら、そんなことを注意されるとは……もう撮影はいつもの通り、金子や出水に任せて僕は監督役に徹しよう。これ以上傷つけられては、僕の精神力は保てない。このまま撮影を続けられてしまえば、きっと泣いてしまう。
散々貶されて心が折れそうになった僕は、気をしっかりと保つため、事前にイメージした通りにカメラを動かす。新緑の桜の木と、少しくすんだ乳白色の講堂から、校舎へとゆっくり移動させてゆく。
すると――――
「ん?」
校舎を映した時、僕はその異変に気付いた。『引き』で撮った、三階建ての校舎の屋上……普段ならば業者以外は立ち入りが禁じられている場所に、誰かがいる。
カラスか何かだろうか、と一度目を擦り再度確認してみるも、見間違いではない。あれは、人影……それもスーツのような、硬い衣服を身に纏う男性である。屋上の簡素な低い柵に手を掛けたまま、男性が一人立ち尽くしていた。
休日を利用して、屋上に設置された冷却塔の点検に来た業者の人だろうか。いや、それならばスーツ姿で来るはずが無い。教師がタバコを吸いに来た、というのも考えにくいだろう。そもそも休日であるし、この高校には喫煙室もあるのだ。そうだとすれば、あの人は一体誰なのだろうか。
「どうしたんすか、先輩。ボケーっとしちゃって」
「いや……屋上に誰かいる、みたいだ」
「え?」
僕の言葉を受け、二人は揃って屋上を見上げる。ここから校舎までは三十メートルくらいであり、誰かがいることまでは視認できるものの、顔まではよく見えない。アフリカ大陸の先住民族ならば見えるかも知れないが、ごく普通の日本人である僕たちに識別までは不可能だ。
「ほんと……でも、誰かしら。スーツっぽいから、先生?」
「いやいや、先生だとしても、どうして屋上にいるんですか。というかあの人、なんかこっち見てません? ちょっと先輩、ボーっとしてないで、そのカメラでズームしてくださいよ。そしたら見えるかも」
「ああ、そうか」
すっかり忘れていた。カメラを使って拡大すれば、この距離でもある程度は顔も見えるはずだ。こういうところで、あまりカメラの扱いに慣れていないことが浮き彫りとなってしまう。
幸いにも、屋上にいる人物はこちらの様子に気付いていないようで、まったく動く気配を示さない。これだけ微動だにしないとなると、本当にタバコを吸っているのだろうか。それにしては、煙の一つも見えないが……。
仕方がない、屋上にいる人物には悪いが、拡大させてもらおう。そう決断した僕は、カメラのズーム機能を用いて少しずつ、屋上にいる人物へと焦点を当ててゆく。
「よし、これで……あれ?」
「どうっすか? やっぱりタバコですか?」
「あ、いや……でも、おかしいな」
興味津々の様子で子どもっぽく笑顔を向ける二人であったが、一方で僕はその人影の正体を知り、少し首を傾げる。何故ならば、その人物は忙しくて僕たちの活動には参加できない、と言い放った教師だからである。
「……木村、先生だ」
「え?」
二人も、僕の答えに納得のいかない様子で、口々に疑問の声を上げる。
「木村先生って、ゴールデンウィーク中は来れない、って話じゃありませんでしたっけ。まさか、面倒だったから言い訳して逃げたんですかね?」
「そんなことは……もしかしたら、仕事の合間に私たちの状況を、こっそり見守るつもりなのかも知れないわ。何で屋上にいるのかは分からないけれど、手でも振ってみる?」
「うーん……」
西野たちの言う通り、木村が不審な行動をしていることは確か、か。手を振る、というのはさすがに子どもっぽく恥ずかしいし、もう一度カメラで木村の表情を確認してみることにした。
「えっと、拡大……あ」
思わぬ出来事に動揺したためか、間違えて録画ボタンを押してしまった。僕の声と共に、録画開始を告げる、ピピっという起動音が二人の耳へと届く。
「ちょっと、何やってんですか先輩。木村先生なんか撮ってもデータの無駄でしょ」
「ご、ごめんごめん。えっと、停止を……ん?」
高城に冷たい目を向けられ、慌てて録画を停止させようとした時だった。ふと、画面の方へと視線を落とすと、大きく拡大された木村の顔が全面に映し出されていたのである。
それは、いつものあの、穏やかで人の好さそうな男の表情では無かった。目は虚ろで、顔色は真っ青……重度の貧血を患っている人間でも、ここまで白くはならないだろう。まるで全身から血が引き抜かれてしまったかのようで、もはや人の肌であるとは思えない。
おかしい。幾ら何でも、昨日会った時とは様子が違い過ぎる。あの時は、無駄話を始められるほど体調には問題なかったはずだ。それがどうして、あそこまでの顔色になるのか。
「ふ、二人とも。おかしいぞ、ちょっと他の人を呼ん――――」
異変に気付き、画面から目を外して二人に言いかけた、その時であった。
屋上にいた木村が、ふらりと少し動く。強風に煽られた立て看板のように、一切抗うことなく前方の低い柵へと倒れる。
その低い柵は木村の体重に負け、鈍い音を立てて壊れる。支えを失った木村は、成す術もなくそのまま地上へと落下していく。
僕の目には、その様子がまるでコマ送りのように見えた。半回転しながら、ゆっくりと地上へ近付いてゆき、そして――――
ドスッ
木村の身体は、鈍い音と共に僅かに砂塵を巻き上げ、玄関前へと叩き付けられた。
「え……」
目の前で一体何が起きたのか、すぐには理解できず僕たちはそのまま立ち尽くす。倒れたままの木村はピクリとも動くこと無く、僕たちの間を縫うようにして通り抜けたビル風が、彼のスーツをはためかせるのみであった。
「せ、先生! 先生!!」
「……え、あ、ちょっと!」
呆然としたままの僕を現実へと引き戻したのは、西野の叫び声であった。足を縺れさせながらも、木村の元へと駆け寄る西野の後を追いつつ、僕は未だに硬直したまま動けないでいる高城へと指示を出す。
「た、高城! 急いで他の人を呼んでくれ! あと救急車と警察だ!」
「へ……あ……」
「落ち着いてからでいい、頼んだぞ!」
そう言い残し、僕は改めて西野の後を追う。ここまで取り乱す西野の姿は初めて……いや、二度目だ。普段冷静な彼女がこうしてパニックに陥ったからこそ、僕は却って冷静に高城へ指示を出せた、ともいえる。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。状況からして、木村は恐らく……いや、まずは状態を把握することから始めよう。
「先生! しっかりしてください!」
すでに木村の傍へと辿り着いた西野は、躊躇いも無くその身体を起こそうと腕を伸ばし始めていた。
「待て西野、触るな!」
「でも、でも!」
寸でのところで彼女を木村の元から引きはがし、震える西野の肩を抱いてゆっくりと諭す。
「落ち着いてくれ。今、高城に警察と救急車を呼んでもらってる。ここで下手に動かしても、内臓とか脳に衝撃が加わると良くない。だから、頼む」
「……本当に、本当に大丈夫なの……?」
「それは……」
実際のところ、三階建ての校舎の屋上から受け身の姿勢を取ることなく落下したのだから、まず助かることは無いだろう。今できることは、現場をなるべくそのまま保存しておくことだけだ。
ただ、この情報を現在の西野に伝えるのは良くない。これだけ不安定な精神状態の彼女に、これ以上の負担を与えることは避けるべきだろう。しかし、それをどうやって説明すべきか……。
思い悩む僕の表情から汲み取ったのか、西野はまだ体を震わせながらも、僕へ弱々しく微笑みかける。
「いえ……ごめんなさい。迷惑をかけたわね、夏企」
「え?」
「大丈夫、ちょっとまだ混乱はしているけれど……もう、平気」
そう言うと、西野は気丈にも僕を優しく押しのけ、大きく息を吐きながら周囲を見渡す。
「生徒は、多分大丈夫そうね。あとは、他の先生たちが来たら任せましょうか。それまでは、ここで見張っておきましょう」
「あ、ああ……」
さすがは生徒会長だ。取り乱しはしたものの、しっかりと現実を受け止め頭を切り替えることが出来ている。その代わり、少し頭を整理する時間が生まれたためか、僕の身体の方がむしろ震え出してきている。
目の前に倒れているのは、死体なのだ。それも、昨日まで会話を交わしていた木村の。その事実が遅効性の毒のように、じわじわと僕の精神を蝕んでゆく。
「ご、ごめん、西野。後は任せても良いかな。ちょっと、眩暈、が……」
「夏企?」
そう言いかけたところで猛烈な眩暈に襲われた僕は、後ろへとひっくり返り、そのまま目を閉じる。眩い太陽の光も徐々に届かなくなり、ついには深い闇の底へと堕ちていった。
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