僕の目の前に立ち塞がる女性は、西野 心深。この学校の生徒会長である。
端正な顔立ち、モデル並みの抜群のスタイル、腰ほどまで伸びた綺麗な長い髪……その上、成績も常に学年上位であり続ける、まさに誰しもが憧れる完璧美少女である。学校中、いや初等部などを合わせた学園全体でも、知らない者など存在しないほど彼女は有名であった。
ただし、その振る舞いはあまりにも真面目であり、憧れる存在ではあるが、付き合うとなるとどうしても二の足を踏んでしまう。そのため、彼女に関して浮いた話などは一切聞いたことが無い。
無論、噂話には疎い僕であるから、もしかすると恋愛経験はあるのかもしれないが……今はそんなことなど、どうでもいい。
問題は、その彼女がこうして殺気を帯びた状態で僕を見つめている、ということだ。
「ねぇ、聞いてる? 水島くん?」
「う……」
ただの生徒会長であれば、僕たちも適当な嘘を吐いて難を逃れようと思案したことだろう。しかし、普通の生徒会長とは訳が違う。相手は、あの西野なのだ。
先ほども言った通り、彼女は品行方正を絵に描いたような存在である。そして、彼女はルールに則らない者……そう、僕のような道を外れた人間を敵対視する。いや、正確に言えば、敵対ではなく更生させようとお節介を焼くのだ。それも、母親かと言いたくなるほど強烈に。
つい先日も、あの悲惨な結果となった僕たちの動画をどこかで閲覧したらしく、烈火の如く指摘を受けていた。
彼女曰く、
「これはただの妄想に過ぎないわ。こんなことをしている暇があるのなら、授業の復習をするとか、友達と健全な遊びをするとか、そういう時間に当てなさい。社会に物申すなんて、高校生の領分を越えているわよ」
なのだそうだ。
確かに、マイナンバー制度により監視社会が始まる、というのは健全な高校生の抱く思想ではないし、反政府的であることも事実だ。ちなみに再確認しておくが、これは金子の発案であって、僕の抱く思想とは異なる。
しかしその主張には、到底頷くことなどできなかった。高校生だろうと、いや、物心のついた幼児ですら、自己主張は可能である。その自由は、日本国憲法において保障されているのだから。それもあって、僕は彼女に真っ向から対立した。
「そ、そんなこと誰が決めたんだよ。学生時代に何をするかなんて、自分たちで決めることだろ。義務教育でも無いんだし、口出しされる謂れはない!」
と、ほとんど喧嘩腰になっていた僕は、感情に任せて切り返した。
それ以来、彼女は何かにつけて僕たちの活動に……いや、活動のみならず、校内での生活態度に至るまで、全てに口を挟むようになっていた。
そのおかげでここ最近は動画をロクに製作することも出来ず、無為な日々を過ごす羽目になっていたのだ。学校の備品を借りることが出来なくなり、コピー機一つ使うことも儘ならない……権力者に盾突くと、全く面倒なことになると強く実感したものだ。
まぁ、彼女が僕たち、特に僕の行動に逐一突っかかるのには、もう一つ理由があるのだが……それは今、語るべきではないだろう。
とにかく、そんな事情があったために、まさかこうして彼女が部室で待ち構えているとは想像できなかったのだ。だからこそ金子も僕もすっかり油断して、部室前の廊下で堂々と、あんなことを口にしてしまったと言えよう。
「……」
口を噤むしかない。何の用でここに来たのかは知り得ないが、彼女の様子からして廊下での僕たちの会話は聞かれていたと推測して良いだろう。そうであれば、とにかく黙っている以外に、この嵐をやり過ごすことなど不可能だ。
「なにを黙っているのかな……私の質問に、答えられないの?」
ジリジリ、と間を詰めてくる。その、明らかに怒りを隠している笑顔が、徐々に僕に迫りくる。これは……黙っていてもやり過ごせないかもしれない。マイナンバー制度に対する都市伝説を動画にしただけで、あれだけ非難されるのだ。事件に関する考察をアップする、だなんて、あの西野が許すはず無い。
「か、金子……」
助けを求めるため、背後にいるはずの友人へと声を掛ける。しかし、それに対する返答は無い。何者かが遠ざかってゆく足音だけが、僕の耳に届く。
「? ……金子?」
不審に思い、横目で彼を視界に捉えようと試みる。すると、そこにあったはずの彼の存在が忽然と消えていた。人体消失マジックの如く、彼の姿は失せていたのである。
そう、僕は見捨てられたのだ。こともあろうに、全責任を押し付けられる形で。これは……最悪の展開だ。
「に、逃げやがったのか……!」
「ふぅん……? 誰から、どうして金子くんは逃げようと思ったのでしょうね?」
込み上げる怒りを抑えきれず、つい言葉として表してしまう。目の前に強大な敵が立ち塞がっているというのに、全く僕は不用意なのだ。
西野は、もはや笑顔を繕う気も失せたようで、みるみるうちに憤怒の形相へと変えていく。こうなってしまえば、もう言い訳も出来そうもない。しかし正直に話したところで、許されるような話でもない。これは、諦めるしかない、のか。
すると、ジリジリと追い詰める西野の向こうから、一人の男性の声が聞こえてきた。優しい、しかし彼女の迫力に怯えるような、頼りない声であった。
「ま、まぁまぁ西野さん、落ち着いてよ。水島くんたちだって、本心でそう言っているとも限らないんだしさ。それに、若い頃にはいろいろと無茶をしておくのも、成長のためには必要だとボクは思うんだけど……ね?」
「……木村先生」
スッと僕から目を外し、西野は背後にいる木村へと冷たい視線を送る。部屋の隅にある椅子に座っている木村は、その視線を浴びてビクッと反応し、少し小さくなった。まさに蛇に睨まれた蛙、と言ったところか。まぁ、僕も人のことは言えないのだが。
そこで睨まれている彼は、木村 一良。どういうわけか僕たちの活動を応援してくれている、世界史の教員だ。定年の近い年齢らしいのが、黒々とした毛髪に、頼り甲斐のなさそうな雰囲気……どう好意的に捉えても、ベテランの教師とは思えない。雰囲気だけなら、数学の高橋の方がよほど歳上に感じてしまう。
「元はと言えば……学校の広報動画を作成するという名目で、ここの使用許可を出したのは先生じゃありませんか。なのに、あんな世間の不安を煽るような動画を制作しても何の処罰もなく、しかも容認しろと言うのですか?」
「あ、あぁ……いやその……」
怒りの矛先を向けられ、木村は一気にしどろもどろとなる。これでは、一体どちらが教員で、どちらが生徒なのか全く分からない。震える声で、ああだ、こうだと言い訳がましく捲し立てる木村に、はぁ、と西野は大きなため息を吐く。
「もう、いいです。この件に関してはさすがに度が過ぎていますので、校長先生に報告させていただきます。それと……水島くん」
「は、はいっ!」
急に視線を向けられ、体が石のように硬直する。その迫力は、もはやメデューサの域だ。
「逃げていった金子くんと、出水さん……あとは高城さんね。四人で協力して、学校のPR動画を制作しなさい。そうね……中間試験も考慮すると、ゴールデンウィーク明けには完成させて。そうすれば、先ほどの件は水に流しましょうか。校長先生に報告する件も含めて、ね」
これには、従わざるを得ない。これを断れば、単純な話……少なくとも謹慎、ないし相当なペナルティを科せられることとなる。そうなれば、必然的に付属大学への入学も白紙となり、熾烈な大学受験戦争を開始しなくてはならなくなる。
それと、今目の合った木村……彼にとっても、校長へそんな報告が行くのはマズい。監督不行き届きとして、場合によっては職を失う可能性すらある。定年間近でクビとなれば、それこそ老後の生活に大きな支障を来す。
それを考えれば、破格の条件だ。西野にとっても、更生させるいい機会だと判断したのだろう。木村は、僕に何かを目で訴えているようだが……そんなことをせずとも、もう答えは決まっている。
「……分かりました。ゴールデンウィーク明けということは……五月七日、ということですか」
カレンダーを見て、改めて残された日数を確認する。今日が五月一日であるから、制作期間はもう一週間もない。幾ら授業は休みだからといっても、かなり大変な作業となることは目に見えている。
「……クオリティは問わず、で良いでしょうか」
「却下。少なくとも……そうね、再生回数が三桁に乗れば認めることにしましょうか。もちろん、私の校閲が済んだ動画を上げるように」
それは、僕たちの過去の動画の再生回数を見た上での発言なのだろう。要するに、無理難題を押し付けて、さっさとこの活動を叩き潰したいのだ。腹が立って仕方が無いが……そもそも、自分たちで蒔いた種であるので何も反論出来やしない。
「西野くん、それはあまりにも――――」
抗議しようとした木村を、西野は目で制する。その眼力により、木村は開けた口を再び閉ざした。
満足げな西野とは対照的に、お通夜のような重苦しい空気が僕の周囲に漂う。そんな中、不意に部屋の奥から女性の声が響いた。
「会長、ちょっといい?」
「えっ⁉」
この場にいた全員が、その声に驚き飛び上がる。一斉にその声のする方向へ視線を移すと、そこにはショートヘアで眼鏡をかけた女子生徒が、部屋の隅に座っていた。
「で、出水さん……いつの間に」
出水 由惟……僕の後輩であり、しかしこの部屋にある動画編集用の機材、それにハイスペックPCに至るまで、全てを提供してくれた女子生徒である。正確に言えば、提供してくれたのは彼女の両親であるが、それは別にどうでも良い。
彼女は僕たちと同じく、付属中学からこの高校へと入学した生徒である。どこで知ったのかは定かではないが、僕たちの活動に目を付け、高校入学と同時にコンタクトを取って来たのだ。
当初は些か怪しかったこともあり、断ろうと考えたのだが……動画制作に対する熱意、それに彼女の両親から頼まれてしまったこともあり、活動メンバーへと受け入れたのだった。どうしてそこまで、こんな弱小の活動に興味を抱いたのかは不明であるが、可愛い後輩が出来たことに対する喜びは、相当に大きかったことを覚えている。
その上、両親がPC関連の仕事を行なっているためか、彼女自身もかなりそれらへの扱いに長けていた。僕たちが悪戦苦闘していた動画投稿、編集、音声の合成……それらの作業を、物凄い速さでいとも簡単にこなしてしまう。逆に、僕らの立つ瀬がないほどであった。
欠点を上げるとすれば、彼女はほとんど自分から喋ろうとしない。何か聞かれたとしても、大抵は一言、場合によっては「ん」の短音で終わらせることもあった。僕が言うのもおかしな話であるが、少しは会話をしたらどうなのか、と思うところである。
その上、彼女は気配を消すことが非常に上手い。だからこうして、今の今まで誰にも気付かれなかった、という訳だ。
「いつの間に、って……最初から」
さすがに傷ついたのか、心外だ、と言わんばかりに眉を顰め、西野を見つめる。そして、暇つぶしに読んでいたのであろう本を閉じた後、徐に立ち上がった。
「会長も動画、作ろう。手っ取り早いし」
「……は?」
思わぬ提案に、僕と西野は同時に声を上げた。何を言っているのか分からず、呆気に取られる僕たちを見て、出水は小首を傾げる。そんな僕らのやり取りを見て、木村は軽く噴き出した。
口を閉じ直し、西野はまた木村を強く睨み付ける。
「何を笑ってるんですか、先生……」
「あ、あぁいや……それもそうだよね、学校のPR動画の制作に、生徒会のメンバーが誰も関与していないなんて変だよね。西野さん、これは君も腹を括るしかないんじゃないかな?」
「ぐっ……」
正論であるが故に西野は全く反論できず、ただ苦々しい表情を浮かべている。苦々しいのはこちらも同感だが、確かに道理であるし、この堅物に少しは僕たちの苦労を理解してもらえる可能性もある。
「それに、会長は美人。再生回数、伸びるはず。お願い……」
出水は、純粋な瞳で西野をじっと見つめる。本人は無自覚のようだが、それは痛烈な殺し文句であった。美人と称されて悪い気になる人間など、そうはいない。それは、西野でも例外ではなかった。
観念したように、天井を見上げる。どこか照れ隠しのようにも見えて、それが少しだけ可愛く思えた。
……ほんの少しだけ、だが。
「……わ、分かりました。こっちも生徒会の仕事で忙しいのだけど……しょうがないわ。それじゃ、撮影の日時とか、詳細が決まったら連絡して」
そう言い残し、やや上機嫌で部屋を去っていく。僕はホッと胸を撫でおろし、出水へ無言で親指を立てる。肝心の出水は、その行動の意味を理解していないようで困惑しているが、助けられたことは確かだ。
ホッとしたのは木村も同じようで、すっかり緊張の糸が解けたように柔和に微笑む。
「それじゃあ、ボクもここで戻るけど……今日のところは、二人とも早く帰りなさい。動画の内容を考えるために、ね?」
「ええ、先生の未来のためにも、ですね」
「……はは、笑えないよ、それ……」
苦笑いしつつ、木村も静かに部室を去っていく。残された僕と出水は、無言で顔を見合わせた。帰るにはまだ早い時間だが、木村の言う通り、動画の脚本も検討しなければならない。それを考えると、少し気分を変えた方が良い気もした。
「じゃあ、僕も帰るけど……出水はどうする?」
僕の問いかけを受け、出水は窓の外を見る。きっと、陽の傾きを見て時刻を確認したかったのだろう。僕の言葉を無視している訳ではなさそうだ。
それに釣られて、僕も窓の外を見る。夕焼け色に染まった新宿の街並みは、何やらこの世の終わりのようにも見えて、少し薄気味悪かった。
少しの沈黙の後、出水は何かを思い出したように、こちらへと向き直り、口を開く。
「そうだ……頼みごと、ある」
「頼みごと? 良いよ、助けてくれたお礼だ、なんでも言ってくれよ」
「助け? あの……志摩丹、行きたい、です。一緒に」
「志摩丹?」
それは、思いがけないデートのお誘いであった。ムードもへったくれもない中、彼女は無表情で、嵐が過ぎ去ったことで油断していた僕へと言い放ったのである。
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