不意に現れた長い髪の女性の存在により、僕は驚きのあまり声を失う。だが、そんな僕の表情に気付くことも無く、西野は少しだけ安堵を浮かべ、弱弱しく微笑みながら駆け寄ってくる。
「夏企! どうしたの、こんな時間、に……」
途中までは、彼女の目には僕の隣にいる真中が映っていないようであったが、やがてその足をピタリと止め、先ほど浮かべていた表情を一気に曇らせる。
そして軽く眉間に皺を寄せつつ、西野は真中へと静かに問いかける。
「……どうして、警察の方がいるんです。何のご用ですか」
相手が警察官、しかもあの真中であるというにも拘わらず、普段通りの……いや、それ以上に迫力の感じる目力で、西野は真中を睨み付ける。一方の真中は、そんな西野をまるで気にする様子もなく、淡々と彼女の質問を受け流す。
「ああ、お前は確か生徒会長の西野、だったか。なら、社会常識くらい理解しているだろ。警察が、事件とは無関係の高校生に捜査情報を漏らす、なんて甘いことを考えている訳ないよな」
「……ええ、その通りですね、失礼をいたしました。ですが、私は先生が屋上から転落するまでの間、ずっと彼の傍におりました。それならば、私がお二人に同行しても、何ら問題はないのではありませんか?」
西野は、正論を突き尽きられてもなお引き下がろうとはせず、むしろ尤もらしい理由……屁理屈そのものであるが、それをつけて真中へと投げ返す。そんな彼女の姿勢と目力に根負けしたのか、真中は小さく舌打ちをしつつ、口を開く。
「はあ……分かったよ。言っておくが、捜査の邪魔をするようなら即刻帰ってもらうぞ。まあ、今回はコイツか撮影した映像とやらを回収しに来ただけだ。そう深くまでは調べないさ」
「そうですか、映像の。ありがとうございます」
心にもない謝礼を述べると、西野は一転して不安げな表情を僕に向ける。
「それで、夏企。映像って……もしかして、あの?」
気が動転したままなのか、西野は僕の名をいつも通り『水島くん』、ではなく『夏企』と呼んでいることに気付いていない。だが、それを今さら指摘したところで意味の無いことである。警察が相手であるし、僕たちの関係など少し調べればわかることなのだ。むしろ隠す方が、先ほどの僕のように不利な立場となり得る。
「あ、ああ。木村先生が落ちるまでの間、一体なにがあったのかを調べるために必要なんだってさ。そうだ、西野なら知ってるんじゃないか? あの後、カメラは誰が回収したんだ?」
「えっと、カメラは……ごめんなさい。先生たちを呼ぶのと、夏企の介抱で手いっぱいだったから、ちょっと分からないわね。でも多分、金子くんとか、他のメンバーが撤収したんじゃないかしら」
ああ、そうだった。僕は木村の転落事故を見て、そして情けないことにその遺体を目の当たりにして倒れてしまったのだ。幾ら死体を立て続けに見ることとなったとはいえ、本当に僕は弱い。
しかし、そうだとすればカメラなどの撮影機材であれば、部室にあるはずだ。僕たちの活動に欠かせない、命ともいえる道具を粗末に扱うなど、あのメンバーであれば考えられない。非常事態でも、そこは金子を筆頭に冷静な行動がとれると確信している。
「じゃあ、部室に……そういえば、どうして西野はここに?」
「警察との話が終わって、帰ろうかとも思ったのだけど、ちょっと心配になってね。偶然現場に見合わせて、不安に思っている生徒がいたら可哀そうでしょう? それに、間違った情報を流されても困るもの」
「ああ、そういうことか」
さすがは、全生徒から畏れられる生徒会長だ。ここまで献身的に生徒たちをサポートしようとする人間など、教師の中でもそう見つからないだろう。彼女も、あの現場を見て混乱しているだろうに……。
すると、また少し苛立ち始めた真中が、僕たちに聞こえるくらい大きな音を立てて息を吐いた。早くしろ、という彼女の意思は、言葉にされなくとも充分に伝わってくる。
「す、すみません……では、部室に」
これ以上、真中の神経を逆なですることだけは避けようと考えた僕は、急ぎ足で部室へと向かい、鍵を開ける。部室の机の上には、、出水と金子が創り上げる途中の脚本、それに学校の資料が乱雑に置かれたままであった。よほど慌てたのだろう、誰かのバッグも置き去りとなったままである。
「汚いな」
「すみません、いつもはもうちょっと片付いて……っと、あった」
足を踏み入れるなり、不快な表情を見せる真中に少し腹を立てつつも、僕はいつも出水の使っているPCの横に、少し乱雑に積まれた撮影機材の入った箱を発見した。この積み重なった三個ある段ボール箱のどれかに、あの現場を撮影したカメラも入っているはずである。
詰まれた箱を一直線に並べ、一つずつ開けていく。西野も僕の隣に座り、雑然と物が詰め込まれた箱から機材を取り出してゆく。
「もう、どうして綺麗に片付けられないのかしら……こっちには無いわね。そっちは?」
「慌ててたんだろ。いつもなら、この辺に……あ、あれ?」
「どうした」
「す、すみません……おかしな……」
いつも機材を入れていた三つの箱のいずれにも、カメラは見当たらない。他の機材だけしまって、肝心なカメラを回収し忘れる、なんてことがあるだろうか。
いや、それは有り得ない。木村が転落した際、僕は確かに三脚へとカメラを取り付け直したはずだ。ならば、三脚だけがここにあって、カメラが無いというのは異常だ。充電中なのかと疑い、周囲のコンセントや配線を確認してみるが、その気配はない。
「まさか……回収し忘れた、のか?」
「そんなことは無いでしょう。夏企、ちゃんとカメラはあの場に置いて行ったのよね?」
「ああ、それは確実だけど……他の箱に入ってる、とかか?」
慌てつつ、もう一度部室をぐるりと見渡してみる。しかし、箱と呼べる物はロッカーの上にある、あの古い箱以外には無く、カメラが床や机の上に、無防備のまま置き去りにされている様子もない。まさか、誰かが持ち帰ってしまったのだろうか。
これは偶然、だろうか。部室のカメラを、慌てていたというだけの理由で持ち帰る、なんて。
「す、すみません真中さん。何故かカメラだけ無くて、その……でも、信じてください。絶対に、転落した時の映像はちゃんと!」
このままでは激高された真中に、どれだけの言葉を浴びせられるか分かったものでは無い。少なくともあの映像は存在していること、それだけは確かなのだ。
しかし、現状だけを見て彼女が納得するはずはない。とんだ無駄足を食らい、ただでさえ気分を害していた彼女には相当なフラストレーションが溜まっていることだろう。感情に任せた鉄槌が振り下ろされるのも、時間の問題であった。
僕がサヴァン症候群であるという事実も、嘘であると思われても仕方がない。何せ、現時点では何一つとして正確な事実を提供できていないのだから。
だが、真中は顔色を赤く染めるでもなく、青筋を立てるでもなく……じっと考え込むように目を瞑った。まるで、完全に僕の話を信用し切っているような姿に、思わず硬直する。
「ど、どうしたのかしら」
「さ、さあ……」
西野も、その様子に戸惑っているようでこっそりと僕へ耳打ちする。怒りが頂点に達し、感情を喪った……というようには見えない。一体、彼女は何を考えているのだろうか。
すると真中は眉間に皺を寄せ、軽く髪を触りながら僕へと問いかけてきた。厳しく叱責するようなものではなく、純粋な事実確認のための、特に感情の籠っていない質問である。
「……この部屋の鍵は、お前以外に誰が持っている」
「え? えっと……学校の警備室に一つ。まあでも、適当に帳簿に署名さえすれば、誰でも手に入るものですけれど……それが、何か?」
「そうか。まあ、そうだろうな」
そう言うと、真中は一度部室の外へ出てどこかへと電話をかけ始めた。扉が閉まり、部室内には奇妙な静寂が訪れる。
「ど、どうしたんだろ。まるで、誰かがカメラを盗んだ、みたいに……」
「どう、なんでしょうね……でも、志摩丹での事件といい、今回の件といい……奇妙なことが起きていることは確かね。私たちの知らないところで、何かが動いている。そんな気がするわ」
「は、はは……西野でも、そんなドラマみたいな妄想をすることもあるんだな。意外だよ」
「あら、失礼ね。私だってドラマくらい……ああ、戻って来たみたいね」
二人だけで会話ができたことで、少しだけ僕の精神は落ち着きを始める。そんな中、一段と疲労感にあふれた表情の真中は、ゆっくりと部屋へ戻って来た。そして、暗くなりつつある窓の外を眺め、苦々しく僕たちへ告げる。
「さて、そろそろ帰らせないとマズい時間だ。ここにカメラが無い以上、粘っても仕方がない。お前たちはさっさと……っと」
そう話しながら壁に手をつこうとした真中は、壁との目測を誤ったようで態勢を崩し、扉のすぐ横にあるロッカーへ体をぶつけてしまった。その拍子に、あの古びた段ボールが落下して大きな音を立てながら、その中身も床へと散乱してゆく。
「ぐっ!」
「だ、大丈夫ですか!」
「あ、ああ……すまない。しまったな」
恐らく、立ち眩みでもしたのだろう。つい先日妹を亡くしたばかりなのに、休みもせず犯人を捜しまわっている、ということはその顔を見れば分かる。このように倒れそうになってしまうのも、無理はない。
手を貸そうとした西野を制し、落としてしまった段ボールとその中身を回収しようとしている。満身創痍の彼女に、そこまでの仕事をさせる訳にもいかない。幾ら態度が悪いとはいえ、こういう時こそ助け合うべきだ。
「ああ、片付けは僕たちがやりますから!」
「何を言う。私が散らかしてしまったのだから、お前たちに任せるなん、て――――」
少し焦りの色を浮かべ、散らばる紙をかき集め始めた、その時である。ふと真中は、手にした一枚の写真を見て、表情を強張らせる。
「これは、何だ」
「え? ……あ」
真中の異変に気付いた僕は、その手にした写真を覗き込み、思わず息を飲む。そう、それはあの、西蓮寺と大島の写る奇妙な写真を、彼女は偶然にも見つけてしまったのである。
そして、それと同時に僕はもう一つ気付いてしまった。その写真には、二人以外にもある人物が写り込んでいたのである。奇しくも本日、この学内で変わり果てた姿となってしまった、あの男の若いころの姿だ。
「あれ、これって……木村先生?」
そう、西蓮寺たちと共に、木村もこの写真に写っていたのである。以前この写真を見た時は、西蓮寺と大島に気を取られてしまい他の人物はあまり目に映っていなかった。だが今、彼がここに映っていることにより、この写真の異常さが改めて浮き彫りとなる。
真中は、恐らく大島と西蓮寺、そして木村の写るこの奇妙な写真を見て、何か勘付いたのであろう。いや、むしろ勘付かない方がどうかしている。だからこうして、血相を変えて片付ける手を止めたのだろう。
その時の僕は、そう思っていた。だがそこには、さらに僕の予想を超えたものがあったことに、気付かされることとなる。
真中は体を震わせ、写真を凝視する。そして小さく、しかし確実に僕たちにも聞こえるような声量で、はっきりとその言葉を口に出した。
「父、さん……」
「え……」
父さん……つまり彼女、真中 弘佳の。そして、先日遺体となって発見された、彼女の妹である優佳の父親の姿が、そこに写っているのだというのだ。
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