その夜、新宿警察署————
人の出払われた小さな会議室の中で、箱崎は一人静かに画面を見つめる。近くの通りから響く、けたたましいクラクションにも全く動じず、映し出された一件の報告書に注視し続けていた。
軽く息を吐きながら、眉間に皺を寄せた箱崎が無意味にマウスをくるくると動かす中、会議室へと一人の女性が姿を現す。
「はぁ……先輩、ただいま戻りました」
「ん? ……おお、真中か。どうだ、何か見つかったか?」
草臥れた様子の真中に労いの一つもかけず、箱崎は少し顔を上げて横目で問いかける。一方の真中は、そんな彼の態度を全く意に介することなく、小さく溜息を吐き彼の横にあった椅子へ腰かけた。
「いいえ、残念ながら何も。アポイントは取っていたはずなのですが、急に門前払いとなりまして。研究が忙しくなった、とかなんとかで」
「はぁ? そりゃ、嘘くせぇな」
「ええ。まあ、そう思いますよね」
手を頭の後ろで組みつつ鼻で笑う箱崎へ対し、真中は淡々と事実を伝える。
「牟呂矢が何を隠しているのか、全く想像がつきませんが……とにかく、また明日にでも伺ってみようかと思います。飯塚は行方不明でしたし、間柴については……言うまでもありませんね。あの写真の人物で残されたのは、もう牟呂矢しかいませんから」
「そうだなぁ。飯塚はともかく、まさか間柴が、水島の坊ちゃん相手にあれだけ動揺するとは、さすがに予想外だったよ。あれじゃ、俺たちが話にいったところでまともな答えが聞けそうもねぇしな。引き続き、牟呂矢の追跡よろしくな」
「はい。それでは……ん?」
話を切り上げ、立ち上がろうとした真中はふと、箱崎の目の前にあるPCの画面へと視線を移す。そして、じっとその画面を睨むと箱崎へ鋭く質問を投げかける。
「……先輩。どうして、水島 龍太郎の解剖結果がもう開示されているんですか。それも、ご丁寧にDNA鑑定まで。暇な監察医を捕まえた、とでも言うつもりはないでしょうね?」
「ははは、そんなことがあるもんか。大したことじゃねぇ、優先的に作業しろ、って伝えただけだ。出来た後輩ばかりで、俺は感激してるよ」
「……ああ、そうですか」
そう、箱崎が先ほどから必死に目を通し続けていたものとは、水島 龍太郎の司法解剖結果であった。しかしそれだけではなく、彼の遺体の腹部に詰まっていた中身についても、その報告書には仔細に記載されていたのである。
本来、司法解剖やDNA鑑定などは一日の内にその結果を断定できるようなものではない。じっくりと吟味し、間違いの無いよう確認した上で正式な報告書を作成する。そのため真中の言う通り、これだけ迅速に解剖、ならびにDNA鑑定まで行えるというのは異常なことであった。
だが、箱崎はそれを事も無げにやり遂げた。もちろん彼の人望がそうさせたのではなく、単純に自身の立場を最大限に利用した結果、である。それを知ってか知らずか、真中は呆れたように溜息を吐くと、再び椅子に座り直し身を乗り出すようにして、映し出された文書を読み始める。
「ええ、と? ……『遺体は水島 龍太郎のものであると断定。死因は腹部の裂傷による失血死と思われる。腹部には損壊した別人物の遺体が混入し————』……うっ、こ、これは……」
不意に読み上げる声が止まり、真中は顔色を青白く変え画面から視線を逸らす。その様子を横目にした箱崎は、彼女の精神力の弱さに呆れたか、または彼女の変化を予測していたのか、大きく溜息を吐くと真中に代わって文書の続きを声に出す。
「……『別人物の遺体が混入しており、その断片を回収し並べると、一人の人間であることが判明した。この遺体については、現場に残されていたブラシ等からDNAを採取した結果、水島氏の妻、東子であると断定できた』……か。まぁ、なんつーか……俺の悪い予感が当たっちまった、ってことだな」
「……どうして、腹部に妻の遺体が。それも、損壊した状態で……」
口元を押さえ、険しい表情を浮かべた真中は画面から目を逸らし続けつつも、苦々しく疑問を口にする。それに対し、箱崎は軽く唸り声を上げると、自信なさげに持論を展開する。
「さぁな。理由は分かんねぇが……少なくとも、こんな事件を堂々と起こすのは、奴ら以外に考えられねぇ。つまり、だ。あの研究に『例の組織』が関与してるのは確定した、ってことだな。そんで、今回の一連の事件にも、だ」
「例の……確かに、そう考えるのが妥当ですね。あの連中なら、これくらいはやりかねませんし」
「だろ? ま、そうなると……だ。やっぱ、決定的な死因だとか、証拠品は残っていない、か……」
じっくりと、不快な表現が満載の文書を隅々まで読み終えた箱崎は、肩を落としつつ傍にあった紙コップへと手を伸ばす。そして、もうすっかり冷えてしまったコーヒーの残りを一気に煽ると、徐にスマートフォンを内ポケットから取り出した。
「さぁて、目ぼしい収穫も無かったことだし、今日はもう帰るとするかね……っと、あれ?」
「どうしたんですか?」
「ん? ああいや……おっかしいな。スマホの充電、切れちまってたみたいでよ。おい真中よ、その辺に充電器はあるか?」
「はぁ……この辺にはありませんが、私用のものでよければ。どうぞ使ってください」
「おお、サンキュ」
彼の、なんとも呑気な態度を見た真中は、少し気分が改善したようでいつもの仏頂面へと戻り、自身のバッグから充電器を取り出し彼に投げ渡す。今時であればコンビニエンスストアなどでも購入できる、非常に簡素な携帯型充電器を受け取った箱崎は、彼女へと微笑みかける。
「悪いな。どうもオッサンになると、こういうところが疎くなっちまってな。いやぁ、こんな風に年を取りたくは無かったんだがなぁ……」
「そうですか、それは残念でしたね。ああ、消耗した分の電池代は払ってください。それ、使用頻度が高いので」
「へいへい。まったく、そういうところは抜け目がねぇな、っと……あん?」
真中の要望に軽く肩を竦めた箱崎は、慣れない手つきで携帯型充電器へとスマートフォンを繋ぐ。だが、ようやく繋ぎ終えた彼がPCの方へと振り返ると、そこには驚くことに画面を食い入るように見つめる真中の姿があった。
先ほどまでは、ほんの冒頭部を音読しただけで吐き気を催すレベルであったのに、今は顔色一つ変えずに報告書を読み進めている。その変わり様に、箱崎は一瞬だけポカンと口を開くと、慌てて彼女を制止する。
「お、おいおい。無理だけはすんなよ? 俺だって、こんなもの読んだら気分は悪くなるんだ。意地になって読んだところで、誰も得しねぇ。もし吐いたら自分で処理しろよな」
「別に、無理はしてません。さっきは、ちょっと面を食らった、と言いますか……とにかく、ただ驚いただけでしたので。吐きはしませんよ」
「本当かよ? それにしちゃあ、血の気の無ぇ顔色だったけどな……ま、大丈夫なら勝手にしろ。どうせそこには、大した情報は無いからよ」
そして、気を取り直した箱崎はようやく起動することが出来たスマートフォンを手に取り、溜まっていた通知内容へ目を通す。もちろん、私物ではないためダイレクトメールなどの類いは受信しない設定となっている。それ故に、このスマートフォンへ通知が届くとすれば、それは何か大切な案件であることを意味する。
「……よし、特に何も……おっと? ああ、さっそくあの坊ちゃんから電話か。やれやれ」
スマートフォンを遠ざけつつ、画面に表示された文字を見た箱崎は、面倒くさそうに肩を落とす。そんな彼に、真中は画面から目を逸らさず問いかける。
「折り返さなくていいんですか?」
「ああ。どうせ、相続の件での相談事だろうよ。まったく、親が死んだってのに、あんなに冷静な奴なんか見たことが無ぇ。お前も病院で見ただろ? あの態度は、やっぱどこか怪しい。無いとは思ってたんだが、動機は充分だしな……今から駅の防犯カメラをチェックしに行くとするか」
「……」
「確か、JR代々木駅を使ったって話だったな。さて、俺はそっちに行くから、お前はアイツの最寄り駅の方を……って、おい真中。お前、俺の話聞いてんのか?」
「……先輩、ちょっといいですか?」
「あん?」
箱崎の詰問を完全に無視し、真中は画面のある一点を指さし、逆に彼の顔をじっと見つめ、質問する。
「ここ、おかしくありませんか?」
「ああ? ……『腹部に収納されていた切断遺体の血液と被害者の血液が混じり、一部で赤血球の凝集反応が生じていた』? これのどこがおかしいんだ。時間が経ったら、血液なんか固まるに決まってるだろ」
「いいえ……よく読んでください。凝固ではなく、凝集です」
「凝集……? お、おいおい。ってことは、まさか! ちょっと待てよ……!」
その言葉に、ハッと息を飲んだ箱崎は愛用の手帳を取り出し、急ぎパラパラとページを捲る。そして、指を止めてそこに書かれた情報を小さく声に出す。
「……水島 龍太郎、四十五歳。血液型はB型、か。妻の東子は……」
「同じく、B型です」
箱崎と同様に、使い古した手帳を開いていた真中は淡々と続ける。
「理論上、二人の血液が混じったところで赤血球による凝集反応が生じる可能性は、ほとんどありません。もちろん、ABO式の分類以外もありますが……彼らには輸血を受けたという記録はありませんでしたし、稀有な血液型であれば然るべき機関に記録が残っているはずです。それがありませんでしたので、一般的な血液だと考えて良いかと」
「そうだろうな。まさか凝固と凝集を書き違えた、ってことはねぇだろうし……」
「その可能性は、もっと低いかと」
「だよな……」
水島 龍太郎と東子は医学系の出身であり、医師免許も有している。それ故、実習などに参加するため必要な血液検査は一通り行なわれていた。当然、二十年以上も前の記録ではあるものの、血液型などの情報は時間の経過で変化するものではない。
例の写真に関係する人間を全て洗っていた箱崎と真中は、この程度の情報は集め終えていた。だからこそ、彼らはこの違和感に気付けたのである。
「そうだ、Rh因子については?」
「それは……献血を受けた記録がありますので、機構へ問い合わせてみます。しかし、時間が時間ですので明日になるかとは思いますが……」
「構わねぇよ、明日一番に確認してくれ。しかし、そうなると……これは厄介なことになりそうだな」
思いがけない情報に、天を仰いだ箱崎は表情を一気に曇らせ、立ち上がる。そして、空になった紙コップをゴミ箱へと放り投げると、懐から煙草を取り出し燻らせる。まるで、頭の中を整頓させるような行動に、真中は片眉を上げて問いかける。
「厄介なこと、ですか。現時点でも充分、不可解なのですが……これ以上のものが隠されている、と?」
「ああ。これはあくまでも予想だが……水島 龍太郎という人物自体が、造られた存在なのかも知れねぇな」
「造られた存在、ですって?」
「もちろん人造人間だとか、そういうモンじゃない。別人が水島に成りすましている可能性もある、ってことだよ。例えば兄弟とか、よく似た人物が、な」
「……」
思わせぶりにそう口にした箱崎は、充電中のスマートフォンを手に取り、じっと見つめる。そして灰白色の煙を、ふぅ、と吐き出し、顔に強い不本意さを滲ませて呟く。
「これ以上、巻き込まねぇようにとは考えていたんだがなぁ……しょうがねぇ。こればっかりは、アイツ自身に関わる問題だ。直接、確認するしかねぇな……」
しかし、意を決した箱崎が煙草を消し、徐にスマートフォンを操作し始めたところで、不意に真中はその手を制した。強く腕を握られた箱崎は、ギョッとした表情で彼女の顔を見つめる。
「お、っと……な、なんだ?」
「先輩らしくありませんね。あの子は今日一日、とても不安な想いで過ごしたんですよ。今のところ着信が無い以上、彼はもう眠ったのでしょうから明日にしてあげませんか? それに、まだ情報が不足しているんです。水島氏について調べ直す方が先かと思いますが」
「……確かにそうだな。悪い、少し動揺しちまったな。しっかし、最初はあれだけアイツのことを毛嫌いしてたってのに、随分と肩を持つじゃねぇか。なんだ? もしかして……」
「やめてください。セクハラで訴えますよ」
「じょ、冗談だよ、冗談! 本気にすんなって!」
鋭く睨む真中に、慌てて返した箱崎はスマートフォンを充電器から外し、急いだ様子で会議室の扉へと向かう。
「一応、駅の防犯カメラだけは調べておくぞ。まだ、アイツが殺った可能性は否定できねぇんだ。さっき言った通り、お前は恵比寿駅のカメラを頼む!」
「ちょっと待ってください! このPCは……」
「適当に落としとけ! じゃ、よろしくな!」
そう言い残し、箱崎はそそくさと部屋から立ち去って行った。残された真中は、言われた通りにPCの電源を落としつつ、険しい表情でギリッと歯ぎしりする。暗い会議室の中、ぼんやりとしたPCの灯りに照らされた彼女の顔は、凄まじいものであった。
「まさか、あの男……いや、違う。私は、絶対に仇を……」
ギュッと拳を握りしめ、真中も箱崎の後を追うようにして部屋を出る。複雑な想いを胸に、唇を強く噛みながら。
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