野々原ビルのすぐ隣、道を挟んだ場所に新宿警察署は存在する。そこへ向かうはずだった箱崎はふと、方向を変えて警察署の駐車場に停めてある一台の車へと近づいてゆく。それはまるで、駐禁を切りに向かうかの如く、迷いのない足取りであった。
もちろん、彼はそんなことをするために向かったのではない。むしろ、彼は警察署ではなくその車……厳密にいえば、車内で顰め面を浮かべる女性に用向きがあったのだ。
箱崎はチラ、と背後へ視線を向ける。その目は、先ほどまでムーンバックスカフェで話していた少年、水島 夏企の背中を捉えた。その方角からして、彼は警察署と反対方面にあるJRの駅へと向かっているようだ。
尾行られていないことを確認すると、彼はふう、と一つ大きく息を吐き、軽く頭を掻く。そしてそのまま助手席のドアを開け、車内へと乗り込んだ。
「お疲れさん。あの電話、最高のタイミングだったぞ」
グッと親指を立て、すっかり黄ばんだ歯をこぼす。だが彼とは対照的に、眉間に皺を寄せたままの女性は、苦々しく口を開く。
「はあ……なにが最高ですか。先輩、この捜査方法はやはり、どう考えてもやり過ぎです。万が一、彼の身に何かあった場合、どう責任を取るつもりなんですか」
「ははっ。そう睨むな、真中よ」
真中の剣幕を物ともせず、箱崎はリクライニングシートを倒し天井を仰ぎ、話を続ける。
「大丈夫だ。ま、今のところは、だがな。こっから先、アイツがどういう判断を下すか、それと、どこまで精神が保つか……それは、誰にも分からん。それこそ、神にでも願った方が良いだろうな」
「……神、ですか。馬鹿馬鹿しいですね」
「冗談だよ、冗談」
そう言うと、彼はまた一つカカッと笑い、そのまま目を閉じた。真中や水島に対して飄々とした態度を取り続けていた彼であったが、それなりに疲労を感じていたことが窺える。
一方の真中も、その様子からそれを感じ取ったようで、これ以上彼に負担をかけぬよう、倫理的な追及は止めた。代わりに、ふと一つ思い至ったようで、ポツリと箱崎へ問う。
「……しかし彼は、あの件について調べるでしょうか」
「あの件、って……水島 龍太郎の件か?」
「ええ。異常ともいえるほど、毛嫌いしている相手の情報です。画面を介してでも、顔なんて見たくないと思うはずでしょうし。私なら、調べないですね」
「まあ、そうだろうな。普通なら、な」
目を閉じたまま小さく唸り声をあげると、彼は腕を組み、続けて口を開く。
「散々匂わせておいて、調べるな、と釘も刺したんだ。これで、何かあると思わねぇ方が不自然だろうよ。だったら、どれだけ嫌いな相手のことでも調べるさ。まあ……調べないようなら、それはそれ。アイツには金輪際、事件とは関わらないで貰うだけだ」
「それはまた……相変わらず、手口が汚いですね」
「おう、ありがとさん。……でもま、いずれ嫌でも知ることになるだろうよ。いつまでも隠し通せるほど、小さな事件じゃないからな」
「そう、ですね……」
僅かな間、二人は無言となった。車内にはビル風の吹き抜ける音と、絶え間なく行き交う車両のエンジン音だけが響く。それは本来、彼らにとっては聞きなじみのある、煩わしい環境音であったが、この時に限定すれば、無音よりも遥かに心安らぐ音色であった。
しばらく無言が続いた後、真中はこの環境に耐え兼ねた様子で、箱崎へと話しかける。
「あの、先輩。一つ聞いても良いでしょうか」
「ん? なんだ」
「本当に、この事件には『あの組織』が関係しているのでしょうか。あまりにも見え透いていて、私にはどうも引っかかるんです。何か、こう……誘導されているような、嫌な予感があって」
「ふん……誘導、ね」
その言葉を受け、箱崎は目を開く。姿勢はまだ天井を仰いだままであるが、彼の目には車の屋根など映っていない。この先に起こるであろう何かを、どうにかして見つけるため目を凝らしているのである。
「確証は無ぇ。だが、匂う。どこかでほくそ笑みながら、俺たちを監視してるヤツの匂いが、プンプンするんだよ」
「匂い、ですか」
「ああ。ま、それもアイツの動向次第、だろうな。……さてと、そろそろ行くか。今日は誰の聞き込みだ?」
「え、あ、はい。えっと……」
箱崎に促され、真中はポケットに忍ばせていた手帳を取り出す。そのまま忙しなく数ページ捲り、やがてその指の動きを止める。
「……牟呂矢ですね。西光学園の学長にはアポイントを取っていますので、すぐにでも話は聞けるかと」
「そうか。西光学園、ね……」
軽く息を吐き、シートを起こす。そして彼は駅の方向へと視線を向け、小さく苦笑する。
「これも因果、かねぇ……」
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