午後四時半過ぎ、傾きつつある陽光を受け茜色に染まる高層ビルの谷間にある、比較的小さな建物。その中へ、西蓮寺を先頭に、僕、それに高城と無言のまま続いてゆく。
西蓮寺 真冬の自宅は、西光学園だけでなく国道や東新宿スクエアに程近い、好立地の比較的綺麗なマンションであった。その最上階へと向かうエレベーター内で、僕と高城は得も言われぬ緊張感に包まれていた。
硬くなるな、という方が無茶な話である。何せ、これから僕に待ち受けているのはどう転んでも良い話ではないからだ。
「ふふ、驚いたでしょ。この辺りだと、どうしてもワンルームマンションばかりでね。家族で住もうと思ったら、こういう相場が高めの物件に限られるのよ」
「そう、なんですか……」
「へ、へぇ……」
僕らの緊張を解すためか、西蓮寺は柔らかな表情で他愛のない話を始める。だが、そんな言葉が耳に入ったところで拭えるような空気ではない。むしろ、その気遣いすらも重く感じてしまう。いつも軽い調子の高城でさえ、借りてきた猫のように静かだ。
ちなみに、なぜ高城まで付いてきているのかというと……正直なところ、その理由は僕にも分からない。僕の過去に関わる話で、高城が知るようなものではないため帰るよう促したのだが、それを彼女は頑なに固辞したのだ。
そんな高城を、招いた側である西蓮寺は別に止める素振りも見せなかったため、僕は彼女の同行を認めざるを得なかった、という訳である。
よく考えれば、僕と西蓮寺が二人きりで自宅へと向かう場面を学校関係者に目撃された場合、何か良からぬ風聞が立ちかねない。最悪、西蓮寺は職を失う可能性すらも考えられる。そういう意味では、高城の判断は間違いではなかったと言えるだろう。
「さて、と。ちょっと待っててくれる?」
「え?」
そう言うと、西蓮寺は不意に扉を開けてマンションの一室へと入ってゆく。考え事をしていたせいで疎かになっていたが、どうやらいつの間にか彼女の部屋へと辿り着いていたらしい。
「そういうことか……」
「先輩、だいじょぶですか? 顔色、すっごく悪いですよ」
「え? ああ、うん。今のところは大丈夫だよ。……それより、お前は本当に良いのか? その……多分だけど、気持ちのいい話じゃないと思うんだけど」
「そりゃま、そうでしょうけどね。でも」
僕の方へ向き直ると、高城は少し真剣な表情を浮かべ、はっきりと言葉を口にする。
「悪い話なら、なおさら一人になんてさせておけませんから。これでも私、先輩のことはちょっと大切に思ってるんで。……ま、大切って言っても、ヘアピン一本分くらいの価値ですけどね!」
「そうか……ありがとうな、気を遣わせちゃって」
「なんでそこで『ありがとう』なんですか。やっぱ、どこか悪いんじゃありません?」
「ははは」
あえて僕を弄ることで、この空気を少しでも変えようと思ったのだろう。何とも高城らしい、不器用なやり方だ。僕の反応があまり面白くなかったのか、高城は口を尖らせているが……僕としては本当に有難く思っている。
そんな中、一通り部屋の片づけを終えたのであろう西蓮寺が、また少しだけ疲れたような顔で部屋の中から不意に顔を覗かせる。
「ごめんなさいね、時間がかかっちゃって。ちょっと汚いけれど我慢してくれるかしら」
「いえ、そんなことは……でも、本当に良いんですか?」
「良いのよ、どうせ独り身のようなものですからね。さ、入って」
「え? あ、はい……」
西蓮寺に促され、僕と高城は恐る恐る彼女の家へと足を踏み入れる。画家の自宅であるにも拘わらず、油絵具の独特な臭気などが鼻腔をつくことはなく、本当にただ綺麗な三十代女性の部屋、といった様相であった。
むしろ、女性の一人暮らしにしては殺風景すぎる。机など生活用品は存在するが、観葉植物はもちろんのこと、カーテンすらも無地で、凡そ芸術家の住まう地とは到底思えなかった。
面を食らい言葉を失いかけた僕は、気を取り直すため西蓮寺へと何気なく問いかける。
「えっと、綺麗ですね。もっと、こう……」
「仮にも芸術家なのだから、内装には拘っていそう……そう思ったのでしょう? それは偏見ね、シンプルなものを好む人だっているわ。それに」
軽く溜息を吐き、手近にあった椅子へと腰かけると西蓮寺は小さく呟く。
「意味のないことだから。どれだけ飾ったところで、闇を彩ることは出来ないもの」
「闇、ですか」
「ええ。……さてと、適当に掛けてくれるかしら。長い話になるから」
僕たちがおずおずと腰を下ろしたところで、西蓮寺は目を瞑りつつ、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだす。
「十年前まで、私は夫と息子の三人で暮らしていたの。夫は……いえ、元夫、というべきかしらね。私立病院の医者だったから、割と裕福な生活を送れていたわ。だから、趣味の絵を楽しみながら子育てが出来て……こう言っては失礼かも知れないけれど、いわゆる勝ち組ってやつだったの」
「そう、だったんですか」
「ええ。……今思えば、それが原因だったのかも知れないわ。望むものが手に入るようになって、どんどん強欲になってしまって。その欲が結局、息子にも向いてしまったの」
そう言うと視線を落とし、引き攣らせるように片口を上げる。
「パーティの時だった、かな。元夫の大学の同期生だと名乗る男たちが、私に話しかけてきたの。『子どもの才能を大幅に向上させるプロジェクトがある。ぜひ参加してみないか』ってね」
「子どもの才能を?」
「もちろん最初は、胡散臭いな、と思ったわ。でも、計画の内容はしっかりしていたし、何より国のプロジェクトである、っていう絶対的な信頼があったから、私は参加を承諾してしまった。まあ、それが私……いえ、家族全員を不幸にさせる結果となったのだけど」
確かに、子どもの才能を伸ばす国家プロジェクトと聞いて、不審に思う人間はそう多くない。似たようなプログラムは存在するし、それらが一定の成果を出している以上、強く疑うことなど出来ない。
加えて、話を持ち掛けてきたのは彼女の元夫の同期、つまり医学部出身のエリートである。よほど怪しい風体ならばともかく、パーティに参加するような人間であれば、ある程度素性が知れる。
ましてや、そういった気位の高い人間の集うパーティであれば、マウント合戦が各地で勃発するものだ。それが子どものことであれば、なおさらであろう。
しかし、その経緯は分かったが肝心なプロジェクトの内容は未だ判明していない。一体、その男は何の計画を持ち出したのだろうか。
暗い表情で俯く西蓮寺に向け、僕は少し急かすように声を掛ける。
「それで、えっと……そのプロジェクトというのは、何が問題だったんですか? 子どもの才能を伸ばす、というだけならば、そう問題にならなそうですけど」
僕の問いを受け、西蓮寺はゆっくりと顔を上げ、目に黒い炎を宿し強い口調で答える。
「……あれは、ただ子どもの才能を伸ばす、という目的では無かった。子どもの脳に負荷を加えて、無理やり異常な能力を与えようという研究……それがそのプロジェクト、『新人類計画』だったの」
「子どもの脳に、負荷を?」
「そう。息子が研究所から連れ出された時、初めてその話を聞いて絶望したわ。でも、もう遅かった。息子は、手の届かない所へ行ってしまった後だったから」
それは、幾ら何でも異常な研究だ。ただでさえ発達途中の子どもの脳に強い負荷をかければ、どんな結末が待ち受けているか……そんなことを、医学部出身の人間に分からないはずがない。
しかも、そんな危険な行為をしても天才児が誕生するだけでは、ハイリスク・ノーリターンと言わざるを得ない。失敗した時の訴訟のこと、さらには世間のバッシングを考えれば言語道断だ。
「いや、それはさすがに……俄かには信じがたいですよ。しかも国主導で、ですか? ほとんどメリットなんて無いじゃないですか。たとえその研究が上手くいったとしても、ただ天才が生まれるだけ、なんでしょう? だったら……」
「違うわ。この研究の最大の目的は、ただ優れた人間を生むことじゃない。言ったでしょう? 『異常な能力』を与えるためだ、って」
「異常な、能力……?」
すると、西蓮寺はまるで刃を突きつけるように鋭く、まっすぐに僕を見据えて言い放った。
「ええ。例えば、その目で見たものはすべて記憶してしまう能力、とかね」
「は? ……そ、それって……」
「あなたが『サヴァン症候群』だと思っていた能力。それは、この『新人類計画』で与えられたものなの。実験体の一人として、ね」
僕が、『新人類計画』の被験者だった?
頭の整理が追い付かない。確かに昨日、サヴァン症候群は『後天的に得たもの』である可能性が高い、と箱崎から聞かされていた。その話と西蓮寺の証言を照らし合わせれば、矛盾は生じない。
しかし、だとすれば。僕がその計画に参加させられることになった、最大の原因。そして、西蓮寺にパーティ会場で話しかけた、という男たち。それは、まさか。
「父が……水島 龍太郎が、すべての元凶だった、ということですか……?」
「あの男は研究者では無かったから、元凶とまでは言えないでしょうけど……少なくとも、夏企くんや私をあのプロジェクトに導いたのは、彼。それは疑いようが無いわ」
「そ、そんな……」
ある程度の覚悟はしていたとはいえ、この真実はさすがに堪える。僕の人生は、最初から父親により壊される運命であったのだ。しかも西蓮寺の話しぶりからして多くの子ども、そしてその家族を不幸にさせたのである。
決して僕が犯した罪ではない。むしろ、僕も被害者の一人である。しかし、父親が加害者の一人であったのならば、僕は一体どうやってこの事実を受け止めたら良いのだろう。強い憎悪と申し訳なさが心の中で渦を巻き、複雑な気持ちで溢れる。
だが、一つだけ気になる点がある。西蓮寺の息子が『新人類計画』の被験者だったとして、彼女はどうして僕のことまで知っているのか。父親を通して研究を知ったからと言っても、その息子である僕まで記憶できるとは思い難いのだ。
「あの、どうして先生は僕のことを知ってるんですか? 十年も前のことなのに、もしかして家族ぐるみで付き合いがあった、とか?」
「一度紹介は受けたけれど、そういう付き合いは無かったわ。でも、実験を受けた子どもたちの中では一番目立っていたからね、夏企くん。年長者だったこともあるのでしょうけど、子どもたちはみんな夏企くんにべったりだったから」
「そ、そうだったんですか……」
全く記憶にないが、小さい頃の僕は前に出るような子だったのだろう。小学生に上がり、サヴァン症候群……いや、異能力に目覚めてからというもの、一転して他人に忌避されることが多くなった。それが影響し、僕は殻に閉じこもるようになり、人生は大きく破綻することとなったのだ。
ああ、そうか。そういうことか。箱崎や西蓮寺が、絶対に後悔することになる、と念を押した理由がようやく分かった気がする。この気持ちのまま自宅へ帰れば、僕はこの憎悪に身を委ね、水島 龍太郎を殺すだろう。当然、すべてを知りながらあの男に付いて行った母親も、同じように殺す。
そうなれば、僕は殺人犯となり裁かれることとなる。もう刑事責任の問われる年齢だ、多少の情状酌量はあるとはいえ、実刑は免れないだろう。この結末が見えていたからこそ、彼らは止めたのだ。
しかし、もう構うものか。すでに僕の人生は終わったも同然なのだ。アイツらを殺し、家に放火して自殺してやろう。それが、西蓮寺の息子や、恐らくこの計画の被害に遭ったのであろう、ハルマチという画家の子どもへの償いとなろう。
いや、待てよ。水島 龍太郎に恨みを持つ、女性の画家? さすがに偶然が過ぎないだろうか。ハルマチと西蓮寺は、もしかして……。
「あの、先生……もしかして、ハルマチという名で活動をされていた時期がありましたか?」
「ええ。よく知ってるわね、今の画風とは随分違うのだけど……でも、それが何か?」
やはり、例のブログの管理人であるハルマチは、西蓮寺 真冬と同一人物であったようだ。彼女の話からして、僕の想像した通りブログを閉じ忘れたままとなっていると考えて良いだろう。
それはともかく、そうだとすると一つの疑問が浮かび上がる。あのブログでは、『この子があのまま、普通に育っていたらと考えると、涙が止まらない』と書かれていた。死んでしまったのならば通常はこのような記載はしないし、ましてや障害児の成長日記など書けるはずもない。
つまり、西蓮寺の息子は少なくとも研究終了時点では、まだ生きていたといえるのだ。それを、手の届かない所へ行ってしまった、と表現するのはおかしい。
「えっと……言い辛いんですけど、先生のお子さんは、その実験の後すぐに亡くなられたのですか? そうだとすると、あのブログに書かれていた内容と矛盾するんですけど……」
「ブログ? ……ああ、そっか……閉鎖し忘れていたのね。迂闊だったわ」
そう言って、西蓮寺は苦々しく天井を見上げると、大きく溜息を吐いて視線を部屋の横へと向ける。その目には、しっかりと閉じられた扉が映り込んでいた。
「ええ、その通り。今はその奥で寝ているわ。自分で食事することも、動くこともできないけれど、ね」
「それは……植物状態、ということですか?」
「そうね、半分正解かな。機嫌が良いと、いろんなことを喋るのよ。もちろん会話にはならないけれど、彼の脳の中で見えているものを、本当に事細かく。五歳までの記憶しかないはずなのに、悪魔とか、怪物とか……見せたことなんて無いのですけどね」
「悪魔に怪物、ですか。それって……」
「ええ」
そして、僕の言葉の意味を理解したように、弱々しく微笑みながら西蓮寺は答えた。
「私の絵は、息子の見た夢を描いたもの。実験によって壊された脳が生み出した、闇の世界。彼の人生を無駄にしないためにも、私は彼が夢を見続ける限り描き続けるわ。それが私なりの贖罪、とでも言いましょうか」
「……」
そうだったのか。僕はてっきり、趣味であのようなグロテスクな絵を描いていたものと思い込んでいた。しかし、それらの絵には悲しくも温かい想いが溢れていたのだ。そのことを知らず、気味が悪いと言って嫌悪していた僕は、なんて浅はかなのだろう。
すると、西蓮寺は暗い空気を振り払うように、不自然な明るさで話を続ける。
「でもね、私だって最初は気持ち悪いな、って思いながら描いていたから、そう気にしなくても良いのよ。逆に、出水さんみたいな子がいることの方が驚き、かな」
「そう、ですか……」
「そう。だから、そんなに落ち込まないで。……さて、私が知ってることはこれくらいね。本当なら、夕ご飯くらい御馳走したいところだけど……さすがに食欲は無いわよね」
「え?」
壁時計を見ると、時刻はすでに午後六時を指し示そうとしていた。話の内容が重かっただけに気付かなかったが、想像以上に時間が経過していたようである。
時刻的には、そろそろ空腹を感じるものである。だが当然のことながら『新人類計画』の話を聞いて、食欲など湧くはずもない。カロリーブロックすらも喉を通るかどうか、微妙なところだ。
「す、すみません、長居をしてしまって」
「私も、部外者なのに無理を言ってすみませんでした」
急いで立ち上がり、玄関へと向かう。僕はともかく、高城をあまり遅くの時間に帰らせる訳にもいかない。只でさえ治安のよくない新宿で、しかも連続殺人事件まで起きている状況なのだ。それに僕は、あの男を……。
すると、玄関のドアを開けたところで、背後から西蓮寺の声が響き渡る。
「待って、夏企くん」
長い髪を揺らし、駆け寄ってきた西蓮寺は僕の目をじっと見つめる。そして、高城には聞こえないくらい小さな声で囁いた。
「よく考えてから決断して。それは、まだ早いわ」
「え……」
そう言うと小さく微笑みながら、西蓮寺はドアを静かに閉めた。残された僕は、ただ呆然と閉じられたドアを見つめるしか出来なかった。
『よく考えてから決断して』……恐らく、僕の行動を予測した上での発言だろう。確かに、まだ分からないことが多いことは事実である。気は進まないが、まずはあの男を問い詰めることが先決か。手を汚すのは、それからでも遅くは無い、か。
点り始めた街灯の無機質な光を浴びつつ、僕と高城は無言のまま駅へと向かう。行きとはまた異なる重いものを抱えつつ、喧騒の彼方へと。
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