僕の父親である水島 龍太郎までもが、この奇妙な写真に写り込んでいた。あまりにも衝撃的な事実を受け、僕は完全に閉口してしまう。
「いやぁ、俺はてっきり、キミは父親を庇ってるのかな、と思ってた訳なんだけど……本気で気付かなかったんだね。でも、事実は事実だ。合成された痕跡も無かったし、彼らは意図して集まり、こうして写真に納まっている。その意味、理解したかい?」
「……」
決して挑発しているという訳ではなく、箱崎はむしろ憐憫に近い視線を僕へと向ける。今となっては、追及してくれた方が有難いというのに……彼はとことんまで、嫌な性格を持ち合わせているようだ。
しかし、この事実は完全に予測できなかったものではない。実際、父親と同じ厚生労働省に勤める、もしくは勤めていた人物が数多く写っていたのだ。ならば、次期次官とも目される僕の父親が、この件に何も絡んでいないと考えるのは不自然であろう。
だが、心の底から憎む相手であっても……どこか、その事実を信じきれない自分がいた。血が繋がってしまっている以上、心から疑うことが出来なかったのだ。
加えて、当時の姿と現在の風体とはかなり異なる。笑顔で写り込む父親とは対照的に、現在の彼には毛髪などほとんど残されていない。その上、極端なダイエットをしてしまったのかと思うほど、痩せ細っているのである。
余程、仕事のストレスが苛烈であったのだろう。かといって、同情しようとも思わない。そのツケが僕に向けられていたのだとすれば、やはりこの男は下種であるという証明になるのだから。
しかし、だ。箱崎がわざわざ、個別に僕をカフェへと招いたこと、それに情報を堂々と開示したこと……これらを考えると、それはすなわち僕の父親、そして僕自身が何かこの写真の人物たちと関連がある、と踏んでいるに違いない。
冗談ではない。僕は、あの男とは何の関係もない。いや、血縁関係ではあるのだが、それでも仕事のことに関しては全く触れたことは無いのだ。むしろ、触れたくも無い。
ここはひとつ、はっきりと断っておこう。水島 龍太郎という男と僕の間には、ただ親と子であるという事実があるだけで、絆や愛など存在しない。あるのは憎悪だけだと。
「あの」
小さく息を吐き、僕は箱崎へと問い掛ける。
「なにかな」
「僕は、この男……水島 龍太郎と、ほとんど絶縁状態だ、ということは知ってるんですよね。高校入学以降は、言葉を交わすどころか顔を合わせてもいません。もちろん、母親とも。ですので、ここに父……いえ、水島氏が写っているという事実を知ったところで、僕としては何もお答えできません」
「まあ、そうだろうね」
意外にも、その答えを予測していたかのように返すと、また一口コーヒーを啜る。その僅かな間、店内に流れるジャジーな音楽だけが周囲に響く。そして軽く目を瞑ったのち、カップを置いた彼は渋い表情で口を開いた。
「キミがあの男から受けた行為を考えれば、当然だろうさ。でも、彼は曲がりなりにも世間から充分すぎるほどのバッシングを受けたし、確か夫婦そろって停職命令を受けたはずだ。許せ、とは言わないけどさ……」
「え?」
世間からのバッシング、それに停職処分……そのいずれも、僕は初耳であった。停職に関してはともかく、世の中からそれほどの非難を浴びたのであれば、確実にネットニュースにも記載されるだろう。そんなものを、僕はともかく、少なくとも金子が見落とすとは到底思えない。
戸惑いつつ、まだ話を続けようとする箱崎を制止した。
「ちょ、ちょっと待ってください。それ、一体いつの話をしてるんですか。僕が両親と絶縁状態になったのは、二年ほど前……中学を卒業する前の話なんです。停職だとか、バッシングだとか、そんなものを受ければ僕も気付いていたはず。でも、僕はそれを知らない。『サヴァン症候群』である僕が、そんな大事なことを覚えていないはずがないじゃないですか」
「……『サヴァン症候群』ね。確かに、そうかも知れないね。でもさ」
不作法にも机に肘を置き、両手を口の前で組むと、箱崎は静かに僕へ問いかける。
「キミは、いつから『サヴァン症候群』になった?」
「は?」
『サヴァン症候群』に、なった?
それはおかしな質問だ。『サヴァン症候群』とは、基本的に先天性……つまり、持って産まれた疾患である。意図的になった訳ではなく、原因は未だ解明されていないが脳の異常により、偶然にそうなっていた、というのが定説だ。
いつから、と問われれば当然、産まれた時から、としか言いようがない。こんなもの、明らかに無駄な質問である。
「なにを言ってるんですか。箱崎さん、まさか『サヴァン症候群』について何も知らないんですか? それとも、僕がこうなることを希望した、とでも言いたいんですか」
込み上げる怒りを抑え込みつつ、少し強い口調で返す。だが、それでも箱崎は同じ質問を繰り返した。
「いつからだ?」
「……」
仕方がない、ここまで愚かであるとは思わなかったが……辿れる限りの記憶を呼び起こし、詳細に語ってやるとしよう。それでも納得しないようならば、帰ろう。こんな無知な男と会話しても、何も得られない。早く帰って横にでもなった方が、まだ建設的だ。
そして僕は、ゆっくり目を閉じ記憶の海を潜る。深く、より深く……その最奥にあるものが、恐らく最初に見た景色である。
だが————
「あ、あれ……?」
いつもならば鮮明に浮かび上がる光景が、どこかぼんやりと霞みがかったようにしか見えてこない。何かを、誰かが、どこかで、というような、あまりにも蒙昧な映像しか浮かばないのだ。
おかしい。本来ならば、先天性の疾患であるのだから幼年期の記憶を保持していて然るべきである。しかし、どれだけ想起しようとしても、鮮明に浮かぶ限界は小学生になった頃より後のことだけである。それ以前の記憶は、もはや形を成していない。
当然、そんな昔の記憶を掘り起こしたことは今までに無かった。それ故に、少し脳が錆ついてしまっているのかも知れない。だがそれを肯定すると、僕の能力は劣化する、という証明にも繋がる。
上手いこと誤魔化さねば。しかし、思い出せないものを、どうやって誤魔化す。このままでは、僕がただの高校生であると思われてしまう。
先ほどから、じっと僕を見つめたままであった箱崎は、僕の挙動で何か感づいたようで、小さく微笑みながら口を開く。
「……言い当てようか。六、七歳の頃から、だろう?」
「えっ……」
箱崎に指摘は、まさに図星であり言葉を失う。まるで僕の思考が完全に見透かされているようで、先ほどまで湧き上がっていた怒りはすっかり失せ、今はむしろ彼に対する恐怖心が勝っていた。あまりの奇妙さに、血の気の引いていく感覚が全身を襲う。
「やはりな。キミの能力は、決して生まれつきのものではない。後天的に得たものだろうね。そして、それをキミは知らない、と。うん、なるほどね」
「ど、どういうことですか。後天的に、って……僕は『サヴァン症候群』ではない、ということですか! だったら、どうして僕にはこんな記憶能力が————」
「落ち着いてくれ。一応、ここは普通のカフェなんだ。そう声を荒げられてしまうと、これ以上会話ができない。一度、深呼吸でもしたらどうかな」
「あ……」
パニック状態にあるのを察したのか、箱崎は冷静かつ的確に僕を諭す。興奮する相手に、落ち着け、と言っただけでは伝わらない。だが、周囲へ目を向けろ、と暗に示せば理論的な思考が働き、結果としてこのように理性が働くようになる。
無論、薬物中毒者などには適応できない話術であるが、僕のように善良な市民相手であれば効果的な手法だ。さすが箱崎だ、長年警察官として勤務していただけのことはある。
彼に指示された通り、僕は大きく深呼吸し高鳴る鼓動を抑える。先ほどとは異なり、幸運にもヒーリングミュージックのような穏やかな曲が店内へと流れ始めていた。
「……すみません。訳が分からず、取り乱して」
「いいや、こっちも少し性急だったね、悪かったよ。しかし、そうか……それも知らないとなると、少し不思議なことがある」
そう言うと、箱崎はいつの間にか取り出していた手帳を眺めつつ、唸るような低い声で僕へと問い掛ける。
「キミは、どうしてご両親と仲が悪いんだ? 絶縁状態になったのは二年くらい前、と言っていたね? 思春期だから気持ちは分からんでもないけど、顔も合わせない、なんて余程のことが無い限り、そうはならんだろうに」
「え? えっと……」
意外にも、彼は僕の過去を知らないようである。まあ、客観的には西野に大きな傷を負わせたことを除けば、重めの親子喧嘩というレベルの話だ。事件でもないし、警察がそんな些事をいちいち調査しているはずもないか。
しかし、僕の立場からすれば、あの件は絶対に許すことのできないものだ。何せ、僕の今までの苦労を踏みにじり、それどころか先の人生すらも否定されたのだから。
「……単純に、出来損ないだと罵られただけ、ですよ。そこで僕がキレて、偶然居合わせた西野を、えっと……」
刹那、僕の脳裏にはあの時の光景が、あたかも目の前で起きているかの如く、鮮明に映し出される。先刻は昔の記憶を辿れなかったというのに、こういう時は即座にフラッシュバックするのだ。全く、嫌になる。
すると、僕の心情をまた察したようで、箱崎は小さく咳払いをした。
「コホン……まあ、話しにくい事情もあるんだろう。プライベートのことは聞かないことにしておくよ。犯罪者でも無いんだしね。しっかしなあ、あの生徒会長さんとキミは、顔なじみだった、という訳だよね。あんな美人が身近にいるのに、なぜ手を出さないのかね。信じられないよ」
「は? いえ、あいつ……西野とは、別にそういう関係じゃありませんから。口うるさい姉みたいな感じですし、興味なんて、そんな……」
「ははは、恥ずかしがらなくてもいいのに。学生なんだからさ、積極的に行くべきだと俺は思うね」
「い、いや、ですから! ……はあ、もういいです」
その話を引きずられて、万が一、西野の前で口を滑られでもしたら居た堪れない。彼女も、そんなつもりで接してきた訳ではないだろうし、今の関係を崩されるのは、とても嫌だ。
話を元に戻そう。こんな色恋沙汰について議論するために、僕はここへ来たのではない。
「そ、それより。箱崎さんの話だと、僕が『サヴァン症候群』となったのは何かきっかけがあった、ということですよね。それは、一体何なんですか? もしかして、あの男と何か関係があるんですか?」
「ん? ああ、その件か。ええっと、だな……」
にやついた表情を引き締め直し、箱崎は軽く眉間に皺を寄せる。どこから説明しようか、少し迷っているようであった。
だが、その時————
ヴーン、ヴーン
「おっと」
箱崎の方から、鈍く連続した音が微かに響く。その音が鳴るや否や、彼は即座にスーツの内ポケットへと手を入れ、スマートフォンを取り出した。どうやら、着信が入ったらしい。
「すまんね……はいはい、箱崎です。おお、須山か……ふん、なるほど。分かった、すぐ行く」
慣れた手つきで電話を切ると、彼は頬を掻きながら溜息交じりに僕へと口を開く。
「いや、すまんね。ちょいと急用が入ったもんで、さっきの質問には答えられそうにないな」
「え、あ、そう、ですか……」
まさに生殺し、とはこのことである。警察官なのだ、急用が入ることくらいは当然だとは思うのだが、何とも間の悪い。せめて、あと数分くらい待ってくれても良かったのだが。
「そんなに落ち込まなくてもいいよ。どうせ、『水島 龍太郎』で検索すれば、何があったのかってことくらい、すぐに分かるさ。当時はかなり話題になった件だしね。でも、そうだな……」
いそいそと片付ける手を止め、箱崎はじっと僕を見つめる。
「はっきり言っておくよ。キミは、本来ならあの件を知るべきではないと思う。知らないなら、知らないままで過ごせた方が良い。後悔したくなければ、この件には触れないように。まあ、ここまでベラベラと話した俺が言う言葉じゃないかも知れんが、な」
「そう、ですか……」
「悪いね、色々と中途半端になって。何か気付いたことがあれば、気軽に連絡してくれ。それじゃあ失礼するよ」
軽く苦笑いを浮かべつつ、彼は足早に去っていく。残された僕は、ただ無言で彼の背中を見つめることしか出来なかった。
ここまで匂わせておいて、知らない方が良い、とは……なんとも無責任な男である。最後まで話し終えてこそ、その責務は果たされるというのに。
仕方がない。こうなった以上、自力で調べるしかあるまい。後悔したくなければ詮索するな、と彼は言っていたが、自分の過去のことを知らないままでいる、など耐えられるものか。
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