長期休暇空け、しかも通勤ラッシュの時間外ということもあり、代々木へと向かうことに関してはまるで苦労しなかった。強いて言えば、あまりにも車内には空席が目立っていたため、脂汗を滲ませ肩で息をする僕の様子が奇異に映っていたであろうこと、くらいか。
そんなことはどうでもいい。そのくらいの偏見は、甘んじて受け入れよう。何せ、今から僕は大切な後輩の見舞いに、そして西野へ『新人類計画』について話しに行くのだ。十数分という移動時間でさえも、落ち着いてなどいられるものか。
東京総合国際病院は、JR代々木駅から非常に近い距離にある。事前に調べていたこともあるが、それ故にこの距離で迷う方が不思議なくらいであった。適切な方面の改札口を抜けさえすれば、特に問題は無いだろう。
『次はぁ~、代々木ぃ~……』
色々と思案している間に、気の抜けるような音声案内が聞こえてきた。誰よりも先に立ち上がり、改札口へ向かうには最も近い扉の前へと陣取る。しかし、徐々に電車が速度を緩めてゆき、停車位置へと到達しかけた時であった。
「え?」
顔を上げた僕の目に映ったのは、長い髪で整った顔立ちの女性……そう、西野の姿であった。病院の受付周辺にいると言っていたにも拘わらず、彼女は僕を見つけ、笑顔を向けていたのである。
なぜ、駅の構内に西野がいるのか。その疑問が頭の中を駆け巡り、扉が開かれたことにも気づかず僕は突っ立ったままとなってしまった。すると、背後から壮年と思しき男性の苛立った声が耳に入る。
「おい、ガキ! 早く降りろ!」
「へっ? あ、は、はい! す、すみませ……」
「チッ」
慌てて電車から飛び降りた僕は謝罪の言葉を口にするも、男は舌打ちをしつつ階段を駆け上がって行った。余程、急ぎの要件があったのであろう。しかし何も、舌打ちしなくてもいいだろうに。湧き上がる感情を抑え込みつつ、僕は小さく溜息を吐いて西野の方へと振り返る。
「はぁ……まったく、びっくりしたじゃないか。さっきは受付にいる、って言ってたのに」
「ごめんなさい。きっと夏企、場所が分からないんじゃないかな、って思って」
「あのさ、子どもじゃないんだから……まあ、いいや」
きっと、僕があの男に怒鳴られてしまったことを気にしているのだろう。まあ原因は彼女にあるのだが、善意でここまで来てくれたのだ、そこは大目に見ておくとする。
それはさておき、今はとにかく早く病院へ向かうべきだろう。未だにあの男の舌打ちが脳内に響いているが、そんな些細なことはさっさと忘れてしまおう。
「それじゃ……西口、だよな?」
「ええ。なんだ、分かってたの?」
「当たり前だろ。だって僕は、あそこに潜り……」
そう続けようとした矢先、僕は口を堅く閉ざした。いつものように、軽い調子で話してしまうところであった。病院に潜り込むつもりだった、だなんて聞けば、西野は……いや、普通の人間ならば確実に、僕を非難するだろう。未遂に終わったとはいえ、そうした計画を立てた時点でアウトだ。
「もぐり?」
「えっと……あそこには、モグリの医者がいる、って話を聞いたことがあって。それで、ちょっと調べたことがあって」
「ふぅん……?」
非常に苦しい言い訳であるが、西野は意外なことにそれ以上の言及はしなかった。彼女自身も、恐らく平常心では無いのだろう。いつもの彼女だったならば、僕のこんな失言を聞き逃すはずが無いのだ。
そうとなれば、彼女が気付かぬうちにさっさと病院へ向かおう。そもそも、こんなところで油を売っている暇などないのだから。
駅の階段を上り、西口改札を通り抜ける。あとは国道沿いを進めば、自ずと東京総合国際病院へと辿り着くはずである。何一つとして、道に迷う心配はない。
改めて、こんなにも単純な道のりであるというのにも拘わらず、わざわざ駅の入場券を購入してまで僕を迎えに来るとは……西野も相当に混乱しているのか、それとも僕を本気で見くびっているのか。いずれにせよ、彼女が心配性だということだけはよく分かる。
「ほんと、西野は心配性だよな」
「いきなり何よ、失礼ね。夏企、昔から迷子になりやすかったじゃない。覚えてるでしょ?」
「そんなの、中学になる頃にはもう克服してたよ。だって僕は……」
そう言いかけた瞬間、言葉に詰まる。今までの僕であれば、堂々と『サヴァン症候群』だ、と言えていたであろう。しかし昨日、西蓮寺から聞いた話が本当のことであれば、僕は『サヴァン症候群』ではない。
父親という肩書を持つ悪魔により、瞬間記憶能力を植え付けられただけの男である。以前に真中が言っていた、哀れなモルモットという言葉は僕にぴったりだ。
しかし、そうなると、だ。
「……」
「夏企?」
ふと歩みを止めた僕を、西野は不思議そうにじっと見つめる。
あの言葉を発したということは、箱崎はもちろんのこと、真中も『新人類計画』を知っていた、と言える。だからこそ、あの時……部室で例の写真を見た真中は、あれだけ狼狽えたのだろう。彼女の父親、真中 善久が水島 龍太郎と親しげに写っていたのだ。その衝撃度は計り知れない。
僕自身は、あの父親に対して最初から微塵も好感を抱いていなかったため、悪人だったと知ってもさほどショックでは無かった。だが、真中は違う。もちろん、一般的な家庭だったかどうかまでは分かりかねるが、少なくとも僕ほど拗れた家庭環境ではないはずである。
ただでさえ彼女は双子の妹を喪ったばかりであったのに、そんな事実を突きつけられて冷静でいられるはずもない。僕の父親との関係について聞くならば、もう少し落ち着いてきた頃にするべきか。
いや、待てよ。西野は確か、病院に警察の人も来ている、と話していたな。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
「……ごめん西野、ちょっと考え事をしてて。それでさ、一つ聞きたいんだけど……確か、警察が来てるんだったよな?」
「当たり前でしょう。事件が事件なのだし、まだ犯人は捕まっていないそうだから」
「その警察ってさ、前に学校に来た人だったか?」
箱崎と面識は無いだろうが、真中とは会話を交わしている。それどころか睨み合いすらしたのだ、そんな彼女のことを聡明な西野が忘れるはずもない。もし箱崎や真中が来ているのならば、ちょうど話を聞くいい機会だと考えたのだ。
しかし、僕のこの目論見は見事に崩れ去ることとなる。
「いいえ。そもそも、あの人たちはこの辺の管轄なのでしょう? だとしたら、高城さんの自宅周辺で起きた事件の捜査なんてしないでしょう。彼女、確か高輪の辺りに住んでいるのよね?」
「あ……そ、そっか……」
「夏企らしくないわね。まあ、こんな状況で落ち着いていられる方がおかしいのだから、仕方ないでしょうけど」
どうやら、冷静になれていないのは僕の方であったようだ。高城が一連の事件と関係しているのならばともかく、通り魔に襲われたというだけで管轄外の人間が割って入ることなど、まず有り得ない。こんなこと、考えなくとも分かっていたはずなのに。
自分の不甲斐なさに落ち込む僕へ、西野は優しく微笑むと軽く背中を叩いた。
「ほら、シャンとしなさい。あなたがそんな様子だと、とてもじゃないけど病室になんて入れられないわよ? さ、急ぎましょう」
「あ、ああ……」
活を入れられ、気を取り直した僕は西野と共にまた歩き始める。心なしか、先ほどよりも歩調が軽くなったようで、数分もしないうちに病院と到着することが出来た。
東京総合国際病院は、新宿に存在する病院の中でも中核的な立場にあり、病床数自体はそう多くないものの、難病、奇病の類を専門的に扱っているらしい。五年ほど前、重大な医療事故が起きたことで一時期話題となったが、治験中での死亡事故だったこともあり、この病院が非難されることは無かったようだ。
代わりに、その新薬を開発した『奇跡堂薬品』という製薬企業は大いにバッシングを受け、倒産したという。また当時の社長が謝罪会見中に自殺をしてしまい、この上なく最悪な治験での事故、として大々的に報道されたことは記憶に新しい。
さて、それはともかく。この病院に辿り着き、中へ入ろうとした時であった。ふと僕の脳内にある疑問が浮かび上がり、先を行く西野へと問い掛ける。
「着いた、けど……面会って、普通は時間が限られてるんじゃないのか?」
「え? ……あ」
ピタリと動きを止め、西野は数回ほど瞬きをした。どうやら、彼女も冷静では無かったらしい。
「おい……もしかして、確認してなかったのか?」
「え、っと……ごめんなさい。さっきは先生とかご家族とか、警察の人と一緒に入ったから全然気づいてなかったのだけど……そうよね、普通は面会時間、決まってるわよね……」
「当たり前だろ。えっと、面会時間は……ああ、午前十時からだとさ」
入り口周囲に張られた掲示を読む限り、一般患者の面会は午前十時。現在の時刻は、病院の時計を見たところ八時半であるから、あと一時間半は待ちぼうけ、となる。
幸いにも、この病院にはカフェも併設されているようなので、そこで時間を潰すことは出来そうだが……色々と気が抜けてしまったせいか、このまま休憩してしまえば人目を憚らず眠りに落ちてしまいそうだ。
「ごめんなさい。もっとちゃんと調べておけば良かったわ」
「いや、いいよ。西野が悪い訳じゃないんだし……ん?」
項垂れる西野にそう返した時、ふと病院内にいる一人の女性の姿が目に付いた。ショートヘアーで眼鏡をかけた、やや行動が不審な少女……間違えようが無い、出水だ。
偶然この病院を受診しに来た、ということは無いだろう。十中八九、西野か金子から連絡を受け、僕と同じく面会時間を確認しないまま駆けつけて来たに違いない。その証拠に、普段から化粧っ気のない子であったが、今日はそれどころか寝癖すらも直っていないのだ。
「出水、だよな……」
「あら、本当ね。金子くんったら、出水さんにはまだ伝えないでね、って言ったはずなのに……もう」
西野も彼女の姿を見つけたようで、大きく溜息を吐きながら病院の中へと入っていく。恐らく、不安症の出水にはちゃんと事実確認をした後に伝える予定だったのだろう。しかし残念ながら、金子はまったく伝言役として機能しなかったようだ。
軽く苦笑いしつつ、僕も西野に続き病院へと入ると、なるべく小さな音量で出水へと声を掛けた。
「出水」
「っ! ……先輩!」
不意に名前を呼ばれ、ビクッと体を反応させた出水はゆっくりとこちらへ振り向くと、安堵と不安の入り混じったような複雑な表情を浮かべつつ駆け寄って来る。
「せ、先輩、美琉加が……美琉加が!」
「落ち着け。走ったらダメだ、ここは病院なんだぞ?」
「あ、う……」
「大丈夫だよ。一応、大事には至ってないらしいから。そうだよな?」
「ええ。先生や警察の話では、数日もすれば回復するそうよ。だから安心して」
僕と西野から情報を得た出水は、そのまま崩れ落ちるのではないかと不安に思うほど気の抜けた表情となり、天井を仰ぎつつ力なく答える。その弾みで跳ね上がった髪の毛が、小さく揺れ動いた。
「そ、そうですか……良かった……」
「ええ、本当に。……それはそうと出水さん。あなた、酷い寝癖よ?」
「へ? あ、そういえば、セット忘れた、かも……」
「はぁ、しょうがないわね。夏企、ちょっと彼女の髪を直してくるから、ここで待っててくれる?」
「あ、ああ」
さすが、お節介焼きの西野だ。悲惨なことになっている出水の髪を触る西野の姿は、まるで我が子を慈しむようである。このスイッチが入った彼女は、もう止めようが無い。
「あの、会長さん……私、このままでも、別に……」
「よくありません。どうせ面会まで時間はあるのだから、今のうちに身だしなみくらい整えないと。ああ、襟も曲がってるし、ボタンだって掛け違えてるわよ? さ、早く直しに行きましょう」
「え、あ、あの……」
ほとんど出水の話を聞くことなく、半ば引きずり込むような形で西野は化粧室へと歩を進める。それに抵抗できるはずもなく、出水も狼狽えた様子のまま姿を消していった。二学年しか違わないというのに、これでは本当に親子のようである。
「親子、か……」
緊迫した中、突如として訪れた和やかな雰囲気に戸惑いつつも、西野に言われた通り、近くにあったベンチに腰掛けた。
時間的には、そろそろ外来の始まる頃であろうか。さすがにこの受付周辺にも人が増えてきており、あちこちで雑多な話が飛び交い始めている。当然、老人が圧倒的に多い訳だが、中には妊婦や子ども、あとは白衣を纏う人間も忙しなく僕の前を横切ってゆく。
「ヤバ、寝そう……」
ちょうどいい室温、それに適度な雑音、そして安堵感。それらが一挙に押し寄せ、少しずつ意識が薄れかける。必死になり眠気と格闘するも、もはや敗北寸前という段階にまで来ていた。
だが、その時であった。
「ん……?」
行き交う人波の中に、見覚えのある人物の顔が目に映ったのである。無論、箱崎たちでもなければ、西光学園の教師でもない。そもそも、その男は白衣を着ていたのだ。僕が良く目にするような人物では無いことは確かである。
なぜ、その男に見覚えがあったのか。僕は疑問に思い、男の顔をはっきりと脳に描き、過去の記憶と照合させる。しかし思いの外、その答えは割と早くに導かれた。
「ああ、駅の……!」
そう、代々木駅のホームで僕に強い不快感を与えた人物。それがあの男だったのである。
まさか、あのような短気な人間が医療従事者だったとは。しかも白衣ということは、少なくとも医師だとか、患者に接する類の職種なのであろう。もちろん、完全に僕が悪い状況であったのだが、それにしても信じ難い。
これから高城の面会へ行くというのに、あの男が高城の主治医では気まずい。万が一、あの男が僕の顔を覚えていれば、きっといい顔はしないだろう。それが高城本人に向けられては、堪ったものではない。
そう考えた僕は、あの男の素性を暴くため、頭をフル回転させて彼の纏っていた白衣に下げられたネームカードを、記憶の底から掘り起こす。こういう時ばかりは、この能力に感謝である。
「えっと……小児科、かな。名前は……」
記憶にあった、その名前を想起した瞬間、僕を支配しつつあった眠気は一気に消え去っていった。何故ならば、その男の名は今まで何度も目にし、そして本来であれば今日、まさにここでこの男に会いに行く予定だったから、である。
「間柴……!」
男の名は、間柴 忠。例の写真に写り込んでいた人物で、『ハルマチ』……つまり西蓮寺 真冬を『新人類計画』へと誘った三人のうちの一人であった。
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