「————————くん」
「ん……?」
深い微睡みの底、ゆらゆらと暗い世界を揺蕩う中、不意に誰かの声が耳元に響く。全く悪夢を見ることなく、ただぼんやりとした意識の下、その声に耳を傾ける。
「————き、くん」
「……」
もしかすると、出水が僕を起こしに来たのだろうか。だが、聞いたことのない声色だ。それに出水は、多少言葉遣いこそ乱雑な時もあるが、僕を『くん』付けで呼んだことなどない。もしかすると、家の外にいる誰かの会話が聞こえているだけなのかも知れない。
とりあえず、誰のものとも知らぬ声に起こされるのは癪だ。これが近所のおばさんの話し声だったならば、何ともやるせない気分になってしまう。もう少し目を閉じて聞いていよう。
「聞こえてる?」
「……」
「ねぇ」
「……」
「もう、夏企くん! いい加減、起ーきーてーっ!」
「うおっ!?」
無視を続けていた僕の耳元で、その声の主は大声で怒鳴った。さすがに耐え切れず、飛び跳ねるように起き上がった僕は、眠い目を擦り溜息を吐く。
「な、なんだよ……もう少し寝かせて……」
「なに言ってるの、もう朝だよ!」
「はぁ?」
その意味不明な言葉に僕の眠気は完全に吹き飛ばされ、視界が徐々に開けてゆく。しかし、少しずつ意識が戻るたび、鮮明となってゆく不可解な光景を前に、逆に思考が定まらなくなっていく。
「あ、れ……?」
雑多な機材が無造作に積まれた、奇妙な臭いの漂う部屋は忽然と消え、僕にとって非常に親しみのある風景が突如として映し出されたのだ。これを見て言葉を失わない人間がいるのならば、是非とも紹介してほしいくらいである。
「ここ、僕の部屋、か……?」
そう、出水の家で寝ていた僕は、いつの間にか自分の家へと帰っていたらしい。机の配置やベッドの位置からして、間違えようがない。ただ、どこか様子がおかしい。
無造作に教科書が積まれていた机には、小さな子どもが読むような絵本が開きっぱなしで置かれている。それに、とっくの昔に捨てたはずの玩具も床に転がっていた。
「あれ、なんで……?」
「まーだ、寝ぼけてるの? もう、夏企くんはいつまでたっても寝ぼすけさんだね!」
「え……?」
呆然としたままの僕は、訳も分からず先ほどから隣で声を掛け続ける女性へと視線を向けた。だが、部屋の変貌よりも驚くべき人物の存在に気付き、また僕は言葉を失う。
そばかすの目立つ、短髪で地味な女の子が、僕をじっと見つめて微笑んでいたのだ。
この子の姿には見覚えがある。昨晩、箪笥の抽斗の奥から発掘した懐かしい写真立て……それに収められていた写真に写っていたのが、まさにこの目の前にいる女の子である。
「えっと、あの……」
「ん? どうしたの?」
屈託のない笑みで僕を見つめる女の子に対し、僕はまだ動揺しつつも率直な疑問をぶつける。
「あの、どちら様、ですか?」
「え?」
その質問を聞いた途端、穏やかに微笑んでいた女の子はプッと噴き出し、腹を抱えて笑い出す。
「あははは! ちょ、ちょっと夏企くん、寝ぼけすぎだよぉ! 幼馴染の顔も忘れちゃったの? はぁーあ、おっかしい!」
「お、幼馴染……?」
「そうだよ! ウチは夏企くんの幼馴染、西野。西野 心深だよ! ふふ、朝から笑わせないでよ、もう……」
「西、野……?」
この子が、あの西野 心深だという。そんなもの、俄かには信じられない。僕の知る西野は、こんな風に豪快に笑ったり、自分のことを『ウチ』と呼んだりしない。芯の強い、清楚で完全無欠のお嬢様であったはずなのだ。
ただ、この女の子が嘘を吐いているようにも思えない。そこまで器用な人間であるようには見えないし、第一、そんな嘘を吐く意味はどこにも無いのだ。まるで訳が分からない。
……いや待て、少し落ち着こう。まずは現状を把握しないことには、何も始まらない。何か、この異常な空間を理解するヒントは無いだろうか。
そう考え、ぐるりと部屋を見渡す。すると、僕の反応がツボに嵌ってしまったのか、未だに笑みを湛えながら俯く女の子の背後に、壁掛けカレンダーを見つけることが出来た。女の子に気付かれないよう、静かにカレンダーを凝視する。
「……二〇〇五年?」
どうやらここは十年前、つまり僕が『新人類計画』に参加させられた年の光景であるらしい。そこまで確認してようやく、僕はこの世界の正体を理解することが出来た。
これは夢だ。脳に疲労が蓄積すると、このように現実との境界が不明瞭となる夢を見ることがあるらしい。これは恐らく、その類なのだろう。
ずっと混乱しっぱなしであったが、これでようやく落ち着くことが出来そうだ。夢ならば瞬間移動しても、訳の分からないことを言い出す人が出現しても、何も不思議ではない。やはりそうだ、この女の子が西野だなんて、あまりにも馬鹿げている。
しかし、だ。これが夢だとしても、どうしてこの女の子はこうも自然に動いているのだろう。写真でしか見たことのない人が夢に出てくる、ということはあっても、ここまでリアルに会話が出来るものだろうか。
有り得ないことではない。だが、僕はこの女の子と実際に話したことがあると解釈した方が、矛盾は無い。
だとすると、この女の子は一体誰なのだろう。少し探りを入れてみるか。
「あのさ、西野」
「ええ、何? いつもはウチのこと心深って呼んでくれてたのに、それも忘れちゃったの?」
「あ、いや……心深、ちょっと聞きたいんだけど。誕生日って、いつだったっけ?」
「へ? なんで急に誕生日なんか……八月十日、だけど?」
「そ、そうか……そうだった、よな」
誕生日は、本物の西野と同じであるようだ。まあ、誕生日が偶然一致することもある。それだけで、彼女が西野であるという証明にはならない。
となると、これ以上どうやって、彼女を西野ではないと否定したらいいのだろう。血液型なんて六、七歳程度の子が理解しているとは思えないし、打つ手がない。
質問を思い倦ねていると、ひとしきり笑い終えた女の子が不意に僕の袖を強く引っ張る。
「もう、いつまでもそうしてたら、遊びに行けないじゃない! 今日はみんなで遊園地に行くんだから、早くしてよ!」
「え、ちょ、ちょっと待ってくれよ! まだ聞きたいことが————」
「そんなの、後にすればいいじゃない! ほら、お父さんたちが待ってるよ!」
「後って、そんな……え、お父さん……?」
夢の中らしく、強制的に彼女により手を引かれた僕は、あっという間に家の玄関へと躍り出た。そして澄んだ空の下、この世で最も出会いたくなかった男が僕の視界に飛び込んできた。
「っ……!」
その男は、まだこちらの存在に気付いていないのか、目の前にいる男性と何か会話を交わしている。そのため顔はよく見えないが、間違いない。あいつは、水島 龍太郎だ。
ただ、現在の姿とは異なり、腹回りはやや太く髪もフサフサとしており、本当に別人のようだ。学校で見つけた、例の写真に写っていた彼を見て最初は気づけなかったのも、この姿を見れば改めて頷ける。
とはいえ、僕をあの実験へと送り込み、異常な教育を施したという罪が消えることは無い。たとえ夢の世界であろうとも、絶対に顔を合わせたくは無いし、ましてや言葉を交わすなんて論外だ。
そんな僕の想いを知らず、無情にも女の子は大きな声で彼女の両親の元へと駆けてゆく。
「お父さーん、お母さーん! 夏企くん、連れてきたよー!」
そう言いながら、彼女は龍太郎の目の前にいる夫婦へと飛びつく。あの男性にも、そしてその横にいる女性にも見覚えがある。彼らは、あのそばかすの女の子と一緒に笑顔で写っていた夫婦だ。
あの二人については、僕が瞬間記憶能力を得た後も会っていたため、しっかりと覚えている。間違いなく、西野の両親だ。僕がこの手で、友好な関係をぶち壊しにしてしまったのだ。忘れたくとも、忘れようがない。
ただ、彼らが少女の両親だとすると、あの子はやはり西野、なのだろうか。あまりにも現実とかけ離れていて、どうにも納得が出来ない。
理解が追い付かず玄関先で立ち尽くしていると、笑顔で飛びついた少女の頭を男性が撫でる。
「おお、早かったなぁ心深。ご苦労さん」
「えへへぇ、頑張りました!」
はにかむ少女に対し、龍太郎は申し訳なさそうに小さく屈みながら声を掛ける。
「ごめんね、心深ちゃん。夏企はどうしても朝が弱くてな。はぁ、誰に似たんだかな」
「お父さんでしょ? もう、人のせいにして……」
「おいおい、そんなことは無いだろ?」
「初デートに遅刻してきたこと、ちゃーんと覚えてるんだから」
「うっ……そ、それはもう、言いっこなしだろ? まったく……さてと」
そして、隣にいた僕の母親である東子と小さな言い合いをした後、彼はゆっくりとこちらへ振り返り、笑顔を向ける。
「夏企、何をしてるんだ。早く行くぞ!」
「……」
憎たらしい笑みを向けられ、僕は込み上げてくる負の感情を必死に押さえ込みながら無言で目を逸らす。これ以上、あの男の顔を見ていたら理性が保てない。殺意に身を委ね、見境なく暴れてしまうだろう。そう、あの時と同じように。
だが、そんな僕の様子を見て首を傾げた龍太郎は、ゆっくりとこちらへ近づき、また声を掛ける。
「どうしたんだ。体調でも悪いのか?」
「……」
「夏企?」
本気で心配している訳がない。他人の目があるため、仕方なく優しく接しているだけだ。この夫婦は、そういう人たちなのだ。外面だけは良く見せ、裏では僕を虐げる……それを僕は、嫌というほど味わってきた。
もういい、そっちがその気なら僕も受けて立つ。もう僕は子どもではない。反抗できる程度には力を付けた。たとえ夢の世界であっても、この気持ちが晴れるのならば何でもやってやる。
そう決意した矢先、龍太郎はゆっくりと僕へ手を伸ばしたかと思いきや、驚くことに頭を撫で始めた。分厚く温かい手が、僕の頭を優しく包み込む。
「は……?」
「まったく……どうせまた、夜遅くまで勉強してたんだろう? まだ小学校にも上がってないのに、どうしてこう無理をするんだか」
「な、なにを言って……」
唖然とする僕に、龍太郎は小さく笑いかけ、はっきりと告げた。
「いいか、夏企……お父さんたちを目指すのは勝手だけど、無理だけはしちゃダメだ。体調を崩してまで勉強されても、お父さんたちは全然嬉しくない。それより、ほら。たくさん遊んで、たくさん笑顔を見せてくれ。な?」
まるで、意味が分からなかった。異常なほど成績を伸ばすことに執着していたあの男が、決して口にするような言葉ではない。
こんなはずはない。あの男が、他人に聞かれない場所で僕に優しくする訳が無い。これは何かの間違いだ。やはり、この夢の世界は全部おかしい。
「違う……お前は、僕の父親なんかじゃ、ない……!」
「え?」
「僕の父親は、もっと勉強しろ、死んでも続けろと、言うはずだ。そんな言葉を、僕に言うなんて……お前は……!」
「……」
手を振り払い、強い拒絶の言葉を投げつけた僕に対し、龍太郎は一瞬だけ困ったような表情を浮かべると、また大きな笑顔を見せ、今度は僕を抱きしめた。
「なっ————」
「怖い夢でも見たんだろう。大丈夫だよ、お父さんたちは絶対、夏企を守る。見捨てたりなんかするもんか。勉強が出来なくたって、運動が出来なくたって、夏企は夏企。お父さんたちの、自慢の息子なんだからな」
「そ、そんな……」
「ほら、だからもうそんなところに立ってないで、早く家の前に行こう。写真を撮ってから遊園地に行きたいって、言い出したのは夏企だろう?」
「あ……」
そのまま、頭が真っ白となった僕の手は彼の大きな手に引かれ、家の前で待つ東子と少女の一家の元へ連れられる。そして、完全に放心する僕を挟むように龍太郎と東子は両脇に立ち、カメラへと向く。
「よし、じゃあ撮るよ! 十秒前!」
「お父さん、早く早く!」
「ほら、夏企! 笑顔だぞ!」
「あ……」
こんな、はずではない。僕の家族は、こんなに穏やかで愛が溢れていたなんて、そんな訳がない。何かの間違いだ、おかしい、おかしい、おかしい!
だが、何度も否定を重ねるうち、僕の頭に鋭い痛みが走る。
「っ!?」
つい昨日、あの写真を見た際に走った、あの頭痛だ。
「い、痛い! 痛い!!」
痛みに堪え切れず、その場に蹲る。涙で視界が滲み、ぼやけて何も見えない。いや、何かを見るような余裕すらも存在しない。
「あああ……ああああぁぁぁぁっ!!」
僕は叫んだ。この世界を受け入れられず、力の限りに拒絶した。喉が裂けるくらい、血管が破けるくらい、僕は絶叫した。この痛みを忘れることが出来るならば、血管の一本や二本、幾らでも捧げるつもりで咆哮した。
そして、一瞬だけ心配そうに見つめる龍太郎の顔が映った後、再び視界は真っ暗闇に包まれ、先ほどの光景は消え去った。泡沫の如く、弾けるように。
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