ヴーン……ヴーン……
「う……」
深い眠りを強引に呼び覚まさせるような、不快な振動音が僕の耳もと付近で鳴り響く。薄く目を開け、その音源の方向へとゆっくり視線を移す。
ヴーン……ヴーン……
「……ああ、なんだ。スマホ、か……」
視界の端に映った、小さな筐体。あれは、僕のスマートフォンだ。いつの間にかポケットの中から滑り落ちていたようで、床の上を這うようにして振動する度、僅かに動いている。太陽の日差しを浴び、画面を介して眩しい光が部屋の中を貫く。
まだ痛む頭を押さえつつ起き上がり、スマートフォンの鳴動を止めようと腕を伸ばす。だが、その時。僕はあることに気が付き、身を固まらせる。
「ああ、もう朝、か……え、朝!?」
そう、すでに夜が開けてしまっている、という事実に気付いたのである。このリビングダイニングに日差しが注ぎ込まれている以上、少なくとも太陽はそれなりに昇り始めている、といえる。
つまり、僕はこの部屋で一夜を過ごしてしまったのである。しかも、例のチェストの抽斗を引き抜いた状態のまま、だ。
「っ……!」
息を飲み、混乱する脳を落ち着かせつつ部屋をぐるりと見渡す。一見すると、部屋の中に目立った変化はない。せいぜい僕が頭痛により暴れまわったせいで、机と椅子の配置が若干動いている程度で、食器や僕の横にある抽斗にも特に変わった様子は無さそうだ。
これはどうやら、両親は出張中であると考えて良さそうだ。もし彼らが夜に帰宅していれば、いつもこの部屋に寄り着かない僕が、しかも床で倒れているとなれば、さすがにあの薄情な人間であろうと何らかの対応を取るであろう。たとえ僕のことは無視したとしても、抽斗をこのままにしておくとは思い難い。
不幸中の幸い、とでも思っておこう。彼らが帰って来ていれば、それこそ面倒な事態に陥ることは明白だったのだ。
ヴーン……ヴーン……
さて、一つ肩の荷が下りたところで、そろそろ先ほどから五月蠅く鳴り続けるスマートフォンを黙らせなくては。目を覚まさせてくれたことには感謝するが、この振動音がいい加減煩わしくなってきた。
ふう、と大きく溜息を吐き、スマートフォンの画面へと視線を落とす。画面に表示されていたのは、やはり無料通話アプリからの着信通知だ。しかしその発信者は、これまた意外な人物であった。
「ん、金子……?」
金子から電話とは、何とも珍しい。本来はゴールデンウイークも終わり、本日、五月七日は登校日となるはずであった。しかし木村の事件の影響で今週いっぱい……少なくとも十日までは休校であると連絡を受けていた。それも、この発信元である金子から、である。
現在の時刻は、午前七時を少し過ぎた頃だ。休日の、しかも早朝に彼が電話をしてくるというのは、かなり珍しい……いや、恐らく初めてのことであろう。それ故、先ほどとはまた異なる緊迫感に支配されつつ、僕はゆっくりとスマートフォンの画面をスライドし、電話を取った。
「……どうしたんだよ、こんな朝早くに」
「なんだよ、出られるんじゃねぇか……っと、そんなことより大変だ!」
「は? 何がだよ」
電話に出るや否や、金子は堰を切ったように話し始める。その声色は、いつもの飄々としたものではなく、いつになく切迫した様子であった。そして戸惑い続ける僕に、金子は思いもよらない情報を投げかける。
「高城が、通り魔に刺されたらしいんだ!」
「は……?」
高城が、刺された? 通り魔に?
「さ、刺されたって……無事なのか!?」
「俺も詳しくは知らねぇけど……会長の話では、そこまで深い怪我では無いらしい。ただ、数日は入院して経過をみるらしいけどな」
「会長って……西野から、その話を?」
「ああ。お前が電話に出ねぇっていうからよ、代わりに俺のとこに連絡が来たんだ。んで、一応確認のために電話したんだが……」
「そう、だったのか……」
恐らく、警察あたりから校長、もしくは担任へと連絡が行き、それが西野の耳にも届いたのだろう。あの西野のことだ、すぐに僕の元へと連絡を入れたに違いない。
だが間の悪いことに、僕は気を失っていた。だからこそ、金子にこの情報が流れたのであろう。結果として西野の判断は間違っていない。何故なら、金子の電話によりようやく、僕は眠りから覚めることが出来たのだから。
しかし、通り魔とは……高城も相当に運が悪い。こうも立て続けに事件と遭遇し、最終的には被害者となってしまったのだ。あれだけ元気のある高城でも、さすがに堪えたであろう。そこまで重傷ではなさそうだが、だとしても心には大きく、消えない傷が残る可能性もある。
「えっと……じゃあ高城は、今も病院にいるのか?」
「そうだろうな。まあ、詳しい話は会長から改めて聞いた方が良いだろ。俺も実際、会長の話なんてほとんど頭に入らなかったからな。テンパっちまって……悪いな」
「いや、僕の方こそ、肝心な時に電話に出られなくてごめん。金子も、勉強で忙しかっただろうに」
「ああ、いや……そっちは別に良いんだけどよ……その、な」
「ん?」
急に歯切れの悪い調子となった金子に疑問を抱き、僕は特に考えることなく率直に問いかける。
「どうした、何か気になることでもあるのか?」
「いや……ほら、木村先生が死んだ直後だってのに、高城が夜中に歩き回っていたことについてさ、会長に聞かれたんだよ。んで、まあ……」
「……喋ったのか。昼間の件を」
「……」
沈黙したまま、それ以上金子は返答しなかった。だが、金子が何を言い淀んでいるのか、その真意を推し量るにはそれだけで充分である。
西野は恐らく、話し合った内容を知っているかどうかは別として、僕たちが外出していたという事実に対し、激昂しているのだろう。学習塾に通う予定であった金子は別としても、僕や高城、出水に関してはそういった予定など無かった。
不測の事態が生じ、普通ならば外出を自粛すべきところを……しかも木村を顧問に持つ活動のメンバーが、集会を開いていたのだ。それを聞いて、あの西野が何も思わないはずが無いのである。
当然、高城だけが夜歩きをしていた、と言い逃れをすることも可能であっただろう。だが、さすがにその言い訳をしてしまうと、今後高城との関係が悪くなってしまうことは必定である。そういう観点では、正直に話した金子の判断は間違っていない。
むしろ、あの時間まで高城を外に連れ出してしまったのは、僕の責任である。西蓮寺の家に向かう際、無理やりにでも彼女を家に帰しておけば、このような事態にはならなかったのだ。
外出していたことは全員で謝罪するにしろ、この件については僕に非がある。これは改めて、西野本人と話し合わねばならないだろう。
「はあ、胃が痛くなるよ……」
「ホント、すまん。けどよ、高城が刺されたのは夜だって話だし、さすがに会長も活動とは無関係だ、って理解はしてるだろ。まさかアイツが、お前と二人で遊びに出かける訳ねぇもんな」
「……まあ、事情は分かったよ。連絡ありがとう、西野に折り返してみるよ」
「お前の無事を祈るぜ。じゃあな」
それだけ告げると、金子は通話を切った。通話終了の表示が映し出される画面を見下ろし、僕はより一層深い溜息を吐きつつ、またスマートフォンを操作し始める。
金子の話通り、僕のスマートフォンには数件の着信履歴が残っていた。真面目な西野らしく、数分ほど間隔を空けて掛け直していたようである。これだけの着信があったにも拘わらず目を覚ませなかった自分に、怒りを通り越して呆れかえってしまう。
それはともかく、今はまず西野へ折り返し連絡を入れることが先決だ。高城の容態についても詳しく聞きたいし、出来ることならば、ちゃんと話しておきたい。昨日の夕方、一体僕と高城が何をしていたのかを。
震える指先で、発信ボタンをタップする。そして数秒の後、聞き馴染みのある声がスピーカーから耳へと伝わってきた。
「もしもし、夏企!? どうして電話に出なかったの、心配したじゃない!」
「あ、ああいや、その……ごめん」
金子と同じく、息つく暇を与えないほど怒涛の勢いで話し始める西野に、僕は軽く圧倒されつつも、一先ず謝罪の言葉を述べる。それに対し、彼女は特に意に介すことなく、電話口でもはっきりと分かるほどの溜息を吐くと、冷静さを取り戻したのか落ち着き払った調子で話を続ける。
「はあ……金子くんから、話は聞いた?」
「う、うん。高城が、通り魔に刺されたって……軽傷だとは聞いたけど」
「いいえ、決して軽傷では無いわ。あと数センチもズレていれば、内臓を傷つけていたかも知れないくらい、ギリギリなところだったそうよ。それについては、彼女は運が良かったわ」
「え、そ、そうだったのか……」
どうやら金子は、高城が通り魔に刺されたという情報以外、まともに理解できていないらしい。ただ、少なくとも命に関わるようなほどの怪我ではないことだけは事実であろう。そこはとりあえず、数少ない安心材料である。
「じゃあ、高城はとりあえず無事、と思っていいんだな?」
「そうね、聞いた話では。まだちゃんと会って話した訳じゃないから、確証はないけれど。今は警察の人たちも帰って、ご両親や先生とお話し中みたいだから、意識もしっかりしてるのだと思うわ」
「そうか……それは良かった」
「ええ、本当に」
とりあえず、高城の方は安心して良いだろう。金子の曖昧な話を聞いてヤキモキとしていた気持ちが、スッと軽くなったような気がした。
しかし、妙だ。今のところ、西野は僕たちの行動について一切言及してこない。先ほどの金子の話を鑑みれば、これほど穏やかに会話できるような精神状態ではないはずである。単純に、杞憂だったのだろうか。
すると、そう予測していた矢先のことである。ふと西野は声のトーンを一つ落とし、周囲の目を気にするようにして小声で喋りだす。
「……夏企。あなた、昨日彼女と二人でいたんでしょう? 金子くんから聞いたもの、それは確かなのよね?」
「え……あ、ああ」
やはり来たか。彼女の話しぶりからして、恐らく今は病院の通話可能スペースにいるのだろう。だからこそ周囲に遠慮して雷を落としていなかっただけで、内心では怒りで煮えくり返っているに違いない。こうなってしまえば、もはや弁解の余地など無い。
キリキリと痛む胃を押さえつつ、彼女の問いに対し素直に答える。こういう場合は、逃げてしまう方が却って事態を悪化させるものだ。
「ごめん。不謹慎だとは思っていたけど、それでも……僕たちの活動は、学校生活を送る上では絶対に必要なんだ。だから会議を開いて、今後について検討しようと……」
これは、嘘偽りのない本音である。それも、僕だけでなく出水、それに今回の被害者である高城も同じ意見なのだ。それだけは、どうしても彼女に伝えておきたかったのだ。
だが、西野から返ってきた答えは、僕の予想とまるで異なるものであった。
「何を言っているの? 私は、夏企と高城さんが二人で何をしていたのかが聞きたいのだけど」
「え? メンバー四人で会議したことに怒ってるんじゃないのか?」
「なんでそうなるのよ。木村先生のことがあって、今後の活動について不安に思うのは当然じゃない。むしろ私は、みんなが活動に対して真剣に向き合っていることに、とても感心したくらいよ」
「……」
どういうことだ、金子。まさか寝起きに西野から電話が来て、その時点でパニックに陥ったのではあるまいな。これほどまでに話が食い違っていると、むしろ金子の頭の方が心配になる。
ただ、どうやら西野は僕と高城が二人きりになった際、何をしていたのか。それについては非常に気になっているようである。確かに、僕は通り魔に刺されたとしか聞いていないが、その直前だとか電車内などで、トラブルに見舞われていた可能性を考えるのは自然であろう。
そうとなれば、高城の最寄り駅である五反田まで同じ車内にいた僕の話を聞きたい、と思うのは当然か。なるほど、さすがは西野だ。生徒を真っ先に疑うのではなく、それ以外に問題が無かったかどうかを確認する……まさしく生徒会長の鑑である。
もともと、西野には西蓮寺の話した内容について打ち明けるつもりでいたのだ。いい機会である、ちゃんと話してしまった方が良いだろう。僕の父親が過去に何をしたのか、そして西蓮寺の息子、それに僕がどうなったのか、を。
「それで、どうなの? 話してくれるんでしょうね?」
「……ああ、分かったよ。でも、電話だと長くなるし……今、西野は病院だよな?」
「ええ、代々木にある、えっと……東京総合国際病院、ね」
「東京総合……」
東京総合国際病院といえば……『新人類計画』に関わったという、間柴が勤務する病院だ。
これも因果だろうか、僕が今日にでも潜り込もうとした病院に、正当な理由で訪れることになろうとは。まったく皮肉なものである。
「分かった。じゃあ、今からそっちへ行くよ。それで昨日、何があったのかを話そう。それでいいかな?」
「……話して、くれるのね。そう、分かったわ。じゃあ、総合受付の辺りで待ってるから」
「受付、な。了解」
そう言って僕は通話を切り、病院へ向かうため支度を整えようと立ち上がる。だが、ふと足元を見下ろした時、抽斗が引き抜かれたままの状態であることを思い出した。
「ヤバ、戻さないと……」
恐らく出張中であるとはいえ、万が一のことがあっては困る。逸る気持ちを抑えつつも、僕は昨日のような失敗をしないよう、慎重に抽斗を持ち上げた。そしてそのまま、ゆっくりとチェストへと押し込む。
「よし、これでOK、と……」
一息入れ、ぐるりとリビングダイニングを見渡す。昨日僕が足を踏み入れた時と、ほとんど変わりはない。多少、家具の位置はズレてしまったが、この程度の変化に気付ける人間はいないだろう。
急ぎ踵を返し、自室にある鞄を取りに部屋を出ようとした。しかしその刹那、妙な違和感が脳裏を過る。
「ん……?」
何か、引っかかる。言葉には表せないほど微細なものだと思われるが、何かがおかしい。それだけははっきりしていた。
何だ、この違和感は。しかし、それが分からない。
「……糖分不足、かな」
不可解な疑念に襲われつつも、強引にそう結論づけた僕は、自室へと戻りカロリーブロックを一つ口に放り込み、急ぎ家を後にした。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!