JR代々木駅から徒歩数分の距離にある、寂れた喫茶店『カフェ・レストリア』。そこで僕と出水は軽食を摂っていた。ちょうど正午という時間帯にも拘わらず、この店には僕たち以外に客はいない。
「静か、だな」
「うん」
出水と会話にもならないレベルの言葉を交わし、軽くタマゴサンドを頬張りつつ店内を見渡す。
ドアベルに、小さく響くジャジーな音色。炒りたての豆の香りに、小綺麗なマスター。人によっては非常にウケの良さそうな店なのだが、どうしてか閑古鳥が鳴いているようだ。まあ平日の昼間、しかもあまり人通りのない路地では、こうなって当然か。
しかしここの店内は、レトロさを売りにしているように思えるのだが、どちらかというと古い、と表現した方が適切な印象を受ける。レトロ感で言えば、僕の行きつけであるボムの方が圧倒的に上だ。
どうしてなのかは分からないが、なんとなく、この店のレトロさには付け焼刃的な雰囲気を感じる。本物の老舗とは異なり、胡散臭さが漂っている、とでも言おうか。
なぜそんな喫茶店で、僕たちは軽食を摂ることになったのか。それは、今からちょうど十五分前に遡る。
東京総合国際病院を出た僕たちは、まっすぐにJR代々木駅へと向かっていた。もうすぐ昼食の時間ではあったが、心身ともに疲弊していたため食事よりもまずは休息を、という思いが強かったためだ。
しかし、重い足取りのまま無言で駅へと向かう最中、あの事件が起きてしまった。
グゥーッ
「あ……」
「……」
そう、盛大に出水の腹の虫が鳴いたのだ。駅前の人通りが多い道路であったため、数人ほどこちらへと振り返り、何事かと怪訝な表情を浮かべて通り過ぎて行った。
「す、すみません。その……今朝から、何も食べてなくて」
「あ、ああ。仕方ないよ、あまり気にすんな」
「う、うん……」
そう言いつつも、出水は顔を赤くして俯いてしまった。やはり、普段は表情をあまり表にしない出水であっても、本能の叫びを聞かれるというのは相当に恥ずかしかったのだろう。
このまま、腹の虫の訴えを退けて出水の家に向かうと、最寄りであるJR中野駅まで十分程度はかかる。その間に、彼女は同じような思いをしないとも限らない。むしろ、狭い車内であの音が鳴ってしまえば、先刻とは比較にならないほどの恥となる。
僕の方も頭に糖分が足りておらず、昨晩の頭痛がぶり返してきそうな感覚もあったため、やむなく軽食の摂れる店を探し、結果としてこの喫茶店へと流れついたのである。
もちろん道中には、大手ハンバーガーチェーン店やムーンバックスカフェなども立ち並んでいたが、今は肉を食べるような気分ではないし、着の身着のままで病院へと駆けつけてしまったため、あまりいい格好をしていない。それ故、あまり人目のつかないこの喫茶店が最適解だったのだ。
そういうわけで、こうして黙々と食事をすることになったのだが……それにしても、寂しい。これだけ静かであると、僕たちの会話が筒抜けとなってしまいそうだ。
すると、ぼんやりと店内を眺めていた僕に、店主と思わしき紳士が微笑みながら近づく。
「いやいや、若いお客さんは珍しいですね。せっかくですし、当店自慢の紅茶でもサービスで……っと。おや、高校生ですか?」
「え? えっと……そう、ですけど」
僕の返答に男は少し黙った後、ああ、と小さく零し話を続ける。
「もしかして、西光学園の子かな?」
「え、どうして分かるんですか?」
「いやあ、大したことでは。つい先日、事件がありましたでしょ。先生が転落したっていう、あの。それで、西光学園は休校になっていると聞いていましてね」
「あ、ああ……そういうこと、ですか」
そうか、ちょうどゴールデンウィークも終わった平日の正午に、堂々と来店できる高校生は限定される。一人ならば学校をサボったと考えるのが筋であろうが、今回は出水も一緒だったのだ。真面目そうな彼女が授業をフケるとは思えない。
「さすが、喫茶店のマスターともなると人を見る目が良いんですね。でも、すみません。僕たちはこれを食べたらすぐに帰るつもりなので……」
「おや、それは残念です。あの高校の生徒さんならば、木村さんについて何かお話しでも出来るかと思ったのですが……」
「え?」
突如として現れた木村という単語に、僕は思わず聞き返した。
「あの……もしかして、木村先生とお知り合いだったんですか?」
「ええ。知り合いというか、何というか……腐れ縁とでも言いましょうか。彼とは長い付き合いでしたので。そんな彼が、まさかあんな目に遭うとは……いやはや、人生とは分からないものですね」
「そう、でしたか……」
まさか、このマスターが木村の知り合いだったとは。旧友が不可解な死を遂げて、さぞ彼も落胆したことだろう。とはいえ、僕らから出来る話は限られる。現場の話をする訳にもいかないし、せいぜい僕らの活動の顧問だったこと、くらいか。
まあ、それでもこのマスターにとっては貴重な話となるかも知れない。さっさと出水の家へ向かいたいところではあるが、まだ日は高く、彼の作った軽食で体力はある程度回復できた。少しくらい彼の話に付き合おう。
「……木村先生は、僕たちの活動の顧問でした。学校の正式な活動ではないのに、先生は支援してくれて、部室まで用意してくれて……今思えば、本当に感謝しかありません」
「活動? ああ、そういえば。以前、彼はミーチューバーを目指す子たちの顧問になった、と言っていましたが……あなたがそのうちの一人、でしたか。大変だったでしょう? 彼、一度話し出すとなかなか止まらないもので」
「え、ええまぁ。でも、とても話しやすい人柄でしたので、そこまで不快ではありませんでした。なあ、出水」
「……」
話を振られた出水は、コクンと小さく頷くだけで声には出さなかった。これほど温厚そうなマスターを相手でも、やはり彼女は委縮してしまうらしい。父親からかけられた呪詛は、今もなお彼女を蝕み続けている。
沸々と込み上がる熱い感情を抑える僕へ、マスターは少し目を細めながら静かに口を開く。
「慕われていたのですね。その話が聞けて、安心しました。ありがとうございます」
「いえ、別にそんな……でも、憧れはしませんでしたけど、こういう大人になるのもアリだな、と思えたことは事実です」
「ふふ、そうですか。さて、お急ぎのところ、声を掛けてしまって申し訳ありませんでした。また時間が許すのであれば、ゆっくりとお話ししたいところです」
「そうですね。その時は、ぜひ」
そして、付け合わせのピクルスだけ食べ残し、席を立った。来店した当初よりも、圧倒的に体が軽い。これならば、出水の家について早々、眠りに落ちるという無礼な振る舞いをせずに済みそうだ。
「えっと、会計は……」
そう言って懐から財布を取り出そうとしたところで、マスターはこちらに笑顔を向けながら僕を軽く制する。
「結構ですよ。旧友の話を聞けたことで、私は満足ですから」
「え! そ、そんな。悪いですよ、大した話ではなかったのに」
代金となるような話ではなかった。むしろ、憧れはしないだの、不快ではなかっただのと、多少木村に対する悪口を交えていたのだ。これで二人分の代金がチャラになるなんて、あまりにも不相応である。
だが、慌てる僕にマスターは相も変わらず穏やかな表情を向ける。
「いえいえ。私にとっては、話を伺えてとても嬉しかったですよ。しかし、どうしてもお支払いしたいというのであれば、止めはしませんけれど」
「……そ、そうですか。では、お言葉に甘えて」
「ええ、是非ともそうして下さい。では、またのご来店を……っと、すみません。一つだけよろしいですか?」
店を出て行こうとした僕たちを、マスターは申し訳なさそうに引き留める。
「え? あ、やっぱり代金が……」
「いえ、そうではなく。つい先週のことですが、彼からあなたたちへの伝言を預かっていたことを、すっかり失念しておりまして。まったく、年は取りたくないものです」
「伝言、ですか?」
なぜ木村は、そんな回りくどいことをしたのだろう。先週と言えば、ゴールデンウィークに突入する直前の頃であったはずだ。それならば直接、僕たちに話せばよかったのに。まさか、彼は自分が死ぬことを予期していたとでもいうのだろうか。
奇妙に思い、横にいた出水と顔を見合わせる。彼女もその伝言について、何ら心当たりはなさそうに小首を傾げている。
「あの、どうしてマスターに伝言なんて残したんですか?」
「さあ? 私にもそれは分かりません。あの人は、たまにこういう理解不明の行動をすることが……っと、そんなことはどうでもいいですね。時間があまりないのでしょうから、要点だけを」
そして、マスターは木村から預かった一言一句を思い出すため、こめかみ辺りを刺激しながら目を瞑り言葉を紡ぐ。
「『本物の部屋の場所は、キミたちの動画のコメント欄にURLを載せておいたよ』……だったかな。これ、どういう意味だか分かりますか?」
「本物の、部屋?」
まるで意味の分からない内容だ。本物も何も、木村の意図している部屋というものが一体何なのか、それがまず不明である。しかもURLということは、どこかのページの場所を指しているのだろう。
今のところ、何もピンとくるものは無い。何かの間違いではないだろうか。
「あの、それって本当に僕たちへ向けた伝言だったんですか?」
「確かそう言っていたと思うのですが……記憶違いであったならばすみません」
「い、いえ。一応、他のメンバーとも確認をしておきます。ありがとうございます」
まあ、マスターの話が本当なのかどうかは、僕たちの上げた動画のコメントを確認すればすぐに分かることだ。視聴回数すら一桁台の動画ばかりなのだ、コメントが付けばすぐに見つけられるだろう。
「お引止めしてすみません。それでは、お気をつけて」
「あ、はい。ありがとうございました」
そして、不可解な言葉に頭を悩ませながら古びた木製のドアを開け、外へ出る。カランコロン、と哀愁のあるドアベルの音色が周囲へと伝わるが、僕の耳には入ってこなかった。
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