午後十一時。通常ならば、高校生が帰宅するにはあまりにも遅すぎる時間帯である。そんな真夜中に、僕は家の玄関先で佇んでいた。
もはや疲労で思い出すこともままならないが……気を失った後、気付いたときにはすでに別室へと運ばれており、目を覚ますとすぐさま、警察官による事情聴取を受ける羽目になった。
状況が状況であり、また出水も残っていてくれたおかげで、幸いにも容疑者扱いされることはなかった。その上、高校生で、しかも制服姿のままであったために、そのまま帰されることは無く、彼らは親切にも自宅まで送ってくれたのである。
被害者の情報や、その後の話などは一切得られなかったものの、もうどうでもいい。こうして無事に帰宅できたことだけで充分であった。
「ただいま……」
普通の家庭ならば、こうして子どもがこんな時間に帰宅すれば心配にも思うだろう。当然、警察からはすでに連絡が入っているのだが、直接何があったのかと問い質そうとするのが、一般的な親なのだと思う。
しかし、残念ながら僕の両親は普通ではない。一人息子が、たとえ夜遊びをして帰ろうが、ミーチューバーとなろうが……何も言わないのである。
予想通り、暗い室内から返ってくるのは耳が痛くなるほどの静寂だけだ。もはや、この家の中で音を発しているのは僕だけであった。今日くらいは、おかえりと言って欲しかった。不安と恐怖に塗れた僕の心に、少しでも光を灯して欲しかった。
……なんて、軽い冗談だ。彼らにそんなことをされては、逆に不安に思ってしまう。
ああ、それにしても疲れた。
無言のまま自室へと向かい、適当に制服の上着を脱ぎ捨てそのまま寝転がる。シャワーを浴びる気力など、もはや残されていない。すぐにでも真っ暗闇に意識を委ねてしまいたかった。
都合よく、明日五月二日は土曜日。そしてそのまま短期休暇に突入するのだ。私立高校であるため土曜日にも授業はあるのだが……もう、いいや。明日は休もう。学校にもこの連絡は伝わっているはずだし、理解はしてくれるだろう。
身体が一層重くなり、瞼も自然に閉じてゆく。意識も、それに併せて徐々に遠のいていく。ゆっくりと呼吸をし、眠る体勢に入ろうとした。
しかし――――
「っ……!」
目を閉じると、どうしても浮かんできてしまう。
便座に座った、頭部のない女性の遺体。その手に抱えられた青白い顔。赤黒い液体に染まる便器。切断部の生々しい肉と骨の色。滴る血の――――
「うっ……」
胃液が逆流し、喉を刺激する。ここで吐いてはならないと思い、急ぎトイレへと向かう。
しかし、それは逆効果であった。急いで駆け込んだ先にあったのは、便器だ。そう、あの遺体が鎮座していた、乳白色の陶器が不意に目の前へと現れたのだ。
「……ぐ、ゴホッ!」
また鮮烈な映像がフラッシュバックし、その場で嘔吐してしまう。ボタボタと胃液が床に飛び散り、異臭がトイレ中に漂う。
言うまでも無いが、夕食など一切口にしていない。それ故に、吐き出されるものは胃液くらいしかなかった。ある意味、それが幸いしたとも言えようか。固形物のない粘液を拭き取るのは、そこまで苦ではない。だが、問題はそこではない。
「はあ、はあ……う、うう……」
よろよろと壁にもたれかかり、眼前にある陶器をその視界に入れないよう、必死に目を逸らす。この状態でまたあの光景がフラッシュバックされては、体力が持たない。
縺れる脚に軽く鞭を打ち、洗面所へと向かう。床を拭くための雑巾もそうだが、まずはうがいと、洗顔だ。こびり付いたあの気持ち悪さを、とにかく洗い流すことが先決である。
大の男が情けない、そう思う者もいるだろうが……そうであれば、是非あの遺体をその目で見てみるといい。少なくとも、食事が喉を通ることなど有り得ないだろうから。
蛇口から流れ出る水の冷たさが心地よく、そして沈み切った気持ちを少しだけ切り替えさせてくれる。まだ鼻腔や口腔には気持ち悪さが残るものの、何度かうがいを重ねればそのうちに……。
ヴーン、ヴーン
「え……?」
不意に、ポケットに入れたままであったスマートフォンが振動を始めた。もうそろそろ日付も変わろうというこのタイミングで、一体誰が。しかも、メールではなく電話だ。
恐る恐る、スマートフォンを取り出し画面表示を確認する。無料通話アプリからの電話の通知表示……その相手は――――
「……西、野……?」
西野 心深。僕たちと折り合いの悪い、あの生徒会長からの着信であった。
「どう、少しは落ち着いた?」
「……う、うん」
手にしたマグカップをテーブルへ置き、ふぅ、と一つ息を吐く。体中に温かいココアが染み渡り、加えてその甘みにより少しだけ元気が出てきたような気もする。
「そう、良かった。……でも、本当に無事でよかったわ。まさか水島……いえ、夏企がそんなことになるなんて思わなかったもの……」
そう言って、彼女はいつもの厳しい表情ではなく、優しい微笑みを向ける。それはまるで、本当の家族を見守るような温かい目であった。
「ごめん、心配かけて。……でも、ありがとう」
「どういたしまして。普段からそんな風に素直だったら良いのだけど」
「おい」
「ふふふ、冗談よ」
全く冗談に聞こえなかったが、それはまあ良いとしよう。彼女が来てくれて助かったというのは、紛れもない事実なのだから。
学校ではあれだけいがみ合っていた僕たちが、どうして普通に会話でき、しかも家に上がるほどの仲であるのか……不思議に思われるだろう。実際に激しくぶつかる間柄であったのだから、その疑問は当然のことだ。
しかし、その答えはとても単純なものである。僕たちはもともと幼馴染で、高校に上がるまではよく遊んでいた、というだけの話なのだ。
西野との出会いは、もう十年以上も前になる。僕の父と彼女の母は同僚……つまりは厚生労働省の官僚同士であり、また地元が同じだったということもあって意気投合し、家族ぐるみでの付き合いに発展した。
僕は、当時からすでに『サヴァン症候群』を発症していた……ああ、厳密に言えば、瞬間記憶能力に目覚めていた、と言うべきか。とにかく、そんな僕にはほとんど友だちがいなかった。いや、全くいなかったと言っても過言ではない。そんな中で、彼女は持ち前の正義感と母性を発揮し、僕をまるで本物の弟のように大事に扱ってくれたのだ。
僕も、初めのうちは他の人と同じように距離を保ち警戒していたのだが、西野のその雰囲気に、いつしか心を許すようになっていた。それこそ、彼女を本当の姉のように慕うほどである。
ところが、僕と彼女の関係は、ある日を境に一変した。
高校生になる頃、僕の怒りが爆発したのだ。その矛先は、当然、両親に向けたものであった。
僕は、瞬間記憶能力という特殊な能力を兼ね備えていたものの、それ以外の能力、つまり読解力や計算力など、そういったものはごく平凡なものであった。それ故に、天才だと囃し立てる彼らの期待を裏切らぬよう、精いっぱいの努力を重ねる日々だった。
あらゆる書物を読み漁り、その全てを頭に叩き込んだ。自分に足りないものを補おうと、とにかく必死だったのだ。それが両親への恩返しになると、そう信じていた。
しかし、幾ら努力したところで本当の天才たちには比肩することすら叶わなかった。そして中学の卒業式、成績優秀者として表彰されなかったことに両親は怒り、僕を激しく詰ったのだ。
「恥を知れ」
「怠け者」
「次はない」
そう二人は散々と貶した挙句、父親は僕の頬を殴りつけたのである。
……その瞬間、頭の中で何かが弾け飛んだ。今まで封印してきた想いの全てを爆発させたのだ。
目の前にあるもの全てを投げつけた。彼らは戸惑い、止めるように説得を試みていたようだが、当時の僕にはまるでその声など聞こえなかった。
ただ闇雲に、そこにあった全てを……努力を重ねてきた過去の全てを清算するかの如く、ぶっ壊したのだ。
そして、運悪くそこに彼女……西野が現れた。卒業おめでとう、とでも言いに来たのだろうが、家の異様な雰囲気を察して、僕の暴れる部屋へと駆け込んでしまったのだ。
そして……不意に現れた彼女に、僕は投げつけてしまったのだ。木製フレームの写真立て……奇しくも、二つの家族で撮った写真が納められた、思い出の品を。
忘れもしない。僕はもともと、何も忘れることなど無いが……そうでなくとも、生涯忘れ得ぬ光景を目の当たりにしてしまった。
額から激しく流血する西野。何か叫びながら僕を殴りつける父親。そして彼女を抱きかかえる母親……そこでようやく事の重大さに気付き、僕はただ燃え尽きたように立ち尽くしたのだった。
それをきっかけに、僕たち家族、それに加え西野たち家族との関係も、完全に壊れてしまった。
彼女の家族からすれば当然である。可愛い一人娘の顔面を……額の上部であったため髪を下ろしていれば見えない部分であるが、傷つけられたのである。その怒りは相当なものだっただろう。
そして、僕の両親もそれは同じであった。彼らからすれば、最高の作品を創り上げていたはずが、とんだ駄作へと成り果てたのだ。そうなってしまえば、もはや愛情を注ぐ価値などない。従順でないペットなど、不要なのだ。
その中でただ唯一、西野本人だけは、気にしないで、といつもと変わらぬ笑顔を向け、何事もなかったかのように接してくれていた。むしろ、家族関係が崩壊してしまった僕の心配をするほどであったのだ。
僕にとって、それはあまりにも辛かったし、悔しかった。一生消えない傷跡を、その顔につけてしまったという罪悪感。我を忘れて暴れる、という愚かな行為に走った自分の幼稚さ。それらを強く、強く……呪いのように、その身へと刻んだのである。
それから、僕は西野を避けるようになった。結果的に同じ高校に入学したのだが、彼女とは話さないように心掛けた。馬鹿な僕の行動で、もう彼女を傷つけたくなかったのだ。
西野はそれでも、何度か声を掛けてくれていたのだが、僕の態度に嫌気が差したのか、それとも僕の心中を察したのか……徐々に彼女から話しかけてくることも少なくなり、いつしか、言葉を交わすことすらなくなった。
そうして、高校入学から一年が経過した。
本来であれば、そのまま僕たちの関係はフェードアウトしていくはずであった。しかし、二年生になり新たなクラスとなった頃……あの悪友である金子が登場したのである。
僕が帰り支度をしていた矢先、目の前に現れた金子は、いきなりこんな話を持ち掛けたのである。
「なあ、お前が水島だろ? あの超能力を持つ、っていう。ちょっと話があんだけどよ……動画制作、やらねぇ?」
「は?」
これが、金子との初めての会話である。思えば何とも失礼なのだが、当時の僕に話しかけるような人間はおらず、しかも興味深い話まで持ち込んできたのだから、ほとんど二つ返事で彼の思惑に賛同したのだった。
だがしかし、そうなると当然、生徒会長にまで昇りつめていた西野からすれば、面白くない話である。弟のように面倒を見てきた男が、好ましくない相手といかがわしい活動を始めたのだ。
その日以来、西野は僕に突っかかるようになっていた。何かやらかしていないかとか、また変な動画を上げようとしているのか、などと、まさに口うるさい姉のように。
ある意味、それがきっかけでまた言葉を交わす仲に戻ったとも言える。表面上はいがみ合っていたのだが、いつの間にやら普通の会話すら出来るほどに、僕たちの関係は元に戻りつつあった。
……と、こういう訳で、西野と僕は不思議な関係の下に成り立っているのである。完全に昔のような関係に戻った訳では無いし、こうして家にまで上がり込んでくるようなことは、実のところあの日以来のことであった。逆に、今回の件はそれほど彼女に心配をかけてしまった、とも言えるだろう。
「それにしても夏企、災難だったわね。詳しくは聞いていないけれど、出水さんも心配していたわ。明日、学校でちゃんと顔を見せてあげてね」
「そう、なんだ。……ってことは、やっぱり出水から聞いたのか」
「ええ、そう。高城さんのこともね。本当なら私も何があったのかを聞きたかったのだけど……今は止めておくわね。夏企、なんだか酷い顔をしてるもの」
「ああ、そうしてくれると助かるよ。落ち着いたら、何が起きたかはちゃんと話すから」
そうか……出水はあの後、女子トイレには入らなかったのか。何とも幸運な奴だ。しかし、それならば多分、今頃気に病んでいることだろう。西蓮寺も、まさか個展を開いていた会場でそんなことがあるなんて、営業妨害も良いところだ。本当に、不運が重なってしまったものだ。
「ん……?」
不運? 本当に不運だったのだろうか。あれは、偶然だったのだろうか。
「夏企?」
表情の変化を見抜いた西野は、少し不安げに僕の顔を見つめる。あの事件に関する考察をしていた、などと知られる訳にもいかないだろう。余計なことは考えるな、と怒られるに違いない。今はとにかく、彼女を無事に家へ帰すことに集中しよう。
「なんでもない。……さて、明日もあるし、西野はもう帰った方が良いよ。こんな時間にうろついていたら、両親に怒られるんじゃないか?」
「それはそうだけど……本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫だって。吐くものは吐いたし、元気も貰ったから」
そう言って、素早く立ち上がって見せた。実のところ、まだ頭はぼんやりとしていたのだが、これ以上彼女に迷惑をかけるのは申し訳ない。それに、すでに深夜帯に差し掛かっているのだから、幾ら治安の優れた日本であるとはいえ、絶対に何もない、とは言い切れない。
「ほら、この通り」
「そう? ……空元気にしか見えないけど、とりあえず帰るわね。辛いとは思うけど、こんな時こそいつも通りの生活を心がけて、ね?」
バレていたか。しかし、それが僕の気遣いだということにも気付いたのだろう。西野はそれだけ言うと、静かに立ち上がって玄関へと歩き始めた。
靴を履いている途中、思い出したことがあったのか西野は僕へと向き直る。
「そうだ。さっきも言ったけど、学校にはちゃんと来なさいね。独りでいると、余計なことを考えちゃうだろうし」
「……善処するよ。それより西野の方こそ、動画に出演するんだからあまり夜更かしするなよ。肌が荒れるぞ」
「余計なお世話です。じゃあ、おやすみなさい」
「うん、また明日」
本来ならば家まで送るべきだろうが、その際に彼女の両親と鉢合わせしてしまえば、ややこしいことになる。僕たちは絶縁し、もう関わらないようにと念を押されているのだから。
西野を見送った後、自室へと戻りながら先ほど考えていた、不運だったのかどうかについて、改めて思い巡らせる。状況的には不運としか思えないのだが……本当に、そうだったのだろうか。
ダメだ、何も思いつかない。……仕方ない、一旦あの場面を思い出すことにしよう。いい加減あの光景に慣れないと、排泄の度に嘔吐することになるのだ。
女子トイレの奥から二番目の個室。開かれたドア。黒いパンプスにスーツ姿。切断された首。その両腕に抱えられた、青白い……。
「くっ……」
込み上げてくる胃液を何とか押し込みつつ、ベッドへと横たわる。やはり、思い出せたとしても気分が悪くなる以外に何も思いつかない、か。
しかし、あの遺体の表情……あれほどまで穏やかなのであれば、よほど綺麗に、勢いよく切り落としたのだろう。そうでなければ、苦痛も無く切断が出来るとは思えない。よほど鋭利な刃物で、一刀両断したとしか……そうだとすれば、居合とか、もしくは……。
「……まさかギロチン、ってことは……ない、よな」
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