五月九日、土曜日。まだ陽も昇らない時間帯に、僕は目を覚ました。とはいえ、ほとんど目を瞑っていただけの時間であり、心身の疲労はまるで取れていないのが実情だ。
もちろん、慣れたベッドの上で横になれたのだから、気分的には随分と違う。出水には悪いが、あの物置のような部屋の寝心地が最悪だったので、相対的に体が軽くなったような気分に浸れたとも言える。
機械油の何とも言えない臭いと、あの不可解な夢に苛まれるのは、もう御免だ。
「あ、夢は関係ないか」
そう自分自身に軽くツッコミを入れた後、まだ夜の静寂が支配する窓の外を見つめる。この景色を眺めるのも、どこか懐かしく感じてしまう。それほど、様々なことが立て続けに起きたのだ。
僕の周りに『新人類計画』の被験者が多数いたこと。幼馴染の西野さえも、僕と同じ被験者であったこと。そして、僕自身が殺人を犯していたこと。両親の死が薄れてしまうくらい衝撃的な事実の連続で、まだ夢の世界に囚われているのではないかと疑ってしまう。
いや、これが夢であったならば、どれほど幸せだったことか。切断遺体を見ることもなく、『新人類計画』という悪魔の研究の存在を知ることもなく、ただ『サヴァン症候群』という病名を与えられた人間として生きられたならば、僕はこんなにも悩むことは無かっただろうに。
まあ、その分水嶺を越える決断をしたのは、紛れもなく僕自身だ。今さら後悔したところで、どうすることも出来ない。
「ちゃんと、受け入れないとな。僕の過去も、みんなの想いも」
灰谷 澪を殺したという事実は、決して消えやしない。彼女の人生も背負って、しっかりと前に進まなければ。そうしなければ、僕の心を守ろうとしてくれたみんなに、申し訳が立たない。
「……あ、そういえば」
ベッドから立ち上がった時、僕はふと気づく。ムーンバックスカフェで箱崎は、例の写真の中に灰谷の母親、灰谷 玲がいると言っていた。当時はまだ、彼女が元厚生労働職員であるということくらいしか判明していなかったのだが、今ならば現住所くらい炙り出せているはずだ。
真実を知った今、僕はどうしても灰谷に会わないといけない。彼女に会って、僕の行為をきちんと謝罪したい。何も覚えていないし、本当に悪いのは『新人類計画』の研究者たちである。それでも、僕は謝りたいのだ。
箱崎が素直に灰谷の居場所を教えてくれるとは思えないが、今回ばかりは食い下がってみよう。そうすれば、彼も僕の気持ちを分かってくれるはずだ。
「時間は……まだ結構先だな」
現在の時刻は午前四時半。約束の時間は午前七時ごろなので、あと二時間ほど余裕はある。今のうちに、箱崎を説得する言葉を考えておこう。ただし真中が同席していたならば、即刻諦めよう。
「さて……ん?」
スタンドライトを点け、ノートに文字を起こそうとした時であった。不意に僕のスマートフォンが振動を始めたのである。メッセージの受信を知らせる振動パターンではない。これは紛れもなく、着信している。
「まさか……」
こんな早朝に、しかも友達の少ない僕に用がある人間など、ごく限られている。間違い電話ということは有り得ないだろうし、受けるべきなんだろう。
それについ先日、高城が通り魔に襲われたばかりだ。あの事件がもし『新人類計画』に関係する人物を狙うものであったならば、また誰かが傷つけられたという報せである可能性もある。応じない理由はない。
急いで振動し続けるスマートフォンを手に取り、発信元を確認する。するとやはり、そこには不穏な人間の名前が示されていた。
「箱崎さん!」
そう、箱崎からの着信だ。これは確実に、何かがあったとみて間違いはない。逸る心を抑えつつ、手汗を拭いて画面をタップし、スマートフォンを耳に近づける。
「も、もしもし?」
「朝早くに悪いな。寝てたか?」
「い、いえ。さすがに、そんな簡単には眠れなくて」
「まあそうだろうな。本当なら、どこか宿泊先を見つけてやるべきだったんだが……我慢できそうか?」
「はい。ご心配かけてすみません」
どうやら雰囲気的に、何か事件が起きた訳ではないらしい。かといって、単純に僕の心配をしてくれているということでも無さそうだ。僕の体調が心配なら、もっと遅い時間に電話するはずなのだ。
つまり箱崎には、事件というほどではないが、僕に可及的速やかに伝えたい案件があるのだ。そうとしか思えない。
「それで、何かあったんですか? こんな時間に……もしかして来れなくなったとか?」
「察しが良いな。だが、その逆だ。悪いんだが、この後すぐに向かっても良いか? 聞かなきゃいけないことが増えちまってな」
「え? すぐっていうと……五時とか、ですか?」
「そうなるかな。ああそうだ、別にキミの部屋には入らないから心配しなくていい。どうだ、時間的に大丈夫か?」
「えっと……」
午前五時というと、残る時間はもう二十分程度しかない。これでは箱崎を説得する言葉を考えるどころか、シャワーを浴びるくらいしか出来ない。出来ることならば、あと三十分くらい遅らせて欲しいものだが。
「あの、五時半では厳しそうですか?」
「なんだ、今からだと問題があるのか?」
「いえ、その……シャワーも浴びてないですし、洗濯とかあるので」
「ははっ、今さら見た目のことなんか気にすんなよ。こちとら、血や土埃に塗れた姿を何度も見てるんだぜ? 洗濯だって、一人分だったらすぐに終わるだろ」
「それはそうですけど……」
早い来訪に渋っていると、箱崎は少しだけトーンを落として鋭く言い放つ。
「まあ、気持ちも分かる。けどよ、俺がキミを家に帰してやるために、色んなところに手を回したってことも分かって欲しいな。普通ならこんなに早く、しかも容疑者とされてもおかしくない人間を家に帰すなんて、まず不可能なんだよなあ」
「う……わ、分かりました。では、お待ちしています」
「素直でよろしい。んじゃ、例の品も用意しておいてくれよ」
そう言い残し、箱崎は通話を切った。完全に予定が狂い、スマートフォンを机に置いた僕は天井を仰ぐ。
「あんな言い方されたら、断れないじゃないか……」
直接口にしてはいないにしろ、この頼みを断ったら恩を仇で返したと受け取る、という脅迫めいた思いが強烈に伝わってきたのだ。あれ以上ごねたところで、何もメリットはない。
仕方がない。とりあえず着替えだけ済ませて、後は出水から受け取った『黒いカード』と、例の『赤い部屋』のデータが入ったUSBを用意しておこう。灰谷の件については、今回はもう諦めた。
別の私服に着替え、飲みかけのペットボトルを一気に空にし、顔を洗うため洗面所へ向かう。ここはぎりぎり立ち入り禁止区域外であるため、今でも自由に使うことが出来る。とはいえ、事件のあったリビングダイニングの前を通るので、どうしても不快な気分になってしまう。
顔を洗い、鏡に映った僕の疲れ果てた僕の顔を睨みながら、埃臭くなっているタオルで水滴を拭う。その最中、ふと僕は外の物音に気付き、聞き耳を立てる。
「はあ、早いな」
どうやら、箱崎たちが僕の家の前に到着したようだ。電話を切ってからほんの数分だというのに、これほど早く着いたということは、恐らく僕が断らないことも予測済みだったのだろう。まったく、警察としては優れているのかも知れないが、人間としては本当に信用のできない人たちである。
軽く溜息を吐きつつ、急いで髪を整え玄関へ向かった。そして来訪者の姿を一度確認した後、彼らがインターホンを鳴らすよりも先に扉を開けた。これは僕の、彼らに対するちょっとした反抗である。
「早いですね、箱崎さん」
「うおっ!? びっくりした。なんだ、待っててくれたのか。悪かったな、こんなに早くに」
「いえ、それは別にいいんですけど……あれ?」
悪戯が成功し、心の中でほくそ笑んでいた僕は、箱崎の周囲を何度も見渡す。それというのも、いつも彼の傍にいた女性の姿が、今回に限って見当たらないのだ。
「あの、真中さんはどうしたんですか? 車で待機してる感じですか?」
「真中は別件で動いて貰っててな、今日は俺一人なんだよ。良かったな」
「そ、そうですか。えっと、まあ話しやすくて良いです。あの人、なんだか怖くって。それはそうと」
真中がいないことに安堵しつつ、箱崎を家の中へと招き入れた僕は、今朝の電話に関して軽い調子で問いかける。
「どうして急に時間を早めたんです? 遺留品と『赤い部屋』のデータを渡すだけなんですから、そんなに時間が無いなら僕が直接、警察署に届けたのに」
「残念だが、それは出来ないんだよ。言っただろう? かなり厄介なことになってるんだって」
靴を脱ぎ、箱崎は眉間に皺を寄せる。その皺も、以前より明らかに深く濃くなっているように見えた。それだけ、この事件は複雑なのだということを物語っていた。
そのまま、箱崎は立ち入り禁止のテープを外し、リビングダイニングへと進む。立ち入りを許可されたのだと思い、僕も彼の後に付いて行く。
久しぶりに入ったリビングダイニングは、証拠品などが押収された影響もあり、以前にも増して空虚さが漂っていた。綺麗に片付けられており、今ではこの部屋に二人の遺体があったことすらも分からない。
リビングダイニングに入ってから少しした後、箱崎は僕の方へ振り返り、真剣な眼差しで問いかけてきた。
「さてと。そういえば、キミの両親の遺体の状況について話してなかったよね。写真もあるんだけど、見たいかい?」
「え? えっと……遠慮しておきます。まだ、その……真中さんの遺体を思い出すだけで、吐き気がするので」
「そうか。ま、賢明な判断だな。ざっくり説明すると、水島 龍太郎氏の腹ン中に、妻の東子氏のバラバラ遺体が詰まってた。それもかなり綺麗に、な」
「は? ちょ、ちょっとなんですかそれ。僕の両親は、そんな無残な殺され方をしたんですか!?」
詰め寄る僕に、箱崎は平然と頷いて返す。その姿は、今の話が疑いようのない真実であると、暗に示しているようであった。
彼の反応を受け、僕は数歩ほど力なく後退りながら、頭を抱え込む。
「そ、そんな……それ、あまりにも異常じゃないですか。それじゃあ、やっぱり……」
「ああ。まず、一連の事件と関係していると考えるべきだろう。ただ、他の被害者と比べて残虐性が高すぎるし、私怨が込められている可能性も否定は出来ない。だからこそ、キミも容疑者の一人に挙げられたんだが……ま、有り得ねぇわな」
「有り得ませんよ。殺したいほど憎んでいましたけど、そんな風に殺すなんて、僕にはとても……って、さっきそんな状況の遺体を見せようとしたんですか!?」
「ああ。真中も真っ青になってたくらい、悲惨だったな」
「……悪趣味ですね。最悪です」
悪意しか感じず、睨みつける僕に箱崎は苦笑しながら話を続ける。
「悪い悪い。それはともかく、さっき言った厄介なことってのは、この殺害方法じゃないんだ。単刀直入に聞くぞ。キミ、血液型は?」
「は、はい?」
「だから、血液型だよ。さすがに検査してんだろ?」
急にどうして、血液型を聞いてくるのだろう。合コンでもあるまいし、気味が悪い。というか、警察ならば僕の血液型くらい把握しているだろうに。
「えっと、B型ですけど」
「それは本当だな?」
「はい、前に精神発作を起こして病院に運ばれた時、血液型の検査もしましたから。でも、なんでそんなことを?」
箱崎は無言で、部屋の片隅をじっと見つめる。まるで、今もそこに遺体があるかのような目つきで、いつもの彼とは異なる鋭さが備わっていた。その雰囲気に圧倒されつつも、僕は再び箱崎へ問いかける。
「あの、どういうつもりなんですか? いい加減、ちゃんと話してくれないと困るんですが」
すると彼は、ゆっくりと顔を上げて突拍子のない発言をした。
「これはまだ推測だが……キミの両親、すり替わっていた可能性が考えられるんだよ」
「は!?」
両親が、すり替わっていた?
意味が分からない。確かに僕は中学卒業以降、両親と言葉を交わしたことは無かったが、さすがに別人とすり替わっていたならば、一目見ただけで気づくはずだ。僕は見聞きしたものを、一切忘れることが無いのだから。
「ど、どういう意味ですか。まさか、今まで僕と一緒に暮らしていた夫妻が、僕の本当の両親じゃなかったとでも言いたいんですか?」
「そうだ」
「そうだ、って……」
あまりにも端的に返され、一瞬だけ絶句しつつも反論を続ける。
「あの、失礼ですけど推測もそこまで飛躍してしまうと、もはや妄想ですよ。僕はそんな下らないことを聞かされるために、あなたを招いた訳じゃない。そんなことしか言わないなら、さっさとUSBとか受け取って帰ってください」
しかし、これだけ強く否定の言葉を投げかけたのにも拘わらず、箱崎は真顔のまま、僕の言葉を無視して私見を述べ続ける。
「遺体となった水島 龍太郎氏と東子氏の血液を検査したところ、二人ともB型であることが判明した」
「はあ?」
「だが、龍太郎氏と東子氏の血液は凝集反応を起こしていた。凝固ではなく、完全な凝集だ。同じ血液型であるはずなのに、起こり得ない反応を示していたんだよ。後で何度も検査したが、やはり凝集してしまったらしい」
「え……?」
唖然とする僕の様子を確かめるように、箱崎はじっと僕を見つめながら話を続ける。
「詳しい検査の結果、龍太郎氏はRhマイナスということが判明した。だからこそ、二人は同じ血液型なのに凝集してしまったんだな」
「そ、そうですか。でも、それなら別に普通じゃありませんか。Rhマイナスって言っても、そこまで特殊ってわけでもないですし。それだけで、両親が別人だったとは言えないと思いますけど」
「そうだね。でも、過去の献血データも探ってみたんだが……二十年前、龍太郎氏はRhプラスと判定されている。もちろん、骨髄移植を受けたという記録もないし、大量輸血を受けたこともない」
「そ、それって……」
「そうだ」
ふう、と大きく一呼吸を置いて、箱崎がはっきりと告げる。
「彼らが死んでしまっている以上、どうやっても確証は得られないが……少なくともこの二十年の間に、水島 龍太郎氏の血液型は変化したと言える。病的要因もなく、突発的に。これでも、他人が水島氏とすり替わっていたという説が、妄想だと思うかい?」
「……」
病気などがなく、普通に過ごしていた人間の血液型が変わってしまった。それがどういうことなのか、分からないほど僕も馬鹿ではない。彼の言う通り、人物自体が入れ替わったと考える方が自然である。
それに、この説を裏付ける証拠が、僕にはある。たった一枚の写真と、僕の脳内にだけ存在する夢の記憶だが、それでもこの件に関しては重要な証拠だ。
「あの、もしかしたら本当にそうかも知れません」
「どうしてそう思うんだ?」
「少し前、そこの棚を漁っていた時、奥から一枚の写真が出てきたんです。そこに、今の父親にほとんど似ていない人間が映っていました。僕と一緒に、まるで本当の家族みたいな笑顔で」
「ほう」
僕の言葉に興味を示した箱崎は、僕の指さした茶色のチェストへと近づく。
「この中に?」
「はい。一番下の抽斗を抜いた奥に小箱が入ってて、その中に。なんでそんなところにあるのかな、と思っていたんですけど……」
「なるほど。そうなると、誰かが意図的に隠していたのかも知れないね。それじゃあ、開けてみようか」
「はい」
僕の許可を得て、箱崎は迷わずに一番下の抽斗を引き抜いた。そして、言われた通りに奥を覗き込む。
しかし、すぐに箱崎は顔を上げ、首を傾げる。
「そんなもの、見当たらないけど?」
「えっ?」
思いがけない返答に、僕も箱崎と同じようにチェストの奥を覗く。だが、確かに彼の言う通りで、そこには何もない。奇妙に短く細工された抽斗があるだけで、つい先日まであったはずの小箱は存在していなかった。
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