二〇一五年五月三日――――
一般には憲法記念日として知られる国民の祝日だが、今年は生憎、日曜日と重なってしまい、あまり祝日という実感が湧かない。振替日は存在するが、それを除けば単なる日曜日である。
しかし、僕にとっては普段の日曜日と訳が異なっていた。その理由は、今さら説明するまでも無いだろう。
「はぁ……」
曇天を苦々しく見上げ、僕はため息交じりに机をペンで叩く。自宅で脚本制作に挑んでみたもののまるで浮かばず、臨場感を得るため部室に来てみたのだが……やはり、出ないものは出ないようだ。
明日の午前中には、少なくとも動画のシナリオについて決めておかなければならない。そうでなければ、恐らくあの西野のことだ、問答無用でこの活動を停止させようとするだろう。正式に廃止されれば、当然この部屋も没収となる。
コミュニケーション能力の高い金子はともかく、出水や高城、それに僕は完全に学校での居場所を失ってしまう。特に高城と僕はクラスでも浮いた存在であり、この場所が無くなれば不登校ともなりかねないのだ。
そして、そうなった暁には、またあの両親と争う羽目になる。こんな未来、地獄以外に形容し難い。
とはいえ、何も浮かばないことは事実だ……ここは、残る三人の案に全力で乗り掛かるしかないか。せっかくこの部室まで来て無駄足になってしまったが、仕方があるまい。
「さて……」
諦めて立ち上がり、窓の外を眺める。予報では昼前から晴れるらしく、既に雲の隙間から僅かに光が漏れ出ていた。このように、雲間から一筋の光が差し込む現象を『ヤコブの梯子』と呼ぶそうだ。天使が天と地を行き来するらしいが、もし天使が地上に下りてきているのならば、是非ともこの憐れな僕を救い出して欲しいものだ。
そんな自堕落な思考をしつつ、部室のある三階の窓から地上へと視線を落とした、その時であった。
「え……?」
学校のすぐ横の道から、見覚えのある人物がこちらへと視線を送っていたのである。いや、見覚えのあるどころではない。昨日は写真で、一昨日は直接この目で見たし、会話もしたのだ。さすがに衣服や髪飾りは異なっているが、僕の脳はそんな些細な変化で騙せるものでは無い。
あれは、西蓮寺 真冬だ。新宿志摩丹の六階、あの事件のあった現場で個展を開いていた、奇人画家である。
その西蓮寺が、じっとこちらの様子を窺うように、視線を送り続けている。心なしか、その顔には笑みすらも浮かべているようだった。
僕は慌てて窓から姿を隠し、鼓動を抑えるため胸に手を当て、大きく深呼吸をする。そして一度冷静になり、状況を再確認しようと思考を巡らせる。
まず、西蓮寺はこの西光学園高校に付属する大学に勤務しているのだ、この周囲の往来を歩行していても、何ら不思議ではない。勤務先の周辺に住居を構えるのは自然であるし、ましてや休日に散歩をするのは心身ともに健全な証拠でもある。
それに、彼女は高校の方にも時折、講師として訪れていたと聞く。ならば、思い出を想起し少し微笑むくらいしても、そう不自然な話ではないだろう。
そうだ、これは単なる偶然だ。あの現場にいたからこそ、こうして余計な思い込みをしてしまっているのだ。
「ふぅー……」
また大きく息を吐くと、恐る恐る、窓の端から彼女の様子を窺う。緊張感と、じっとりとした暑さの影響で首筋から一粒の汗が流れ、ぞわりとした感触に襲われる。ゆっくりと道路の一端が見え始め、やがて細い路地全体が視界へと映っていく。しかし――――
「……あ、あれ?」
先ほどまで西蓮寺が立っていた場所には誰もおらず、僅か数百メートルほどの路地全体を見下ろしてみても、むしろ人の気配すらない。一台の軽自動車が通り抜けていく以外に、何もなかった。
移動したのだろうか。いや……じっと、一か所を眺めていた人間が、急に数百メートルも移動するとは思えない。路地を形成するビルの谷間には、人の通れるくらいの隙間は存在するものの、道というほどのものでもない。よほど意識でもしない限り、通行どころかその存在にすら気付かないだろう。
まさに忽然と姿を消した、と表現するのが適当だ。それか、僕が何か幻でも見ていたか……いや、それは有り得ない。脚本作りに頭を悩ませすぎて、疲れていたのだろう。
「何だったんだ……」
ポツリとそう呟き、汗にまみれた額を軽く拭う。驚くことにそれ以上汗が滴ることはなく、早鐘を打っていた心臓も普段通りのリズムを刻んでいる。まるで何事もなかったかのように、ただ時間だけが過ぎていた。変化したとすれば、また少し雲が晴れてきたことくらいである。
小さく頬を掻き、改めて鞄を肩に掛け直した僕は、納得のいかぬままに部室から廊下へと出る。そして施錠をしようと、鍵を取り出すためポケットへと手を入れた。
すると、その瞬間。不意に現れた何かとぶつかり、思考を巡らせ無防備であった僕は廊下の冷たい床へと、成す術もなく倒れ込んだ。
「うわっ!」
突然の出来事に受け身も取れず、まともに肩から倒れてしまった。硬い床に叩き付けられた右肩を中心に、重い痛みが広がってゆく。
「痛っ……」
「おおっと! 大丈夫かい? ……あれ、水島くん?」
「え?」
聞き馴染みのある声に顔を上げると、そこには心配そうに見つめる一人の男性……木村の姿があった。少しシワの目立つスーツを揺らし、木村は僕の横へと慌ててしゃがみ込む。
「木村先生……?」
「いやぁ、すまないすまない。急にドアが開くとは思ってなかったからさ。でも、どうしたんだい? 今日はもちろん授業なんて無いけど……ああ、もしかしてあの動画の件かな?」
「え、あ、はい……そう、ですね……」
木村の助けを借り、何とか起き上がった僕は衣服に付いた埃を払う。腕を動かした影響で少し右肩は痛むものの、感触からして骨は折れていないようだ。恐らく、軽い打撲程度だろう。
「ん? あれ、一人かい?」
「はい、動画の件は月曜日に話し合うことになっているので、その準備……と、言いますか。まあ結局、何も思いつきませんでしたけど」
「そうかい、それは残念だ。しかし、今回はあまり力になれそうも無くて、ごめんね。ちょっと野暮用が入ってさ、ゴールデンウィーク中は忙しくなっちゃったんだ」
「いえ、それは別に……」
今回は、ではなく、彼は普段から僕たちの活動に対し、特に役立っている訳ではない。部室を用意してくれた以外、大きく貢献してくれたことは一度もないのだから。そのくせ、部室に来ては無駄話をして帰っていくので、正直なところ煙たい存在であった。まあ、大人というのはそういうものなのだろう。
「うーん……でもまあ、何も思い浮かばないっていうのは、ちょっと悲しいねぇ。ほらボクも一応、ここの教員な訳だし。それだけ生徒がこの学校に魅力を感じてない、ってことだからね。そうだ! どうだろう、少しアドバイスしても良いかな?」
非常に嬉しそうな表情で、木村は妙案を口にする。だが、その案は僕にとって、ためになるとはまるで思えない。確実に、彼の自慢話を延々と聞かされるだけであろう。
「そ、そんなのいいですよ。先生も忙しいんでしょうし……」
「いやいや、せっかく来たんだからさ、何か収穫があった方がいいだろう? それに、今回の件はボクの監督不行き届きが原因でもあるからさ。ボクを助けると思って聞いてくれたら、それでいいから」
「は、はぁ……」
ダメだ、得物を捉えたライオンのように、木村の目はらんらんとしてしまっている。こうなっては、幾ら理由を重ねても無駄だろう。大人しく、話を聞くしかない、か。
そして、部室から出たばかりであった僕は、木村と共にまたこの部屋へと戻ることとなった。窓からは陽の光が注がれ、心なしか先ほどより少し室温も上がったようである。
まったくやる気を削がれ、溜息を吐く僕とは対照的に、部室へと踏み込んだ木村は、笑顔で窓辺へと向かうと、嬉しそうに呟く。
「お、予報通り晴れたね。さすがはボクらの気象衛星だ、正確だね」
「はあ、そうですね……ん? ボクらの、ってどういう意味ですか?」
「うん? あれ、話してなかったかな。ボクの奥さん、天気予報に使ってる気象衛星を創った研究班のメンバーなんだよ」
その話は初耳である。まさかそのような事業に参加した人間が、こんなにも身近にいるとは。しかもこの木村の妻であるとは、驚きだ。
日本の気象衛星といえば、現在は『ひいらぎ七号』が稼働していると、以前ニュースで学んだことがある。そろそろ次世代機にバトンタッチするとも聞いていたが、いずれにせよ木村の妻が偉大な科学者の一人である、ということには変わりない。
「それは凄いですね。奥さんは、今もまだ研究を?」
「ああ、いや。ボクと結婚してからは家事ばかりさ。それと、気象衛星を創ったと言っても、その概念の方を主に担当していたらしいから、技術者という訳じゃないんだよ」
「そうなんですか。でも凄いですよ」
「そうかい? まあ、彼女もまだ旧姓を使ってるし、現場に戻りたい意欲はあるんだろうね……そういえばさ、妻が研究していた時にね――――」
どうやら、話を無難な方向性に持っていけそうだ。彼の人生論について熱く語られるよりも、多少は興味深い研究の話であれば、少しはどこかで役に立つだろう。これで時間を稼ぎ、どうにかして帰宅する方向へと話を誘導したい。
しかし、そう悠長にもしていられない。こうしている間にも、時間は経過していく。明日には、少なくとも撮影計画くらいは立てておかないと話にならないのだ。キリの良いところで、それとなく話題を変えるとしよう。
当然、話を遮られて愉快に思う人間は少ない。だからこそ、しっかりと見極めなければ、今後の人間関係に差し障るだろう。
「――――それでね、大野くんはボクと喧嘩になっちゃってさ。ほんと参っちゃうよ。ああ、大野くんというのはボクの同期で、それがまた嫌な奴だったんだよ。いっつもボクに突っかかって来てさ」
「そうですか。……ああ、先生」
「うん? なんだい?」
やや強引であったか。だが、急に話を遮られても、彼は露骨に嫌な表情を見せる様子もない。これならば、流れとは異なる話題を振っても問題ないだろう。
「さっき思ったんですけど、どうして、旧姓を使うことが研究に関する意欲に繋がるんですか?」
「あー、なるほど、それのことか。ええっとね、論文に載る名前って、基本的にその論文が書かれた時の名前なんだよ。だから結婚とかした場合、名前が変わるから色々と申請とか、そういうことをしなくちゃいけないから、けっこう面倒でね。だから、研究者はあえて旧姓を名乗るか、新しい名字と併記することが多いんだ。まったく、変な文化だよね」
「なるほど、そういうことですか……」
そういう理由もあって、夫婦別姓が議論されるのだろうな。なかなか勉強になるではないか。
「そうそう。だからさ、ボクもつい旧姓で呼んじゃう時があってね。高木さん、とか言っちゃって、よく叱られるんだよ。何よ他人行儀ね、ってね。ははは!」
「はぁ……」
そういう、ただの雑談はどうでもいい。これ以上有意義な情報が得られないのならば、そろそろ締めなければ。一度流れを切った今こそ、その時だろう。
「おっと、すみません先生。お昼も近いですし、そろそろ帰らないと。……心配するでしょうから」
どうしても両親を理由にしたくなかったため、そこは濁した。しかしどうやら、木村にはしっかりと、濁した部分以外のことについては伝わったようである。
「え? ああ、本当だ。ごめんねぇ、ついつい長話になっちゃって。結局、何の参考にもならなかったかもしれないなぁ……」
「そんなことはありませんよ。ありがとうございます」
そう言って、僕はゆっくり立ち上がる。木村は名残惜しそうに僕を見つめるも、止める気配はない。その代わりに優しい目を向けながら、最後に一つだけ語り掛けてきた。
「しかし、水島くんも大変だね。一昨日は変な事件を目撃したらしいじゃないか。こんな先生で悪いけど、力になれることなら、いつでも力になるからね」
「そんな、とんでもない……では、失礼します」
「うん。じゃあ、気を付けてね」
思ったよりあっさりと解放してくれて拍子抜けしつつも、僕は急ぎ足で出口へと向かう。収穫どころか心を掻き乱されて終わってしまい、学校に来たことへの後悔の念が押し寄せる。大人しく自宅で悶々とすればよかった、と思う僕の耳へと、微かに木村の呟く声が聞こえた。
急ぐフリをした手前、振り返ることも返答することも出来なかった。しかし、はっきりと、木村がこう口にしたことだけは覚えている。
大変なのは、これからだからね、と。
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