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小欅 サムエ
小欅 サムエ

We’ve A Story To Tell

2-1

公開日時: 2020年11月3日(火) 11:44
更新日時: 2021年1月2日(土) 09:55
文字数:5,103

 二〇一五年五月三日――――


 一般には憲法記念日けんぽうきねんびとして知られる国民の祝日だが、今年は生憎あいにく、日曜日と重なってしまい、あまり祝日という実感が湧かない。振替日は存在するが、それを除けば単なる日曜日である。


 しかし、僕にとっては普段の日曜日と訳が異なっていた。その理由は、今さら説明するまでも無いだろう。


「はぁ……」


 曇天を苦々しく見上げ、僕はため息交じりに机をペンで叩く。自宅で脚本制作に挑んでみたもののまるで浮かばず、臨場感を得るため部室に来てみたのだが……やはり、出ないものは出ないようだ。


 明日の午前中には、少なくとも動画のシナリオについて決めておかなければならない。そうでなければ、恐らくあの西野にしののことだ、問答無用でこの活動を停止させようとするだろう。正式に廃止されれば、当然この部屋も没収となる。


 コミュニケーション能力の高い金子かねこはともかく、出水でみず高城たかしろ、それに僕は完全に学校での居場所を失ってしまう。特に高城と僕はクラスでも浮いた存在であり、この場所が無くなれば不登校ともなりかねないのだ。


 そして、そうなった暁には、またあの両親と争う羽目になる。こんな未来、地獄以外に形容し難い。


 とはいえ、何も浮かばないことは事実だ……ここは、残る三人の案に全力で乗り掛かるしかないか。せっかくこの部室まで来て無駄足になってしまったが、仕方があるまい。


「さて……」


 諦めて立ち上がり、窓の外を眺める。予報では昼前から晴れるらしく、既に雲の隙間から僅かに光が漏れ出ていた。このように、雲間から一筋の光が差し込む現象を『ヤコブの梯子はしご』と呼ぶそうだ。天使が天と地を行き来するらしいが、もし天使が地上に下りてきているのならば、是非ともこの憐れな僕を救い出して欲しいものだ。


 そんな自堕落な思考をしつつ、部室のある三階の窓から地上へと視線を落とした、その時であった。


「え……?」


 学校のすぐ横の道から、見覚えのある人物がこちらへと視線を送っていたのである。いや、見覚えのあるどころではない。昨日は写真で、一昨日は直接この目で見たし、会話もしたのだ。さすがに衣服や髪飾りは異なっているが、僕の脳はそんな些細な変化で騙せるものでは無い。


 あれは、西蓮寺さいれんじ 真冬まふゆだ。新宿志摩丹しまたんの六階、あの事件のあった現場で個展を開いていた、奇人画家である。


 その西蓮寺が、じっとこちらの様子を窺うように、視線を送り続けている。心なしか、その顔には笑みすらも浮かべているようだった。


 僕は慌てて窓から姿を隠し、鼓動を抑えるため胸に手を当て、大きく深呼吸をする。そして一度冷静になり、状況を再確認しようと思考を巡らせる。


 まず、西蓮寺はこの西光せいこう学園高校に付属する大学に勤務しているのだ、この周囲の往来を歩行していても、何ら不思議ではない。勤務先の周辺に住居を構えるのは自然であるし、ましてや休日に散歩をするのは心身ともに健全な証拠でもある。


 それに、彼女は高校の方にも時折、講師として訪れていたと聞く。ならば、思い出を想起し少し微笑ほほえむくらいしても、そう不自然な話ではないだろう。


 そうだ、これは単なる偶然だ。あの現場にいたからこそ、こうして余計な思い込みをしてしまっているのだ。


「ふぅー……」


 また大きく息を吐くと、恐る恐る、窓の端から彼女の様子を窺う。緊張感と、じっとりとした暑さの影響で首筋から一粒の汗が流れ、ぞわりとした感触に襲われる。ゆっくりと道路の一端が見え始め、やがて細い路地全体が視界へと映っていく。しかし――――


「……あ、あれ?」


 先ほどまで西蓮寺が立っていた場所には誰もおらず、僅か数百メートルほどの路地全体を見下ろしてみても、むしろ人の気配すらない。一台の軽自動車が通り抜けていく以外に、何もなかった。


 移動したのだろうか。いや……じっと、一か所を眺めていた人間が、急に数百メートルも移動するとは思えない。路地を形成するビルの谷間には、人の通れるくらいの隙間は存在するものの、道というほどのものでもない。よほど意識でもしない限り、通行どころかその存在にすら気付かないだろう。


 まさに忽然こつぜんと姿を消した、と表現するのが適当だ。それか、僕が何か幻でも見ていたか……いや、それは有り得ない。脚本作りに頭を悩ませすぎて、疲れていたのだろう。


「何だったんだ……」


 ポツリとそう呟き、汗にまみれた額を軽く拭う。驚くことにそれ以上汗が滴ることはなく、早鐘を打っていた心臓も普段通りのリズムを刻んでいる。まるで何事もなかったかのように、ただ時間だけが過ぎていた。変化したとすれば、また少し雲が晴れてきたことくらいである。


 小さく頬を掻き、改めて鞄を肩に掛け直した僕は、納得のいかぬままに部室から廊下へと出る。そして施錠をしようと、鍵を取り出すためポケットへと手を入れた。


 すると、その瞬間。不意に現れた何かとぶつかり、思考を巡らせ無防備であった僕は廊下の冷たい床へと、成す術もなく倒れ込んだ。


「うわっ!」


 突然の出来事に受け身も取れず、まともに肩から倒れてしまった。硬い床に叩き付けられた右肩を中心に、重い痛みが広がってゆく。


っ……」

「おおっと! 大丈夫かい? ……あれ、水島みずしまくん?」

「え?」


 聞き馴染みのある声に顔を上げると、そこには心配そうに見つめる一人の男性……木村きむらの姿があった。少しシワの目立つスーツを揺らし、木村は僕の横へと慌ててしゃがみ込む。


「木村先生……?」

「いやぁ、すまないすまない。急にドアが開くとは思ってなかったからさ。でも、どうしたんだい? 今日はもちろん授業なんて無いけど……ああ、もしかしてあの動画の件かな?」

「え、あ、はい……そう、ですね……」


 木村の助けを借り、何とか起き上がった僕は衣服に付いた埃を払う。腕を動かした影響で少し右肩は痛むものの、感触からして骨は折れていないようだ。恐らく、軽い打撲程度だろう。


「ん? あれ、一人かい?」

「はい、動画の件は月曜日に話し合うことになっているので、その準備……と、言いますか。まあ結局、何も思いつきませんでしたけど」

「そうかい、それは残念だ。しかし、今回はあまり力になれそうも無くて、ごめんね。ちょっと野暮用が入ってさ、ゴールデンウィーク中は忙しくなっちゃったんだ」

「いえ、それは別に……」


 今回は、ではなく、彼は普段から僕たちの活動に対し、特に役立っている訳ではない。部室を用意してくれた以外、大きく貢献してくれたことは一度もないのだから。そのくせ、部室に来ては無駄話をして帰っていくので、正直なところ煙たい存在であった。まあ、大人というのはそういうものなのだろう。


「うーん……でもまあ、何も思い浮かばないっていうのは、ちょっと悲しいねぇ。ほらボクも一応、ここの教員な訳だし。それだけ生徒がこの学校に魅力を感じてない、ってことだからね。そうだ! どうだろう、少しアドバイスしても良いかな?」


 非常に嬉しそうな表情で、木村は妙案を口にする。だが、その案は僕にとって、ためになるとはまるで思えない。確実に、彼の自慢話を延々と聞かされるだけであろう。


「そ、そんなのいいですよ。先生も忙しいんでしょうし……」

「いやいや、せっかく来たんだからさ、何か収穫があった方がいいだろう? それに、今回の件はボクの監督不行き届きが原因でもあるからさ。ボクを助けると思って聞いてくれたら、それでいいから」

「は、はぁ……」


 ダメだ、得物を捉えたライオンのように、木村の目はらんらんとしてしまっている。こうなっては、幾ら理由を重ねても無駄だろう。大人しく、話を聞くしかない、か。


 そして、部室から出たばかりであった僕は、木村と共にまたこの部屋へと戻ることとなった。窓からは陽の光が注がれ、心なしか先ほどより少し室温も上がったようである。


 まったくやる気を削がれ、溜息を吐く僕とは対照的に、部室へと踏み込んだ木村は、笑顔で窓辺へと向かうと、嬉しそうに呟く。


「お、予報通り晴れたね。さすがはボクらの気象衛星だ、正確だね」

「はあ、そうですね……ん? ボクらの、ってどういう意味ですか?」

「うん? あれ、話してなかったかな。ボクの奥さん、天気予報に使ってる気象衛星を創った研究班のメンバーなんだよ」


 その話は初耳である。まさかそのような事業に参加した人間が、こんなにも身近にいるとは。しかもこの木村の妻であるとは、驚きだ。


 日本の気象衛星といえば、現在は『ひいらぎ七号』が稼働していると、以前ニュースで学んだことがある。そろそろ次世代機にバトンタッチするとも聞いていたが、いずれにせよ木村の妻が偉大な科学者の一人である、ということには変わりない。


「それは凄いですね。奥さんは、今もまだ研究を?」

「ああ、いや。ボクと結婚してからは家事ばかりさ。それと、気象衛星を創ったと言っても、その概念の方を主に担当していたらしいから、技術者という訳じゃないんだよ」

「そうなんですか。でも凄いですよ」

「そうかい? まあ、彼女もまだ旧姓を使ってるし、現場に戻りたい意欲はあるんだろうね……そういえばさ、妻が研究していた時にね――――」


 どうやら、話を無難な方向性に持っていけそうだ。彼の人生論について熱く語られるよりも、多少は興味深い研究の話であれば、少しはどこかで役に立つだろう。これで時間を稼ぎ、どうにかして帰宅する方向へと話を誘導したい。


 しかし、そう悠長にもしていられない。こうしている間にも、時間は経過していく。明日には、少なくとも撮影計画くらいは立てておかないと話にならないのだ。キリの良いところで、それとなく話題を変えるとしよう。


 当然、話を遮られて愉快に思う人間は少ない。だからこそ、しっかりと見極めなければ、今後の人間関係に差し障るだろう。


「――――それでね、大野おおのくんはボクと喧嘩になっちゃってさ。ほんと参っちゃうよ。ああ、大野くんというのはボクの同期で、それがまた嫌な奴だったんだよ。いっつもボクに突っかかって来てさ」

「そうですか。……ああ、先生」

「うん? なんだい?」


 やや強引であったか。だが、急に話を遮られても、彼は露骨に嫌な表情を見せる様子もない。これならば、流れとは異なる話題を振っても問題ないだろう。


「さっき思ったんですけど、どうして、旧姓を使うことが研究に関する意欲に繋がるんですか?」

「あー、なるほど、それのことか。ええっとね、論文に載る名前って、基本的にその論文が書かれた時の名前なんだよ。だから結婚とかした場合、名前が変わるから色々と申請とか、そういうことをしなくちゃいけないから、けっこう面倒でね。だから、研究者はあえて旧姓を名乗るか、新しい名字と併記することが多いんだ。まったく、変な文化だよね」

「なるほど、そういうことですか……」


 そういう理由もあって、夫婦別姓が議論されるのだろうな。なかなか勉強になるではないか。


「そうそう。だからさ、ボクもつい旧姓で呼んじゃう時があってね。高木たかぎさん、とか言っちゃって、よく叱られるんだよ。何よ他人行儀ね、ってね。ははは!」

「はぁ……」


 そういう、ただの雑談はどうでもいい。これ以上有意義な情報が得られないのならば、そろそろ締めなければ。一度流れを切った今こそ、その時だろう。


「おっと、すみません先生。お昼も近いですし、そろそろ帰らないと。……心配するでしょうから」


 どうしても両親を理由にしたくなかったため、そこは濁した。しかしどうやら、木村にはしっかりと、濁した部分以外のことについては伝わったようである。


「え? ああ、本当だ。ごめんねぇ、ついつい長話になっちゃって。結局、何の参考にもならなかったかもしれないなぁ……」

「そんなことはありませんよ。ありがとうございます」


 そう言って、僕はゆっくり立ち上がる。木村は名残惜しそうに僕を見つめるも、止める気配はない。その代わりに優しい目を向けながら、最後に一つだけ語り掛けてきた。


「しかし、水島くんも大変だね。一昨日は変な事件を目撃したらしいじゃないか。こんな先生で悪いけど、力になれることなら、いつでも力になるからね」

「そんな、とんでもない……では、失礼します」

「うん。じゃあ、気を付けてね」


 思ったよりあっさりと解放してくれて拍子抜けしつつも、僕は急ぎ足で出口へと向かう。収穫どころか心を掻き乱されて終わってしまい、学校に来たことへの後悔の念が押し寄せる。大人しく自宅で悶々とすればよかった、と思う僕の耳へと、微かに木村の呟く声が聞こえた。


 急ぐフリをした手前、振り返ることも返答することも出来なかった。しかし、はっきりと、木村がこう口にしたことだけは覚えている。


 大変なのは、これからだからね、と。


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