天使の羽――コルトガバメントのグリップに装飾として刻まれている『SEED』と記載された部分から注射器が飛び出す。それはシンヤが握りしめているコルトガバメントから手のひらに突き刺さった。
そして不規則に動き回る『赤色の液体』が、シンヤの肉体へと注入されていく。
それと同時に、死んだはずのシンヤはその場で暴れ回るように体中を激しく動かしながら、血管が全身に浮かび上がった。そして自動車に衝突した際に負ったはずの傷が、皮膚の沸騰と共に再生を始める。それは、折れた骨や熱で溶けた皮膚も同様だ。
傷だらけの体は、気付いた時には元通りになっていた。
その光景はアグレストやカブリコが行っている再生方法に近い。人間が行う自然治癒力とは根本的に何かが違い、その光景は一言で言ってしまえば『化け物』だ。
信条シンヤはこの瞬間、人間をやめた。
本来、ゾンビや化け物から肉体的損傷を受けた場合、学校の生徒や教師と同様ゾンビになるはずなのだが、『天使の羽』と『ミヌティックドックウイルス』の分解と侵食により、肉体と脳の処理速度が平均で押しとどめられている。それは体の構造を根っこから組み替えていく。
シンヤはゆっくりと体勢を起こして、地面に散らばるガラスに手を付きながら立ち上がった。そのまま指先から血が滴る。
しかしその傷は、すぐに再生してしまった。
「今は、どういう状況だ?」
目を見開き、世界がスローモーションに見える。
シンヤの瞳は『淡い赤色の光』に包まれており、大量の情報が頭の中に泉のように流れ込んでいた。まるで時計の長針世界から自分だけ外れて短針世界へと迷い込んだように、時間の感覚が狂い始める。
そしてピクリと、シンヤの瞳が化け物のように動く。
それと同時に理解できてしまえる『未来』の光景。
リアがアグレストと現在戦闘を繰り広げており、カオリがアグレストからゆっくりと距離を取っている。その3秒後にリアがアグレストの瞳にかかと落しを食らわして、5秒後にカオリの背後にアグレストが瞬間移動する光景が見えた。
そのままカオリは殺される。
「何だよ……これ?」
(殺される? カオリが殺される? 何だよ、これ)
それと同時にリアルタイムで行われている戦闘だが、リアがアグレストの柔らかな眼球を潰して、その血しぶきを浴びていた。
「やはり、左腕の破壊が必要なようだね」
「リア、待て。そのままだとカオリが死んじまう」
しかしシンヤの声はリアには届かない。
そのままリアは背後を警戒しながら自分の方へと向かって来た。そして、何かに気付いたリアは慌ててカオリの方へと視線を向け直す。それはシンヤが先ほど見た光景と同じだ。
「? ――っ、しまった!」
リアの声が響き渡り、アグレストの左腕がカオリに振り下ろされた。
「待てよ」
その言葉と同時に、シンヤが一歩を踏み出す。両足が凍り付いたように冷たく、体から切り離されたように違和感が残る。シンヤの視野が狭まっていき、アグレストとの距離感が分からなくなっていく。
カオリの正面に瞬間移動したアグレストは、左腕を巨大化させて振り下ろした。
(あぁ、私ここで死ぬんだ。誰も救えないまま、弱いまま死ぬんだ)
カオリがそう考えた瞬間、目の前にいきなり現れた信条シンヤがアグレストの腹部に肉体をねじ曲げるほどの蹴りを食らわせた。シンヤの両足は原型を留めておらず、アグレストは駐車場を囲っている木々を八倒しながら道路を越えて、ショッピングモールリオンの正面に隣接している物流センターまで吹き飛んだ。
そしてリアとカオリはその光景に目を見開き、人間では実現できない力と速度にただ驚愕する。シンヤはそのまま倒れ込むが、原形を留めていない両足は数秒ほどで再生を始めた。
「っひ、シンヤ君なの?」
両足が皮膚ごと沸騰し始めて、流れ出る血液がシンヤの元へと戻っていく。カオリはその光景を痛々しい物を見るような目で眺めていた。そして耐え切れず、片手で口を抑えながらシンヤに引きつった笑みを送る。
まるで化け物を見ているような表情だ。
そしてリアの銃口もまた、シンヤへと向けられていた。
(だよな。確かにこれは気持ち悪すぎるよな……化け物だ)
「大丈夫、俺は信条シンヤだ。それにあの化け物もこの程度じゃ死なねぇだろ……来いよ! パッパと殺してやるから!!」
その目は未来を見通し、その瞳は淡い赤色の光に包まれており、その表情は殺人鬼のように不敵な笑みを浮かべている。リアもカオリも背筋に冷たい空気が走り、震えが止まらない。
その目を、別の世界にいた天能リアは『プロビデンスの目』と呼んでいた。
これは小言だ。
数々のゲームをやり込み、世界ランキングにプレイヤーネームを刻み込むほどの実力を持った男が別の世界にいた。そいつが望んだ力は、60fpsを越えた現実世界で1fpsすら見逃さず、演算によって導き出された未来予知に匹敵するほぼ完璧な光景を見ること。
そして世界は残酷に出来ている。未来の光景に夢を見る奴は『子供』であり、過去に浸る奴は『大人』であり、現在を見ている奴は『人間』だ。そこに年齢や性別は関係なく、その一瞬一瞬が自分自身で理解できている奴は『愚者』であり、理解できていない奴は『英雄』だ。
「シ、ンヤ君?」
(怖い怖い怖い、この存在が怖い。――……でもさ)
例えば、私がこんな風に強くなれたら?
例えば、私がこんな風に誰かの前に立てたら?
こんな風に大きな背中を誰かに見せることが、私にも出来るだろうか?
――そう考えると、この人はなんて優しい人なんだ――
人間をやめて、それでもアグレストに銃を構える『人間』が立っていた。
時期に雲の隙間から太陽の光が差し込み、それはとても眩しくて、シンヤの姿は影と光に比例してしっかりと視認できない。不器用なシンヤの苦笑いが少しだけ映り込み、カオリの恐怖心を薄めていく。
(英雄なんて存在がいるなら、きっとこんな感じなんだろうな)
それは弱い少女がこの絶望した世界で、小さな夢を見た瞬間だ。
そこでは私はみんなの前に立って、屈託のない笑顔を向けている。その人達の1%だけでいい。小さな影響を及ぼせるような人物でありたい。ほんの少しでいい、こんな考えをみんなが持てたら、世界はいい方向に進むはずなんだ。
カオリの中で理想が生まれる。
アグレストは物流センターからシンヤの背後まで一瞬で瞬間移動した。しかしシンヤの瞳はクルクルと回りながら、その光景を5秒前に見ている。体勢を前に倒すと同時に、アグレストの振り下ろされた左腕が空を切る。
「シンヤに一体なにがあったと言うんだい!?」
(どうなっている。武器の影響? シンヤを殺すべきか? アグレスト以上に厄介な存在になる可能性がある。しかし、先ほど意思疎通が取れていた。ここは様子を見るべきか)
シンヤは前屈みの体勢から背中を横に曲げながら右手を背中に向かって振り上げて、コルトガバメントの引き金を高速で引き続けた。BB弾が射出されるとほぼ同時に、次のBB弾が射出されていき、振り上げた遠心速度に合わせて銃弾が一本の線となってアグレストの左腕を引き千切る。
それは居合切りのような速度だ。
そのままアグレストの左腕が灰となって消滅していく。
「丸見えだっての。今ならどんな化け物にも負ける気がしない」
「killァァァI'll kill you.ぁぁぁPlease, die. aaa I don't want to die.ァァァCreedぁぁぁShinyaァァァIt's not me.ぁぁぁGood byeァァァFirstァぁっaアアああああ!」
男性の声を複合させたような大音量の叫び声が空気を揺らす。リアとカオリは耳を塞いでおり、激しい頭痛に襲われていた。しかしシンヤは、すでに何も聞こえていない。両耳から血が流れており、鼓膜が千切れている。
そして恐れることなく、その足を進めた。
アグレストはミキサーにかけられた様に液体状となって宙を浮いており、一体どこから声を出しているのか分からない。そして、その形は時期に球体へと変化していった。
その光景をシンヤはすでに3秒前に見ている。
それはアグレスト最終形態だ。球体の中央には赤く光輝いている宝石のような物が埋め込まれており、血液で出来た巨大な球体から複数の腕が飛び出した。その腕があらゆる方向や角度からシンヤを襲う。
逃げ場がある様には見えない。しかし
「左左下右左下右右少し飛んで左右と見せかけて左右飛んで右右左下……」
早口で小声を喋りながらシンヤは最小限の動きで正確にアグレストの攻撃を回避していた。しかし肉体への負担が激しく、無数の攻撃を回避しながら体中の骨が折れると同時に再生を繰り返している。体勢を少し左に傾ければ脇腹が悲鳴を上げて、上下に体を動かせば膝が嫌な音をたてていた。
折れた骨が皮膚を貫き、体中から血が流れる。
それでもシンヤは歩みを止めない。そしてアグレストの目の前に立つと同時に、コルトガバメントの銃口を中央で光り輝く『赤い宝石』へと向けた。
1秒後にアグレストが爆散する未来が見える。
「さよなら化け物、地獄で待ってろ」
シンヤが引き金を引いた瞬間、その銃弾がアグレストの中央で光り輝く赤色の宝石を撃ち抜き、そのまま球体が膨れ上がると同時に爆散した。
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