【《約1年半前》8月23日(金曜日)/16時44分】
看護師から告げられた言葉が理解できなかった。何を言っているのか分からず、気付いた時には看護師の胸倉を掴んで冷たい視線を看護師に向けている自分の姿がそこにはあった。
看護師の叫び声と共に医者に抑え付けられ、落ち着くまでに随分な時間を必要した。ベッドから転がり落ちてナナの元へ向かおうと、その体を引きずる。両腕を使って地面に体を押し付けながら、折れた両足ごと両腕で前に進もうとした。
それは精神安定剤が必要になるぐらい酷かったらしい。
「少しは落ち着きましたか? 熱意さん。いいですか? 落ち着いて聞いてください。我々の力が及ばず、桜井さんはご臨終を迎えました」
「ぇ、だって……」
「あなたが桜井さんと仲が良い事は看護師から聞いています」
「いや……待って、本……当に、本当にナナが? ――いや、だって……3日前まで、あんなに元気だったんだ。そんな訳、無いだろ?」
――意味が分からない。何かの冗談だろ? ナナのふざけたドッキリに違いない。頼むから心臓に悪い冗談はしないでくれ……頼むから……神様。
「桜井さんは、くも膜下出血と言う脳に外傷がありました。原因は後頭部に出来た外傷による出血だと思われます」
「外傷? ――はは、嘘だろ……」
何となく思い当たる節があり、しかしリョウがそれを受け入れる事が出来ず、あれは別人だったと思い込むようにして塞ぎ込んだ。その直前に医者に見せたリョウの表情は、医者の表情を曇らせるほど歪な笑みだったと言う。
それからリョウには考える時間が与えられた。与えられたくなんてない、欲しくもない時間が……無慈悲に与えられる。
8月17日から今日までの出来事がフラッシュバックしたように鮮明に思い出され、それと同時に止まらない涙を何とか止めようとした。次々に零れ落ちると同時に思い出される……短くも長い時間が、リョウの心を呪いの様に握りしめる。
――また、あの元気な声を聞かせてくれ……無邪気な姿で、その扉を開けてください。元気な顔で、本当にどうでもいい話を聞かせてくれ。今なら何時間でも聞いてやる。それで……それでまた、ナナが新しいどうでもいい事を考えて……俺を困らせるんだ。
――頼むよ……神様。今ならはっきり言えるんだ……今なら、好きだって言えるんだよ。きっとナナは変な冗談で照れ隠しするに違いない。そしたら頭を撫でて、抱きしめてやるんだ。――これから何だよ……これからなんだ。
ふざけた冗談でもいい。
一言ナナの声が聞けるなら命だってくれてやる。
それを今になって気付く自分が、嫌いだ。
「っう……ぁっぁぁっぁぁっぁぁっぁ!! っく、はぁぁ……」
くしゃくしゃに歪んだ顔から涙は零れ続け、その記憶に刻まれたナナの姿を思い出すたびに……自分が今になって全ての選択をミスしていた事に気付く。こうなることが分かっていたら、仲良く何てしなかった……キス何てしなかった。
最後の涙に、惚れたりなんてしなかった。
ガラガラ――扉が開く音。
反射的に目を見開いて慌てたようにリョウは扉に視線を向けるが、そこに立っていたのは胸倉を掴んでしまった看護師だった。怯えたように入って来た看護師の手には、ノートと手紙……そして容器に入れられた何かを持っていた。
「昼間は、申し訳ありませんでした。気を使えなかったと思います」
「っぁ、いや……こちらこそ、すいません」
「――空気が私……読めてないですね。これだけ……その、渡しに来ました。緊急時以外は、この時間……患者さんに合うのはダメなんですけど、これは今渡すべきだと思ったんです」
看護師は手に持っていた物を全てリョウの目の前にある机に置くと、そのまま一礼して出て行ってしまった。何となく申し訳ない気持ちになりながら、空を見ると真夜中になっていた事に気付き……頭を抑える。
時計の針は22時を過ぎており、窓ガラス越しでも星が大量に見える。
力のない表情で、目の前に置かれたノートを1ページ目から何となく眺めていた。何でもよかった……病院の献立表でも、新聞でも良かった。何も考えずにいられる何かを欲した。
汚い文字で書かれた日記――ゲームの事しか書かれていないつまらない日記だった。この日記を書いた人間はきっと俺と同じぐらいつまらない人生を生きているんだと思えるほど、色のない日記。
そこに色が追加されたのは、8月6日からだった。
――不思議だ……何も考えないために読んでたんじゃないのか? 何でこんなに、涙が出るんだよ……ふざけんなよ……止まれ、止まれ、止まれよ。
机に置かれた手紙に手を伸ばす。それは日記と同じで、やはり汚い字であり……桜井ナナが書いた手紙だ。一文字一文字を丁寧に、丁寧に、ゆっくりと時間をかけて読んでいく。
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熱意リョウへ
きっと私は恥ずかしがって、言いたい気持ちの半分も言えないかもしれません。だから手紙でリョウに伝える事にしました。字が下手かもしれないけど、我慢して読んでくれると嬉しいですね!
私は高校時代、あなたに助けられました。それをリョウは後悔していると知って、とってもとっても悲しかった。分かっていたんです。私のためじゃない……一時の気の迷いってリョウさんは言うでしょ? でも私はそれでも嬉しかったんです。
ずっとずっとあなたを探して、一言笑顔で言いたかった。
【私は幸せ者です】って……嘘でもいいから言いたかったんです。
手紙と一緒にリョウが食べたがっている豚の角煮を作っちゃいました。私はきっとこの手紙をリョウが読んでいる途中、隣で顔を真っ赤にしながらうずくまっていると思います。
――優しく頭を撫でて、優しい声をかけて。
出来れば、私に好きって言って欲しい。付き合おうぜって、背中を軽く押してほしい。そしたら嘘じゃなくなると思います。助けられてばかりの私が頼めることではありません。健全な体でもありません。でも、でもリョウならって、毎日夢に見るんです。
口では恥ずかしくて言えません。もしもダメなら、ここの部分は無かったことにして欲しい……見なかったことにして普通に声をかけてほしいです。
私は熱意リョウの事が、大好きです。
私とこれからもずっとずっと、一緒にいてください。
桜井ナナより
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手紙が汚れないように上にあげたまま、下を向いてただただ布団に顔をうずめる。もう何も言えない……限界だ。
「ナナ……」
隣で恥ずかしがっているはずのナナはどうした? いないじゃないか……これじゃあ、これじゃあ何も言いたいことが言えない。
「ナナ……」
今日は星が綺麗だ。それに豚の角煮もナナが用意してくれた……完璧じゃないか? 今日は前よりも楽しくなるんだぞ?
「ナナ……」
ふざけんなょ……これじゃ、意味が無いんだ。ナナ以外の全てが揃っても意味が無いんだよ。隣にナナがいるなら他はおまけじゃないか?
お願いだから、俺に『好きだ、付き合おう』って言わせてくれよ。
「俺も……お前が好きだよ。あと少しで、お前の嘘を本当に出来たのに」
ナナのいないベッドの上で、ナナに作ってもらった豚の角煮食べながら、満天の星空を眺めるが……どうやら前回よりは楽しくないらしく、甘すぎる角煮の味はナナが悪ふざけで砂糖を大量に入れたことがすぐに分かる。
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