シンヤは力なく肩を落とした。夢や幻だと思い、自分の頬をつねりながらこれが現実だと再確認する。なんて喋ればいいのか分からず、言葉に戸惑ってしまう。そんなシンヤの姿を嬉しそうに見ている辺りが『本物の母親』らしい。
いい意味で性格の悪さが滲み出ていた。
過去の記憶が蘇ったように、色々なことを思い出してしまう。
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【信条カナエ】――長く束ねられた黒髪に切れ長の目が特徴的なシンヤの母親。外見だけ見れば近寄りがたい雰囲気を醸し出しているが、内面は意外とテンションが高い。自由気ままにやりたいことをやるタイプの人間だ。
昔から「旦那と結婚する気なんて無かったわよ。その場のテンションで、じゃぁ~結婚するか! みたいな感じで結婚した。性格も正反対だったし、喧嘩も多かったけど――そこが面白い人だったのよね」などと平気で息子に本音を暴露する辺りがカナエの良いところであり、欠点でもあった。
そのため、シンヤがテレビゲームをやり始めれば一緒になって楽しんだ挙句、家事や洗濯を忘れて父親に注意されることも多かった。親の威厳なんて感じられなかったが、それだけシンヤは母親のことを大切に思っている。
それが悪い方向に進んで結果的に離婚した訳だが。
カナエは銀行口座に振り込まれていた一千万円と言う大金に手を出してしまい、家族会議で決めたはずの『学費・養育費』と言う用途を逸脱した。シンヤはその大金の存在を離婚した後に知ったため、どんな話し合いが執り行われていたかは知らない。
父親は金銭面に厳しい人だったため、歯車が噛み合わなかったんだろう。
互いに正反対の性格に惹かれ合って結婚したはずなのに、正反対の性格が悪い方向に向いて離婚。『金の切れ目が縁の切れ目』とはよく言ったもんだなと、ことわざを賞賛したくなる。
シンヤは、家を出ていく母親の姿を今でも覚えていた。
そして苦い表情を浮かべることしか出来なかった自分自身のことも。あの日、勇気を出していれば……そう思わない日々は無い。
扉が閉まる瞬間まで、自分の手を母親に伸ばすことが出来なかった。いつもなら気楽に伸ばせていたはずなのに、その瞬間だけはどうしても伸ばせなかったんだ。
どうしてこうなってしまったんだ?
待ってよ――母さん……
その時からだ、世界が『白黒』に見えるようになったのは。
誰もいないリビングでテレビゲームをやっていても全く面白いと感じなかった。普段ならカナエが覗き込むように後ろから現れて、気付いた時にはカナエがシンヤのコントローラーを奪い取ってゲームを楽しんでいるはずなのに。
なんでゲームをやりに来ない?
今なら、すぐに変わってあげるのに……
コントローラーを地面に置いてリビングを見渡す。
この場所が、いつもより広く感じられる。
それにとても静かだ。
頬を滴る『涙』に気付き、徐々に目の周りが熱くなる。ゆっくりと下を向きながらシンヤは一言だけ呟いた。それは整理しきれないぐちゃぐちゃな感情をすべて吐き出すように、たった一言にまとめられたシンヤの本音だ。
「――母さん……一人じゃ、つまらないよ……」
また母親らしくない馬鹿なところを見せてよ。
料理も洗濯も次からは手伝うからさ。
ゲームだってすぐに変わるよ。
父さんに怒られたら、一緒に謝るから。
次は……次はさ……
この手を必ず……必ず伸ばすから。
だから帰ってきてよ、母さん。
――自分のことをどう思っているか? そんな風に聞かれたら俺はこう答えるだろう。『俺は自分自身が嫌いだ』っと。
この日から大好きなゲームをやることは無くなった。
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「そう、かな?」
「えぇ、私の想像以上に成長してる」
シンヤはカナエの言葉に対して『嬉しい』と感じていたが、頭を振るって冷静に考え直す。ここは森の中で、そんな場所にカナエがいるなんて可笑しい。ここに立っているのが、カナエ本人じゃないということぐらい分かっている。
頭では理解してる! しかし感情が追い付かない。
これは母さんじゃない……それは分かってる! でも。
ずっと会えなかった母親が目の前にいる。そんな状況に視線を迷わせながらも、カナエの足元ばかりに視線を向けてしまう。目を合わせることが出来ない。
「だけど嫌なことがあると視線をそらす癖は直ってないわね。三年も経ったんだから、そろそろ可愛い彼女とか出来た?」
――やめろよ。頼むからその声で俺に話をかけないでくれ。
内心とは裏腹に過去のことを聞いてしまう。
「どうして母さんは、父さんと離婚したんだよ」
理由は分かってる。それをカナエの口から直接聞きたかった。そして一言でいいから謝ってほしかったんだ。――そうすれば、俺も許して……また。
ここで『ッハ』っと、目を見開く。
違う、違うだろ! これは本物の母さんじゃない。あり得ない……こんな森の奥にいるなんて……夢なら覚めないでほしい。
瞳から漏れ出す『光』が徐々に薄れていく。そして淡い赤色の光が瞳から消えてしまい、無敵状態から解放されることに多少の焦りと安心感がせめぎ合っていた。カナエが『自分に攻撃するはずない』っと無意識に信頼しているからだ。
これが本物のカナエであれば、の話だが。
「ごめんなさい。私は母親としてやってはいけない事をしたの……だからね、本当は離婚なんてしたくはなかったよ。でも私は大人だから、取らなきゃいけない責任はしっかりと取るつもり。――大人になんて、なるべきじゃないわね」
――そんなこと言うなよ。
「私は母親失格だわ」
違う……これは本物の母さんじゃない……はずだ。
「本当に……本当に母さんなの?」
俺はさっきから何を言ってるんだよ?
「――えぇ。シンヤ、ずっと会いたかった」
その笑顔に釣られて、シンヤはゆっくりとカナエの元に近づいた。瞳に感じる熱さと脈の高鳴りに合わせて、その足で向かったんだ。ずっと会いたかったカナエの元へ向かい、あの日伸ばせなかった手を伸ばす。
家から出ていく母親の姿を想像しながら。
――母さん……ずっと会いたかったよ。
「母さん」
「シンヤ――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――……――いただきます」
カチカチカチカチ……ゴクッ!
何かを飲み込む音がした。
――どれほどの価値が、人間にはあるのだろうか?
シンヤがカナエに手を伸ばした瞬間――そこに立っていたのは、屈託のない笑みを浮かべたホラー少女である。シンヤはその光景を数秒ほど凝視した後、目を見開いて驚愕の表情と共に距離を取った。
「信条シンヤ? 信条シンヤ! ――楽しかったね。ねねね!? 楽し楽し楽し楽し楽し楽ししししシシシシ死死死死ぬ? 死ぬ死ぬ――ねねねねねね死ぬね? カナエ――カナエ――カナエ? ――あなたの大切な記憶は頂きました」
痛みや苦しみは感じない。
呼吸がとにかく乱れる。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……ッ!?」
想像を絶するほどの喪失感。そして何も考えられないほどホラー少女に怒りの感情を抱いていた。何故かは分からないが。
そして気付いた時、シンヤはホラー少女を殺していた。
何度もコルトガバメントの銃弾を撃ち込み、赤黒い肉片に変わった死体に引き金を引き続ける。そして地面に落ちている肉片を食べ始めた。
まるでゾンビのように。
しかしいくら食べてもその喪失感が消えることは無い。
そして次々と涙が流れ始める。自分がなぜ泣いているのか分からず、裾で涙を拭った。大切なものを奪われた感覚だけが残り続けている。
「意味が分からない。リアの元へ行かなくちゃ……」
それと同時に夜空を覆い隠すほど巨大なラミリステラの顔が大爆発を起こした。頬の辺りが削れて、鳥が騒がしく鳴き始める。そして山全体が激しく揺れた。瓦礫が雨のように降り注ぎ、土煙がこちらまで向かってくるほどだ。
今まで自分が何をしていたのか分からず、何を殺したのかも覚えていない。とてもいい気分になっていたはずなのに、何に出会ったのかも覚えていなかった。
それはラミリステラの核であり、リアが最も警戒していた本命である。本来その核は破壊することが出来ない。――認識した相手の深層意識に潜り込んで大切な記憶と繋がるからだ。そして捕食された時点でその記憶は消えてしまう。
ラミリステラがアイリスから受け取った『特権』であり、アカシックレコードの記憶領域に干渉する化け物の中の化け物。
■□■□
巨大な片手が降り注ぎ、木々や生命が消失した。そして手のひらの形を模した巨大な凹みが空中からでも確認できる。その威力にリアは賞賛の声を漏らした。
「見事な物だね」
五階建てビルと同等サイズの手のひらがリアの真上から降り注いだ訳だが、それと同時にエクスプロージョンで跳躍と移動を繰り返し、指の間からすり抜けるように脱出していた。
そして現在、リアは巨大な手の甲の上に乗っている。
ラミリステラの巨大な手がゆっくりと上がっていき、高さ五十メートルほどで静止まった。落ちたら重傷は免れない場所に立っているのだが、リアに焦った様子はない。そして巨大な手が徐々に小さくなっていき、ラミリステラの顔が大きくなっていく。
リアの足場が小さくなり、上空五十メートルから落下した。
「死にますれば死にやがれますのですが? 死にますか?」
「君は随分とお喋りが好きなようだね。私もだよ」
ゴシック服のスカートを激しく翻しながら着地点にエクスプロージョンの点滅する銃弾を撃ち込んだ。そして落下速度と爆発による爆風や風向きを計算しながら、タイミングよくマガジンリリースボタンを押す。
大爆発と同時に爆風がリアの落下速度を緩めて、クルクルと回転しながら地面に着地を決めた。
「なぜ、死にやがられませんか? 死にますか?」
巨大化した顔が『驚愕』から『疑問』に切り替わる。日本語を覚えたてなのか、文脈がハッキリとしておらず、とても聞き取りづらい。
「君が本気を出していないからじゃないのかね?」
「なる。死にますか?」
表情が『疑問』から『納得』に切り替わった。
「遠慮するのだよ」
ラミリステラの顔が小さくなり『両手』が形成された。先程は片手しか形成されていなかった為、両手は片手の時と比べてサイズが小さいようだ。ちょうど半分ぐらいのサイズだろうか。
「厄介だね……ラミリステラ」
ラミリステラの右手が素早く振り下ろされた。それを視認しながら真横にエクスプロージョンを撃ち込んで爆風と共に斜めに飛び上がり、指の隙間をすり抜ける。そして地面に銃弾を撃ち込むと同時に爆風で空中へと飛び上がった。
しかしそこでリアは目を見開く。
「なっ!?」
ラミリステラの左手が飛び上がった瞬間に目の前に現れたからだ。左手のフルスイングがリアにぶつかり、重力に押しつぶされる感覚と共に砲弾のように吹き飛ばされた。
「うっ!? っく!!」
木々が生い茂っている森の奥へと突っ込んでいくリアは、視線を激しく動かしながら自分の射線上に生えた木の幹をエクスプロージョンの爆発で折った。そして斜めにゆっくりと倒れていく木にぶつかる。
そのままテコの原理を利用して斜面を転がり上がるように上空へと吹き飛ばされるが、木との正面衝突だけは避けた。即死もあり得た状況で最善の手を選び出し、行動に移すその神経は『神業』と言っていいレベルだ。
ベッドで寝るような体勢を取りながら夜空を飛んでいるリアは、着地点から少し離れた場所にシンヤがいることに気付き、ゴシック服のスカートを動かしながら着地点をシンヤの真上に合わせていく。
「シンヤ~!! 頼んだのだよ!」
「え? ――はぁぁぁああああ!?」
シンヤが上空を見上げると――美少女が空から降って来た。
なにがどうなってこんな状況が生まれるのか分からず、慌てて両手を正面に突き出した。そしてリアを受け止めようと蟹のように右往左往し始める。
美少女が空から降ってくる。……そんな男の夢をこんな形で体現するとかあり得ないだろ? ていうか、なんでリアが空から降ってくるんだよ!? なにがどうなっちゃったわけ!?
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