◇
──ようやく、退院か。
病院の白い天井を見上げながら、進也(=さやか)はゆっくりと息を吐いた。
長いようで短かった数日間。
バンドメンバーが見舞いに来てくれたり、父親と久々に過ごしたり。
だが、そのどれもが"他人の人生"のように感じた。
"さやか"として過ごすことに、違和感は拭えないままだった。
病室の扉がノックされる。
「さやか、迎えに来たぞ」
父親の声だった。
進也は、ゆっくりと体を起こし、病室を出た。
病院を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
車に乗り込み、父親の運転で自宅へ向かう。
車内には、気まずい沈黙が流れていた。
──自分の家じゃないのに、「帰る」という感覚があるのが妙だった。
「……来週から、学校に戻れるそうだ」
不意に、父親が口を開く。
「無理に行かなくてもいい。体調が悪いなら、もう少し休んでもいいんだぞ」
進也は、驚いた。
──"学校"。
考えてもいなかった。
(……俺が、さやかとして学校に行く?)
当然の話だった。
さやかは高校生だ。
元の生活に戻るのは当然の流れ。
──だが、本当に"戻れる"のか?
俺は、"さやか"として振る舞えるのか?
「……考えておく」
進也は、それだけ答えた。
だが、その前に──
「ちょっと、行きたいところがある」
「ん?」
「……病院に戻りたい」
父親の表情が一瞬曇る。
「……進也君のところか?」
進也は、ゆっくりと頷いた。
再び病院へ戻り、ナースステーションで"杉浦進也"の病室を尋ねる。
医者の話では、進也の状態は"植物状態"。
意識はなく、いつ回復するかはわからない。
──俺は、ここにいるのに。
ナースに案内され、病室の前に立つ。
静かにドアを開けると、そこには──
"俺の家族"がいた。
病室には、母、父、姉がいた。
母はベッドの横に座り、進也(="進也の体")の手を握っていた。
父は無言で壁にもたれ、深く俯いている。
姉は、窓の外を見つめながら、静かに涙をこぼしていた。
進也(=さやか)は、思わず息を呑んだ。
──こんな顔、見たことがない。
「……お母さん……?」
姉が、小さな声で呟いた。
「……進也……本当に……目を覚まさないのかな……?」
「……大丈夫よ……きっと……」
母が、震える声で答える。
だが、その声には、確信はなかった。
進也は、胸が締め付けられた。
──目の前にいるのに。
──こんなに近くにいるのに、俺の声は届かない。
自分の体が、"ただの抜け殻"のように扱われているのが、耐えがたかった。
"自分"がここにいることを、叫びたかった。
でも──それを証明する手段がない。
進也は、手を握りしめた。
「……先生に、聞いたの」
母が、小さく呟いた。
「進也の意識が戻る可能性は……限りなく低い、って……」
涙が、ぽつりと零れる。
「……そんなの、嫌……」
父も、何も言わなかった。
姉も、言葉を失っていた。
進也(=さやか)は、ベッドの上の"自分の体"を見つめる。
呼吸器の音が、規則的に響く。
心電図の波形は、静かに鼓動を刻んでいる。
──俺は、ここにいる。
──でも、誰も気づいていない。
「……っ」
喉の奥が、苦しくなった。
(どうすればいい……?)
──俺の体は、まだ生きている。
──でも、"俺"が戻れる保証はない。
このまま、"さやか"として生きるしかないのか?
"俺"は、もう戻れないのか?
「……進也……」
母の声が、痛々しく響く。
進也(=さやか)は、その場に立ち尽くすしかなかった。
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