それは、とても懐かしく、愛おしく。 そして、遠い――過去の夢。
感じたのは、温かく、柔らかな温もり。
白い光と、穏やかな静寂。
「シヴィル。私の、かわいい娘。
貴女に、リドリス神の祝福と加護がありますよう」
そのひとの、顔を、声を、シヴィルはもう思い出せない。
先代の巫女であるシヴィルの母は、シヴィルを産んで間もなくこの世を去った。
そして、シヴィルの父は―― 誰もが、その名を口にすることを憚った。
一人残された幼いシヴィルは、リドリス神殿の中で、母の跡を継いで巫女となるべく、側仕えの神官たちによって育てられていた。
神殿の外を知らず、巫女としての務めを果たすことだけを求められた少女は、年上の神官たちに囲まれながらも、『敬われる対象』として距離を置かれ、孤独に育った。
ただ一人の例外は、神殿の図書室に本を求めて時折訪ねてくる、一人の青年だけ。
「兄様、いらっしゃいませ!」
そう呼びかけると、青年は穏やかに笑った。
青年の名はゼノヴィス・アルデウス・ウェルドナン。
皇帝の嫡男、第一皇子であった。
同じウェルドナンの血縁だが、巫女の一族であるアルフィナス家は傍系にあたる。
しかし、シヴィルから『兄様』と呼ばれることを、ゼノヴィスは喜んだ。
「兄様、今日もご本を読みに来られたのですか?」
「それもある。この神殿の文献はとても貴重で、興味深い。城からわざわざ足を運ぶ価値は充分にある。
だが、ここに来た一番の目的は、お前の顔を見るためなのだよ、シヴィル」
そう言って皇子は、実の兄のように、幼いシヴィルの頭をなでた。
「えへへ……
私も、兄様に会えて嬉しい」
「お前の無垢な笑顔を見ていると、私は皇族などに生まれついた己が身の不幸を、ひととき忘れられるのだ」
「兄様は、皇帝に、なりたくないのですか?」
「私は学者になりたいのだよ。皇帝などと……そんな器ではない。
……だが、周囲がそれを許してはくれぬのさ」
ゼノヴィスは哀しげに微笑んだ。
「いやなら、やめて逃げちゃえばいいのに!」
純真な少女の言葉に、皇子は瞳を閉じて、小さく笑った。
「そうだな。それができれば、どんなにか……」
そして自分を不思議そうに見つめるシヴィルに言った。
「だが、望む望まざるに関わらず――
その立場に生まれついた以上、人には、果たさなければならぬ責務というものもあるのだよ」
それは、まるで自分に言い聞かせるような言葉。
その様子に、少女は幼いながらも、自分の言葉が相手を傷つけたことを悟ったようだった。
「ごめんなさい……」
「いいんだ。お前のせいではないよ、シヴィル。
これは、私の覚悟の問題なのだ」
その言葉の意味するところも、幼い少女が理解するのは、まだ難しい。
シヴィルは、違う質問を投げかけた。
「兄様は、どうして学者になりたいのですか?」
その問いに、皇子は真剣な表情でしばらく考え込んでから、窓の外の景色に目をやって、
「私は、この世界の在りようを、知りたいのだ」
「……?」
「一人の人間が接し認識できる『世界』はあまりにも狭く、小さい。
私は知識を得、見聞を広めることで、この世界の――
アインファの、真の姿がどういうものなのかを理解したいのだ」
そう語るゼノヴィスの言葉には、自身の抱く夢と理想に対しての真摯な情熱と、それに手を延ばすことができないもどかしさへの、やるせない苛立ちの響きがあった。
「――そして、知識はより良い文化を生み、人々を幸福に導く力がある。
たとえば、一国の支配者が善政を行えば、その者が君臨している限り、己の国を、民を、富ませることはできるだろう。
だが、真に永代まで続く、万民の幸福を実現するには、皆が知識を共有し、皆が幸せになれる道を見出す努力が必要だと、私は思うのだ。
私は、そのためにこそ、力を尽くしたいのだよ」
「兄様は、とても難しいことをお考えなのですね」
幼い少女には、彼が口にする言葉の意味が、ほとんど解っていない様子だ。
皇子は苦笑いした。
「すまぬ、まだお前にはややこしい話だったな、シヴィル。
お前も私も、お互い、ウェルドナンの末裔などと、くだらぬ血に縛られたものよ」
そう語る皇子にとって、人々に讃えられる英雄の、そして皇族の血とは、まさしく呪いに他ならなかった。
「だが、父上――
皇帝陛下は、重篤な病に倒れられ、おそらくもう長くはあるまい。
私がこうして夢を語っていられる時間も、あとわずかであろうな」
そして深いため息をつくと、
「せめてシヴィル、お前には、己の望むように――」
ゼノヴィスが優しく語りかけるその言葉が、不意に遠くなった。
夢が、終わろうとしている。
そして、シヴィルが目覚めると、そこは――。
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