魔王と巫女の重奏譚(アンサンブル)

魔王と巫女、一つの身体を共有する二人が、英雄の築いた帝国に立ち向かう。
風祭史紀
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【4】あのひとの夢

公開日時: 2021年10月24日(日) 18:31
更新日時: 2021年10月24日(日) 19:03
文字数:1,873



 それは、とても懐かしく、愛おしく。 そして、遠い――過去の夢。


 感じたのは、温かく、柔らかな温もり。

 白い光と、穏やかな静寂。


「シヴィル。私の、かわいい娘。

 貴女に、リドリス神の祝福と加護がありますよう」


 そのひとの、顔を、声を、シヴィルはもう思い出せない。



 先代の巫女であるシヴィルの母は、シヴィルを産んで間もなくこの世を去った。


 そして、シヴィルの父は―― 誰もが、その名を口にすることを憚った。


 一人残された幼いシヴィルは、リドリス神殿の中で、母の跡を継いで巫女となるべく、側仕えの神官たちによって育てられていた。

 神殿の外を知らず、巫女としての務めを果たすことだけを求められた少女は、年上の神官たちに囲まれながらも、『敬われる対象』として距離を置かれ、孤独に育った。



 ただ一人の例外は、神殿の図書室に本を求めて時折訪ねてくる、一人の青年だけ。


「兄様、いらっしゃいませ!」

 そう呼びかけると、青年は穏やかに笑った。



 青年の名はゼノヴィス・アルデウス・ウェルドナン。

 皇帝の嫡男、第一皇子であった。


 同じウェルドナンの血縁だが、巫女の一族であるアルフィナス家は傍系にあたる。

 しかし、シヴィルから『兄様』と呼ばれることを、ゼノヴィスは喜んだ。


「兄様、今日もご本を読みに来られたのですか?」

「それもある。この神殿の文献はとても貴重で、興味深い。城からわざわざ足を運ぶ価値は充分にある。

 だが、ここに来た一番の目的は、お前の顔を見るためなのだよ、シヴィル」

 そう言って皇子は、実の兄のように、幼いシヴィルの頭をなでた。

「えへへ……

 私も、兄様に会えて嬉しい」



「お前の無垢な笑顔を見ていると、私は皇族などに生まれついた己が身の不幸を、ひととき忘れられるのだ」

「兄様は、皇帝に、なりたくないのですか?」

「私は学者になりたいのだよ。皇帝などと……そんな器ではない。

 ……だが、周囲がそれを許してはくれぬのさ」

 ゼノヴィスは哀しげに微笑んだ。

「いやなら、やめて逃げちゃえばいいのに!」



 純真な少女の言葉に、皇子は瞳を閉じて、小さく笑った。

「そうだな。それができれば、どんなにか……」

 そして自分を不思議そうに見つめるシヴィルに言った。

「だが、望む望まざるに関わらず――

 その立場に生まれついた以上、人には、果たさなければならぬ責務というものもあるのだよ」

 それは、まるで自分に言い聞かせるような言葉。


 その様子に、少女は幼いながらも、自分の言葉が相手を傷つけたことを悟ったようだった。

「ごめんなさい……」

「いいんだ。お前のせいではないよ、シヴィル。

 これは、私の覚悟の問題なのだ」

 その言葉の意味するところも、幼い少女が理解するのは、まだ難しい。


 シヴィルは、違う質問を投げかけた。

「兄様は、どうして学者になりたいのですか?」

 その問いに、皇子は真剣な表情でしばらく考え込んでから、窓の外の景色に目をやって、




「私は、この世界の在りようを、知りたいのだ」

「……?」

「一人の人間が接し認識できる『世界』はあまりにも狭く、小さい。

 私は知識を得、見聞を広めることで、この世界の――

 アインファの、真の姿がどういうものなのかを理解したいのだ」


 そう語るゼノヴィスの言葉には、自身の抱く夢と理想に対しての真摯な情熱と、それに手を延ばすことができないもどかしさへの、やるせない苛立ちの響きがあった。


「――そして、知識はより良い文化を生み、人々を幸福に導く力がある。

 たとえば、一国の支配者が善政を行えば、その者が君臨している限り、己の国を、民を、富ませることはできるだろう。

 だが、真に永代まで続く、万民の幸福を実現するには、皆が知識を共有し、皆が幸せになれる道を見出す努力が必要だと、私は思うのだ。

 私は、そのためにこそ、力を尽くしたいのだよ」



「兄様は、とても難しいことをお考えなのですね」

 幼い少女には、彼が口にする言葉の意味が、ほとんど解っていない様子だ。

 皇子は苦笑いした。

「すまぬ、まだお前にはややこしい話だったな、シヴィル。

 お前も私も、お互い、ウェルドナンの末裔などと、くだらぬ血に縛られたものよ」

 そう語る皇子にとって、人々に讃えられる英雄の、そして皇族の血とは、まさしく呪いに他ならなかった。



「だが、父上――

 皇帝陛下は、重篤な病に倒れられ、おそらくもう長くはあるまい。

 私がこうして夢を語っていられる時間も、あとわずかであろうな」


 そして深いため息をつくと、

「せめてシヴィル、お前には、己の望むように――」


 ゼノヴィスが優しく語りかけるその言葉が、不意に遠くなった。


 夢が、終わろうとしている。


 そして、シヴィルが目覚めると、そこは――。

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