「いやー,楽しかった。飲んでもないのにあんなに楽しい居酒屋は初めてだね」
「笑い事じゃないよ。今度こそ運命の人だと思ったのに・・・・・・。はあ,終わっちゃった私の冬の恋」
「なによ別にそうしょげてもないくせに。まあ,振出しに戻るってやつだね。クラブにでも行く?」
「いいね,でもまずは腹ごしらえだよ。どこか適当な店に入ろう」
「よし,じゃあ景気づけに焼肉だな」
夏妃はこの人生で起こる全てのことがさも愉快なことでもあるかのように楽しんでいた。私は彼女の天真爛漫で自由奔放な生き方に幾度となく救われ,考え方にゆとりが持てるようになった。きっと,人生とはそう肩ひじ張って力いっぱい生きるものじゃなくて,行き当たりばったりの旅のようなものだ。全てのことは予測不可能。信頼を置いていた人に裏切られることがあれば,知らず知らずのうちに相手を深く傷つけることもある。そうやって私たちは,人を傷つけ,傷つけられ,強く生きていく。
「私さ,ほんと夏妃には感謝しているんだ。前の旦那と離婚したときなんか,もう生きていてもろくでもないなんて思っていたからね。もちろん自殺とかそんな大仰なことは考えていなかったよ。でも,男なんかくそくらえ,ずっと一人で生きていくだなんてかっこつけてつまらない生き方をするところだった」
白い息を吐きながら,夏妃は目をぱちくりさせながら私の目を見ている。その目には吸い込まれそうな力がある。ふとその目が細くなり,目尻にしわが寄った。
「よし,姉妹。じゃあ私がこれから何を言っても怒らない?」
「今さら何を言って怒らそうっていうの。しばらくは何にも起こる気力なんてないし,これ以上どんなカオスな状況があるっていうの? 今日ほどのことはもうないわ」
夏妃の顔を見ながら悲劇のヒロインを気取って語っていると,彼女の口元が徐々に緩んできた。
まずい,そう直感が訴えている。夏妃の子の笑顔,不吉なことの予兆だ。いったい,私はこれからどうなるというのだ。これ以上の混沌とした世界がこの世に存在するのか。どうなる,私!
頭の中で煽るようなナレーションを止めることが出来ずに苦しみながら夏妃の方を見ると,とうとう彼女は口を開いた。
「あんたさ,あの男に抱かれたの?」
一瞬,誰のことを言っているのか考えたのち,トオルさん以外の男性が今この話題に上ることはないだろうと思った。それでも,念のため確認をしておく。
「あの男って,トオルさん・・・・・・,奈々子の彼氏のこと? 寝たよ。こういっちゃなんだけど,悪くはなかった」
今度は夏妃の顔から白い歯をいっぱいに光らせて笑った。
「じゃあ,私たちは三姉妹ってわけだ。トオル,なかなか丁寧にしてくれてメリハリもあったでしょ?」
「え・・・・・・?」
頭が真っ白になった。つまり,夏妃は・・・・・・
「分かったでしょ? 私,トオルさんと寝たことがあるの。あ,でも付き合っていたわけじゃなくて,ほんの出来心ってやつ。結構前の話だよ。あんたたちが付き合っていると知ったずいぶん前」
「なにそれ信じらんない。じゃあ,あの居酒屋って」
「トオルにとっては全員顔なじみの相手が来たってわけさ。一言もしゃべらなかったでしょ? まさに地獄絵図だっただろうね」
「夏妃は全く顔に出なかったね」
「顔を見た瞬間に思い出したよ。でも,言わぬが花ってやつもあるよなって思ったわけ。笑えたのが,奈々子がトオルを彼氏として紹介したときだよね。あれにはおったまげた。他の穂とこのどっちかが奈々子の彼氏だと思っていたから」
なんということだ。名前も聞かなかった男二人以外はみんな知り合いだった。しかもその関係は複雑に絡み合って,お互いが縛られ合っている。ほどこうにもほどけない。しかもトオルさんはわがままなことに,最後の最後で一番気に入った糸を一本だけ力づくにでも手繰り寄せようとした。でも,その糸はむなしくも切れていしまい,訳の分からない糸くずたちが自分を縛り付けている。
あの後どうなったのだろう。奈々子は私たちとほとんど同時に店を出たけど,「今日はごめん,帰らせて」と言ったきり走って駅の方向とは別のどこかへ行ってしまった。もちろん,私には彼女を止める権利なんてないし,かりに私たちと一緒にいたところで傷の舐め愛にすらならない。かける言葉の全てが傷口に塩を塗り合う行為となっただろう。だから,彼女は去っていったし,私も夏妃も止めなかった。でも,心配していることには変わらない。あれは,本気で相手のことを信用して本気で恋をしているときの顔だったから。
「あんまり考えすぎなくてもいいんじゃない? ああ見えて,奈々子は図太いよ。きっと今頃,ナンパ待ちでうろうろしている。いや,狩りに行っているかも」
夏妃はゲラゲラ笑いながらバッグを大きく振り,人通りの多い街へと歩き出した。
この背中を見つめながら,私は安堵した。これからもいろいろあるんだろうけど,きっと大丈夫。私たちは,みんな幸せになれる。
そんな根拠のない自信が胸に広がっていた。
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