高槻さん,と小さくつぶやく。レシートに書かれた達筆な番号と名前。苗字が高槻であることを初めて知った。
何度も通話アプリを開いては,番号を打てずにホームボタンを押してしまう。気付けば日は沈み,木枯らしを観測したと言うお天気アナウンサーの言った通りこれから肌寒くなりそうだった。
こうしていても仕方がない。ひとつ息を吐いて,思い切って九桁の番号を押した。もうどうにでもなれ。
三回,呼び出しのコールが鳴った。四回目を数えた時,電話を取る音がした。
「もしもし・・・・・・」
名前も名乗らずに電話をかけると,数秒後にいつもより一オクターブ高い声が機械から胸に届いた。
「もしもし! もう,電話は来ないものと思っていましたよ! あれからお店にも来てくれないし,嫌な思いさせちゃったなあって毎日残念に思ってたんだから」
「それは・・・・・・,ごめんなさい。お礼も言えていなかったのに。タイミングを逃してずるずるしちゃって」
「でも,元気そうで良かった。今日はどう? お店をもうすぐ開けるんだけど,明日は休みでゆっくりできそうなんだ。もし今晩と良かったら飲みにおいでよ。明日,休みならピザ作りとかの話が出来たら楽しいね。まだ興味があればだけど・・・・・・」
言葉に詰まり,一瞬声が出てこなかった。
すぐに,今日行きます,と答えた。
時計を見ると針は十時ちょうどを指していた。晩ご飯を食べずに来たから腹ぺこだ。
いつもより早い時間に来たせいか,それとも金曜日だからか,いつも座っているカウンターには先着がおり,テーブルも二人がけの席は一つしか空いていなかった。感染症対策のため,テーブルはいつもの半分にしているみたいだが広い空間のテーブルに一人ぽつんと座るのも気が引けた。
「ご予約ありがとうございます。お席はあちらです」
レジにいたトオルさんがこちらに気付いてやってきたみたいだが,そのことに気付いていなかった私は驚いて肩が一瞬跳ね上がった。そして,さらにその言葉が自分に向けられているものだと言うことに気付くのに少し時間がかかった。
案内されるがままに行くと,出口から一番遠いカウンターの端っこに「ご予約席」というプレートが立てかけられてあった。そのプレートを手に取り,こちらへおかけください,と微笑むとカウンターの向こう側へと戻っていった。すれ違うときに
「ほんとは予約なんてできないんですけどね」
と舌を出した。
特別な待遇というのは人を高揚させる。調子に乗って,いつもので,と少しいい女を気取って注文した。
少ししてから目の前にギムレットと,燻製されたナッツと練り物が載ったプレートが差し出された。頭を下げてギムレットに口をつける。口の中でほどよい酸味と度数の高いアルコールが心地よく広がり,のどを通っていく。
この環境と上質で繊細な味付けの燻製、こだわり抜かれたカクテルが私をアルコールとは別の理由で酔わせる。
気持ちよさに浸っていると,距離を挟んで座った女性がトオルさんに声をかけた。大きな声ではなかったが,横目にトオルさんを見ていた私は敏感に反応した。女性が座っているその席は,いつも私が座るお気に入りの席でもあった。
「向こうのカウンターに座っている女性が飲んでいるものと同じものを頂けます?」
かしこまりました,と微笑むと,手早く液体を入れてシェイクした。
その女性はトオルさんの仕草をうっとりと見つめている。タイトなスカートから覗いている足はすらっとしているが,ただ細いだけではなく運動によって無駄なものをそぎ落としたような色っぽさがある。カウンターの椅子に足を組んで座っているから短めのスカートがいっそうまくり上げられたような形ではなるが,女性でも思わずちらっと目をやってしまうような妖艶さだ。丸首のニットを身に付けているが,素肌を一切出していないにも関わらず,胸の膨らみのせいで余計にいやらしい目で見てしまう。
この女はトオルさんに惚れている。そのことが私の嫉妬心をかき立てた。同時に,私はこの女よりも魅力的だろうか,自問した。人となりは分からないが,プロポーションは町を歩いていても間違いなく何人ものを男が振り向き,声をかけるだろう。
膨張色の白色のニットを着ていることすら憎めてくる。人知れず,ふつふつと私の中で何かが湧き上がった。
いつもなら燻製されたハムや卵,練り物をしっかりと堪能して口の中で香りを楽しみように食べるのに,今日は少し厚めのハムを乱暴に放り込むようにして口にし,乱暴に咀嚼した。そして,煽るようにしてギムレットを一息に飲み干した。
「トオルさん,もう一杯頂けるかしら」
少し大きめの声でおかわりをお願いした。「頂けるかしら」なんてらしくない言葉を使ってむずがゆい感じもしたが,眉間に力を込めてカウンターの女を見た。
綺麗な女だった。本格的な冬に突入しようというのに,小麦色の肌が健康的な印象を与えている。その肌はすらっとした体に見事にマッチしていた。筋の通った高い鼻と書き上げられた髪の毛,大きな瞳を彩るように形の綺麗な二重と濃いめに整えられた眉毛からは気の強さがあふれ出ている。
なによ,とすごみたかった。でも,宝塚の劇団員を想像させる美しさの前では,刃を突き立ててもこちらが刃こぼれしてしまうのが容易に想像できた。
トオルさんが微笑みながらギムレットを私の前に置いた。お礼を言って一口すする。ギムレットは,いつもより酸っぱかった。
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