夢を見ていました。
それは、とある幼い少女の夢。
優しい母がいて、頼もしい父がいて。
朗らかに、とても幸せそうに笑う、幼い少女。
温かな食事。家族揃っての朝ごはん。食卓に響く笑い声。そんな当たり前の幸せ。特別なんかじゃなくていい。普遍でいい。つまらなくていい。何処にでもある幸せな家庭。
だからこそ、これは夢なのです。
未練ですらない。後悔ですらない。ただただ、初めから存在していなかったというだけの、下らない幻想。ありもしない夢物語。
だというのに、どうして今なお、こうも心を焦げ付かせるのでしょうか。
わたしが、弱いから。
わたしが、悪いから。
わたしが、わたしだから。
果たして、この感情は情景か。
それとも、後悔か。
それ以外の何かなのか……。
ああ——そうか。
きっとこれは、わたしの『夢』ではなく、父と母が思い描いた夢(りそう)なのだ。
わたしが産まれたことによって、彼等から奪ってしまった未来(しあわせ)。
幼い少女は、決してわたしなどではなくて。
本来産まれてくるはずだった誰かで。
だからこそこれは、後悔ではなく懺悔なのです。
わたしが抱え続けなければならない——罪そのもの。
贖罪を求め、夢の荒野を彷徨い続ける哀れな仔羊。わたしは——どうすれば、彼等に償えるのでしょうか?
————。
「起きます」
宣言し、わたしは重い体を起こしました。
当方、あまり寝起きがよくありません。大抵の場合、嫌な夢を見るからです。結構な汗をかいてしまっていたようで、喉がからからでした。口の中がねばねばと気持ち悪いです。「うー」ゾンビのような唸りながら、寝袋から這い出ました。
ところで、寝袋って芋虫みたいじゃありません? もっというならサナギのようで、そこから出る様はまるで峨か蝶の羽化のよう。だとしたらわたしの髪が羽ですね。大抵寝癖で広がりますし。いや、本当に意味が分かりませんね……。寝起きで、思考がふらふらしていました。
辺りを見渡すと、ここは森の中でした。朝日が差し込む、ちょっと開けた場所。鳥のさえずり、揺れる枝葉、きらきらと輝く朝露。
目的の街へ向かう途中、近くに小川もあることから、一夜を明かすのに丁度いいと判断し、ライザと交代で見張りをした後——。
あれ、ライザは……?
首を振り、視界を巡らせど、影も形もありません。燃え尽きた焚き火の跡と、空の寝袋が残されていました。
……トイレでしょうか?
しかし、好都合ではありました。正直、いくら如何ともしがたいとはいえ、寝起きの顔を見られるのは女子 (23歳)としても、些か抵抗があるので。
わたしは、渇いた喉を潤すついでに顔を洗おうと、小川へ向かいました。
枯れ葉を踏み締め、木の根を越え、途中にきにきと地を這う節足動物をちょっとだけ観察し、辿り着いた先。ライザの姿が見えました。
どうやら、朝食を作ってくれているようで。
魔法で起こした火にくべた鍋から、美味しそうな湯気と良い匂いが立ち込めていました。
「おはようございます、ライザ」
「ああ、おはよう」
意外と彼はちゃんと挨拶を返してくれます。
顔を洗い、川の水を飲んで、ライザの向かいに腰を下ろしました。トイレはもう少し我慢です。
「朝食……作っていただいてるんですね。見張り明けに、わざわざすいません。起こして下されば、わたしが作りましたのに」
「いや——」
ライザが料理から視線を逸らすことなく、淡々と口を開きます。
「俺が作った方が、美味いからな……」
「うぐっ」
はっきり言いますね……。
わたしの名誉の為に言及しておきますが、わたしが下手なのではなく、ライザが上手すぎるのです。一緒に旅をするようになって分かったのですが、彼の料理は本当にプロ並みです。旅の途中で大した材料や調味料の無い中でさえも、まるで錬金術のように、一級品の仕上がりを常にキープ。サバイバル知識も豊富で、野営や食材の現地調達はお手の物。更に、彼の操る魔法は痒い所にまで手が届き、不便を是とする旅路においては非常に助かります。まさに一家に一台! 彼がいれば、快適な旅をお約束!
……わたし、役に立っていない……。
明日から、見張りの時間を増やすぐらいしか思い付かないわたしです。それとも、荷物を多めに持つか……いかんせん、体が小さいので持てる面積も狭いのです。力が無いわけではないのですが。
「コーヒー、淹れてきますね」
いや、まだわたしにやれることはあるはず。コーヒーだけは誰にも負けない自信があります。そう、ライザにさえも。
小川で汲んだ水を片手に設営地点に戻ると、わたしはお気に入りの道具達を並べました。
ペイルローブで購入した数種類の豆と、豆を砕く為のミル機、ステンレス製のメタルドリッパーとそれを設置するスタンド、サーバー、コップ、お湯を沸かすポット。
豆の挽き方は、中挽きを選択。苦味と酸味のバランスがよく、今回のように金属製のドリッパーを使う際にも向いています。
豆をブレンドし、二人分をミル機の中に入れ、ハンドルを回すとごりごりと気持ちのいい感触が手から伝わってきました。挽き方が均等になるように、力加減と回す速度に気をつけます。
挽き終わった豆を、ドリッパーの中に投入してスタンドにセット。並行して沸かしておいたお湯を最初に少しだけ注ぎ、二十秒ほど豆を蒸らします。凄まじくいい香りが漂ってきた所で、中心で小さく「の」の字を描くように、ゆっくりと再びお湯を注ぎます。様子を見ながら、幾度かに渡って注ぎ終える頃には、サーバーには素敵な黒の液体が満たされていました。
「良い匂いだな」
ちょうど良い頃合いに、料理鍋を片手にライザがやってきます。
「ご飯にしましょうか」
近くに手頃な切り株があったので、今日はこれをテーブルにすることにしました。こういうのも、旅のキャンプの醍醐味ではないでしょうか。
本日のメニューは、野菜スープとパン、卵焼き、コーヒー。ライザ専用の砂糖瓶を揃えて準備完了。
「いただきます」
「いただきます」
二人揃って手を合わせました。
野菜スープから手をつけると、これがまあ、激ウマなわけですよ。少し鮮度が落ちた野菜や食材があると、こうしてスープにするのが定番なのですが、にも関わらずどうしてこうも美味しいのでしょうか。レシピを教えて貰っただけでは、再現が困難そうです。
卵焼きも絶妙な焼き加減で、味も醤油をベースに砂糖を少々加えたシンプルながらも、家庭的な味わい。
「ふぅ、美味しいです」
思わず吐息が漏れる程の美味しさ。
しかし、優雅な食事もここまででした。
再び野菜スープを嗜んでいたわたしの手が、何かに気付き、鉄のように固まります。目の前の光景が信じられませんでした。視界が遠のき、声は失われ、やがて残酷な現実に打ちのめされたわたしの体が、小さく震え始めます。
視線の先には、とある野菜。
強いオレンジ色、独特な匂い、中途半端に甘い味。
悪魔の食べ物とでも揶揄すべきあんちくしょう。栄養満点と詠われながらにして、ピーマン、茄子と並び子供が一度は通る難攻不落の最難関。
そう——人参でした。
人参が、スープに潜伏していました。
わたしは、人参がとても苦手でした。
「ライザ……」
「駄目だ」
「まだ何も言っていない……」
「残さず、食べるんだ」
戦争を経験されたことのあるライザは、お残しに対して非常に厳しい意見を有しております。
しかし、ここがわたしの腕の見せ所、いや、舌の使い所です。軽やかで合理的な弁達を駆使し、見事にライザを説得してみせましょう。
「すいません、土下座しましょうか?」
考え得る限り、最短で最低の提案でした。
「そんな特殊な性癖は無い」
「ろ、ロリコンの癖に……」
「ロリコンだが?」
恥じる事は何も無いとばかりに、ライザは堂々とおっしゃいます。
「見逃していただけたら、ほっぺにちゅーをしてさしあげますよ?」
「人参にキスをするんだ」
「ろ、ロマンチック……?」
最早、退路は無いようです。
スプーンを持つ手が絶望に震えていました。敵う、わけがない……。心が折れていました。気力が絶たれていました。絶対に勝てない敵と相対した時、人はかくも脆くなるものなのです。
恐る恐る、オレンジ色の悪魔を口元に運びます。近くまで来ると、独特な匂いがより強く鼻腔に突き刺さり、胃からすっぱいものが込み上げてきました。
救いを求めて、ライザに視線を送ります。
無表情でこちらを見ていました。
水を大量に使って、ほとんど噛まずに飲み込みましたよ。ええ。
一戦を終えた後のコーヒーは、五臓六腑に染み渡る美味しさでした。
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