【Side:Elulu】
悪夢は見ませんでした。
もはや、現実こそが悪夢だったのです。
目を開けると、最初に視界に入ったのはライザの顔でした。整った顔立ち。青空を思わせる碧色の瞳。なんだか、随分と久しぶりに感じます。
「ライ——ザ——」
わたしが声を掛けると、隈(くま)の刻まれた彼の目が、僅かに未開かれました。そしてすぐに、安堵の色が浮かびます。
わたしは、自分の体を探りました。あれだけの傷が、跡形もなく治っています。まるで、最初から存在していなかったかのように。その治療がライザの魔法によるものだとは、師匠との修行時代からも、容易に想像が出来ました。
視線を周囲に向けます。どこかの宿。知らないベッド。窓の外からは、朝日が覗いていました。冴えるような青空。
わたしは軽く頭を振ります。
重い。頭が、熱を持っているようでした。煮えた泥でも詰まっているかのように、色々なものがドロドロと混じり合っています。
それでも、記憶だけはハッキリしていました。忘れたくとも、忘れられないこと。忘れてはいけないこと。胸を万力で締め付けられます。思い出すだけで、動悸が早くなっていくのを感じました。息苦しい。暑くはないのに、汗が止まらなくなります。
ライザが、こちらを見ていました。ともすれば見逃してしまいそうなほど微かな変化ですが、こちらを窺(うかが)う様子が見受けられました。
わたしは、慌てて笑みを浮かべます。
「え——と、大丈夫ですよ? ライザが助けてくれたんですね、ありがとうございます」
「ああ」
短く言うライザ。相変わらずその表情は朴訥(ぼくとつ)としているようで、眉間には深いシワが刻まれていました。
分かりやすいなあ、と。
わたしは、少しだけ安心するのです。
「ねぇねぇ、ライザさん」
ライザを手招きします。
言われた通り素直に近づいてくる彼の頬を、軽くつねりました。
「顔、不細工になってますよ?」
「いや、これはお前が——」
困惑するライザに向かって、わたしは言います。
「どうってこと、ないですよ?」
上手く笑えていたかは分かりませんが、精一杯の笑顔で。
これはわたしの問題です。彼に責任を感じさせたくはありませんでした。
そう——どうってことない。
わたしは、自分に言い聞かせます。
怖くない。わたしは平気。
ライザのおかげで、体は完治している。痛くない。動ける。
フィアリスちゃんを、助けに行かなければ。
同じ失敗は、出来ない。同じ轍を踏めない。
しっかりしなければ。
気を強く持たなければ。
わたしが、やらなければ、ならないのです。
自信のない決意に、不確かな鎧を纏い。
心をがちがちに着込んで。
わたしは前を向きました。
これで、大丈夫。戦える。
——はずでした。
「傷は治したが、体力は戻らないんだ。まだ大人しく寝ていろ」
ライザが言います。そして彼は、わたしを寝かせ、剥がれた布団をかけ直そうとしてくれたのでしょう。こちらに向かって、腕を伸ばしてきました。
途端に、フラッシュバックする光景。
ザルディオが、わたしに向かって手を伸ばしてきた——あの時の恐怖。
「ひっ——」
体が、意思に反してびくりと震えました。腕で顔を覆い、身を縮めます。逃げるように。逃げるように。逃げるように。
すぐにわたしは、自分がしてしまったことに気づき、はっとなります。
「あっ……ごっ、ごめんなさ……」
肩が小刻みに震えていました。己を必死に鼓舞し、コーティングしたメッキは、あっさりと剥がれ落ちます。目の前が真っ暗になるような錯覚を覚えました。何も見えない。手を伸ばしても、届かない。暗い暗い闇の中、わたしは必死に言葉を絞り出します。
「ち、違うんですよ! えっと、ちょっと、ライザの顔が、そう! 怖かっただけで! いきなりだから、びっくりしちゃって! それで!」
身振り手振り、なんとか取り繕おうと。
「あっ! そうだ! ライザがわたしを治して、看病してくれていたんですよね……! ありがとうございます! ライザ!」
わたしは、笑いました。
頑張って、笑いました。
簡単です。できるはずです。
口角を上げて、目尻を下げるだけ。
笑え。笑え。さあ、笑え。
エルトゥールル・ハウル、笑うのです。
「来てくれるって、信じてましたよ! でも、ちょっと、遅かったかなあ……なんて! 遅刻ですよ! ヒーローはもっと早く……来なきゃ、駄目じゃないですか!」
「ああ……」
ライザの顔に、なんとも言えない暗い影が落ちているのに、気が付きました。
ずきり、と。
胸の真ん中が痛みます。
彼に、そんな表情(かお)をして欲しくない。させたくない。
「じ、冗談ですよ! そんな顔しないでください! 嬉しかったですよ、来てくれて。助けてくれて。安心、しました。わたしは、大丈夫です。大丈夫ですから、そんな顔、しないで下さい」
うまく、言葉が出てきませんでした。
上手に笑えているかどうかすら、分かりませんでした。
これ以上は、失敗してしまう。何を口走ってしまうか分からない。
わたしは、慌てて提案します。
「あ、そうだ、ライザ。わたし、お腹が空きました。何か食べたいです。肉料理的な何かが!」
「…………分かった。作ってくる。少し待ってろ」
ライザは、しばらくわたしの顔をじっと覗き込んでいましたが、やがて椅子から立ち上がり、部屋を後にしていきました。
一人残されたわたし。
ライザの足音が遠ざかるのを確認して、わたしは膝を抱え、うずくまります。
静寂。
無音。
時間が、永遠のように感じます。
胸の中を、暗く怖く黒い何かが渦巻いていました。ぐるぐるぐるぐる。ぐるぐると。
わたしの中を喰い荒らしているのです。
どれだけ時間が経ったでしょうか。
「…………レーヴァ」
ベッドの脇に置かれていた相棒に向かって、わたしはぽつりと口を開きます。
「わたしは、どうすればいいのでしょうか……?」
心に、穴が空いています。
手のひらを見ます。わたしの手には、何もありませんでした。
『……おそらく、その言葉に答えるのは、ワシじゃあないのう』
「えっ——?」
それは、どういうことですか。
そう聞き返そうと顔を上げたのと、ライザが部屋に戻ってきたのは、ほとんど同時でした。
「ら、ライザ……」
「宿泊者用の宿のキッチンと冷蔵庫が思った以上に簡素でな。大した材料も無かったし、こんなものしか作れなかったが」
ライザが、手に持ったおぼんを、わたしに手渡してきます。「ありがとうございます」それを膝の上に乗せ、わたしはフォークを取りました。
簡単な野菜炒めとスープです。
しかし、ライザが作ればそれらは逸品ものに早変わりのはずでした。
…………。
味が、しませんでした。
いえ、正確には味はするのです。
おそらく飛び抜けて美味しいことも、分かってさいるのです。
なのに、何も感じない。
いくら口にいれても、いくら噛んでも、何も思えない。
何故?
そんなの、決まっています。
「うっ……うぅぅぅぅ……」
食べながら、視界がぼやけてきました。
咀嚼するごとに、目尻から何かが溢れ落ちます。
どうしても、怖いのです。
あの時の恐怖が、忘れられないのです。
自分の内臓(なか)を、人の手が這い回る感触。臓腑を、掻き回される感覚。
最早、痛みなどという言葉では到底言い表せないような悪夢の如き体験。
どれだけ泣き叫んでも。
喉が潰れるほど叫んでも。
決して中断されることの無い暴力。
血と涙に滲む視界に映る、あの男の気持ちの悪い笑み。
網膜に、焼き付き。
心を灼(や)き尽くす。
圧倒的な、恐怖。
潜在的な、恐怖。
原始的な、恐怖。
恐怖恐怖恐怖。
全く敵わなかったという絶望感と無力感が、それをより激しく助長し、わたしの体に重い呪縛を巻きつけていました。
フォークを持つ手が、震えています。
食べ終えるまでの間、ライザは何も言いませんでした。
怒るのでも、慰めるのでもなく、ただ黙ってわたしの傍にいてくれます。
それが、優しさ以外の何ものでもないと、わたしはよく分かっています。
それなのに。
「どうして……」
ああ、それなのに。
「どうして、もっと早く来て……くれなかったんですかぁ……」
なんということを、口走ってしまったのでしょう。
「何度も何度も……心の中で! 助けてって! 言ったのに! 来て、くれなかったじゃないですか!」
わたしは、何を言っているのでしょうか。
何故、ライザを責めているのでしょうか。
どうして、彼に怒りをぶつけているのでしょうか。
八つ当たりでしかありませんでした。
恥知らずもいいところ。
本当は、誰に腹が立つのか、分かりきっているのに。
情緒が定まらず、頭の中がぐちゃぐちゃでした。
ライザは、変わらずの無表情でわたしを見ています。悲しんでいるようでした。そして、怒っているようでした。誰に対して? わたしに……?
「あっ……う……」
わたしは、言葉に詰まりました。
嫌だ——。
訳もわからず、謝ります。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんな……さい……」
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
フィアリスちゃんを、救えなかった。
きっと、彼女はわたしを恨んでいるでしょう。
弱いわたしを、見限(みかぎ)っているでしょう。
何も出来なかったわたしに、呆れているでしょう。
わたしはもう、何も手離したくはない。
誰からも見放されたくは、ない。
「み、見捨てないで……わたし、ちゃんとしますから」
それは、心の奥底に蓋をして、厳重にしまっていたはずの気持ち。
考えないように、思い出さないように、無かったことにしたかった、記憶。
「わたしを、一人にしないで」
ついに、言葉にしてしまった。
口に出してしまえば、どんな強がりも無駄になってしまうのに。
「——エルル」
やがて、ライザが静かに、わたしの名前を呼びます。
びくっ、と。
わたしは肩を震わせました。
「俺は今——自分が、許せない」
ライザは、わたしの目を見て、真っ直ぐに言いました。
「大切な人を、護れなかった。エルルがこんなにも傷付いているのに、かける言葉の一つも思いつきやしない。そんな俺が、許せない」
ライザが視線を伏せます。
「すまなかった。肝心な時に、近くにいてやれなくて」
「ち、ちがっ——わたしは——!」
ライザが、謝ることじゃない。
ライザに、謝らせたいわけじゃないのに。
わたしが、本当に許せないのは——自分自身。フィアリスちゃんを護れなかったわたし。恐怖に負けて、下を向くだけのわたし。立ち上がれず、うずくまるだけのわたし。
「わたしは……ただ……」
気がつくと、わたしはライザに全てを話していました。言い訳をするかのように、ぽつりぽつりと。
別れてからのこと。
囚われたこと。
そして、一人の少女と出会ったこと。
共に教団から脱出し、星空の下、誓ったこと。
そして、アイゼンドッグに完敗し。
ザルディオに、いいように弄(もてあそ)ばれ。
叩きのめされ、心を折られ、恐怖を骨の髄まで刻み込まれたこと。
「わたし……どうすればいいか、分からないんです。今すぐにでも、フィアリスちゃんを助けにいかなければならないのに。体が、動かない。あいつらが、怖くて怖くて仕方がない……目の前が、真っ暗なんです」
わたしの告白を、弱音を、ライザは優しく聞いてくれました。
やがて、彼はゆっくりと口を開きます。
「……俺は、そのザルディオって奴を、ぶん殴りにいく。エルルを——傷付けたそいつを、絶対に許さん。ケジメをつけさせる。それが、俺のしたいこと、そして前に進む為に、必要なことだ」
「前に——進む為に」
ライザの言葉を、反芻(はんすう)します。
「エルルは、どうしたいんだ? 出来るかどうか、じゃない。何を——したいかだ」
「わたしは……」
約束を、しました。
とある少女と、指切りをしました。
辛い時は必ず助けに行くと、誓いました。
どうすればいいのか。
きっと、その問いに答えてくれるのは、レーヴァでもライザでもなく——わたししかいないのです。
「フィアリスちゃんを、助けに行きたい」
「だったら、助けに行けばいい」
ライザは、真っ直ぐに言います。
「こんな、わたしでも……?」
「俺がいる。俺が、お前の手足になる。恐怖で立ち上がれないのなら、肩を貸す。トラウマで踏み出せないのなら、手を引く。震えで剣が握れないのなら、俺がお前の剣になる。お前が、自分を信じられないのなら、俺が信じてやる」
ふと、心に、小さくも温かな種火が生まれたのを感じました。
ライザの力強い言葉が、体全身を駆け巡ります。
「お前の大切な友達なんだろう。だったら、助けに行けばいい。会いに行けばいい。簡単だ。そうだろう?」
「でも……もしかして、フィアリスちゃんはそれを望んでいないのかもしれません。今更、もう遅いと、わたしは彼女に否定されるのが——拒絶されるのが、怖い」
ともすれば、どんな暴力よりも、それは恐ろしい事実。
本質は——そこなのかもしれませんでした。
今一歩、わたしが踏み出せない理由。
前を向けない原因。
わたしにとって、フィアリスちゃんは、妹の存在であり、紛れもなく友達でした。
けれど、彼女にとってのわたしは——?
わたしは、フィアリスちゃんのように、人の心を読めるわけではありません。
わたしのことを、フィアリスちゃんはどう思っているのでしょうか。
よく思われたかった。好きでいて欲しかった。
だからわたしは、彼女の前では強くあろうとした。頼りになる存在であろうとした。
それなのに、全部無駄だった。虚栄であり、虚勢でしかなかったのです。
わたしは弱い。
何も出来ませんでした。
昨夜、フィアリスちゃんの口から確かに聞いたはずの言葉。
憶えているはずなのに、思い出せない。
まるで霞がかったかのように。
「彼女はきっと、わたしに呆れていると思います。何も出来なかったわたしを、恨んでいると思います」
「——俺は、そのフィアリスという少女のことを知らない。俺に言えることは何もないが——少なくとも、その子の気持ちは、お前が決めることじゃないんじゃないか?」
「それ、は——」
「いつだって、どんなときだって、自分の意思を決めるのは自分だけだ」
ライザはそう言うと、懐から一つの紙切れを取り出しました。
「——さっき、飯を作りに行ったときに、不本意ながら古い知り合いに会ってな。その時に、手紙を預かった。エルルへ渡してくれと、教団の教祖と呼ばれる少女に頼まれたらしい」
わたしは、それを受け取ります。
誰からのものなのかは、聞くまでもありませんでした。
ヨレヨレになった、手紙。それが涙によるものだと分かったのは、文字が滲んでいたから。
読みます。
『エルルへ。まずは、私のせいで貴女を傷付けてしまったことを謝りたい。ごめんなさい。謝っても許して貰えることではないかもしれないけど、せめて、もうこれ以上はエルルには手を出させないように、ザルディオに約束させた。私が一生、教団の為に働くという条件で。大丈夫、心配しないで。エルルと出会う前に戻るだけだから、今までと何も変わらない。今度は、私がエルルを護る番だよ。エルルは私のことを忘れて、旅を続けて欲しい。私が言えたことではないけれども、どうか、健やかに。エルルと出会えて、本当によかった。ありがとう。大好きだよ、エルル。私の、初めての友達』
わたしは、手紙を閉じました。
大きく深呼吸。
拳を強く握り、開く。それを何度か繰り返し、わたしは顔を上げます
視界が、とてもクリアでした。
頭が清々と冴えています。
体が、あまりにも軽い。
今まで自分を拘束していた存在が、ひどく矮小で貧弱な檻のように思えました。
確かな熱量を持った何かが、胸の中から込み上げてきます。
火がついていました。
どこに?
たぶん、心に。
「ライザ」
わたしは、自分の胸に手を当てます。
わたしがしなければならないことは、とうの昔に決まっていたのでした。
「フィアリスちゃんを、助けに行きます。力を、貸して下さい」
「ああ、当然だ」
フィアリスちゃん。
物心ついた頃から、いや——産まれた時からずっと墓穴のような地下へと閉じ込められて。
実の親に、都合のいいように利用され続けて。
ずっと、人の心の汚いところを。
ずっと、世界の汚れた部分を。
見てきた。
人の心を感じ取る、不思議な力を持った少女。
けれど。
本当は。
年相応の、ただの女の子でしかなくて。
わたしの——友達でした。
師匠とも、仲間とも、相棒ともまた違う。
友達、だったのです。
「ライザ。わたしはたぶん、無茶をします。無理をします。隣で、助けてくれますか?」
「もちろんだ」
体と心に刻み込まれた恐怖というのは、実に厄介なもので。
いくら口で奮起しようと、
そう簡単に乗り越えることも、
そう易々と克服することも、
難しいものです。
しかし、ライザが隣にいてくれる。こんなわたしを、信じてくれている。それだけで、不思議と少しだけ、頑張れるような気がしました。
問題は山積み。相手の戦力は未知数。勝ち筋はあまりに不確実。
それがどうしました。
真っ直ぐに前へ。愚直に未来へ。
進む。フィアリスちゃんを助ける。それだけです。
実にシンプル。真(しん)に単純明快。
さあ、行きましょう。
胸に灯火(ともしび)を抱いて。
決意の花束を手土産に。
いざ、かけがえのない、友の元へ。
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