「うっぷ……」
乙女としては是非とも阻止したい衝動を抑えながら、二人分の食べ終わった食器と調理器具を持って小川へと向かいます。後片付けは、調理をしなかった方の担当。
ついでに朝の日課である、軽いストレッチと運動を済ませ、食器類を洗い終わって戻ると、ライザが小さなお客様と対峙しておりました。
切り株の上には、つぶらな目に尻尾がふさふさとした、前歯のたくましい齧歯類らしき小動物が。二本足で立ちながら巨人たるライザをじっと見上げていました。
なんとまあ、可愛らしい。愛しさが込み上げてきます。愛くるしさの権化のような存在でした。
「ライザ。どうしたんですか、その子?」
わたしが傍に来ても逃げる様子がありません。野生動物の割には、極端に警戒心が薄い子のようです。
「さあ。コーヒーを飲んでいたら近付いてきてな。全く逃げないし、何がしたいのか、さっぱり分からん……」
相変わらずの朴訥(ぼくとつ)とした表情で、ライザが小さく溜め息を吐(つ)きます。
取って食べられても困るので、助け舟を出すことにしました。わたしは、じっと小動物を観察します。
「どうやら、お腹が空いているみたいですよ」
「分かるのか?」
「何となくですが」
師匠がいなくなって何年かは、人里離れた森の近くに一人で暮していましたので、野生動物とは懇意の間柄でした。小さい頃は、野良猫や野良犬の先輩方と一緒に、餌場(ゴミ捨て場)を回っていたりもしました。根拠が無いので、確実性を問われると困ってしまうのですが、大抵の動物の意図を、わたしは汲み取る事が出来ます。
「俺っちの愛くるしい姿を思う存分愛でさせてやるから、何か餌を寄越せと言ってます」
「そ、そんな俗物的な要求をされているのか……?」
彼等は言葉を持つわけではないので、こちらの方で意訳をする必要があるのですが、概ね合っているはずです。
小動物は、肯(うなず)くように「ちちち」と鳴くと、切り株の上でぴょんぴょんと飛び跳ねます。かなり感情表現が豊かな方でした。
「ええと……。俺っちは、群れることを嫌い、仲間を捨て、故郷を捨て、気の赴くままに世界を放浪している、一匹狼の風来坊さ。野生動物への餌付けの是非がどうとか、そんなみみっちいことは気にしなくてもいいんだぜ。流浪の旅人同士、ギブアンドテイクといこうじゃないか。……とおっしゃっています」
「本当に言っているのか……? こいつが? そんなことを……?」
「まあ、ニュアンス的には合っていると思います」
異国語の本も、翻訳する人間によって表情を多様に変化させますしね。大元の意味から、大きく逸脱してさえいなければいいのです。
「それで、どうするんです? 流石に人間の食べ物はあげられませんが、余っている野菜と、昨日拾った木の実ぐらいなら与えても大丈夫だとは思いますが」
「何故、俺に聞く? お前がやればいいだろう」
「そうしたいのは山々なのですが……」
ぶるり、とわたしは体を震わせます。尿意が押し寄せてきていました。先程、人参めの野郎を処理する為に、大量に摂取した水。食後のコーヒー。昨晩の晩酌。もう、限界が近付いています。
「ちょっと、お花を摘みに行ってきますよ」
「ああ、トイレか。虫に噛まれないよう、気を付けろ」
「デリカシーって言葉知ってますか?」
たぶん、純粋に気を遣ってくれているんでしょうけど。それでも残念ながら世の中には、余計なお世話という言葉が存在します。
わたしは用を足す為に、その場を離れました。良さそうな場所を歩いて探しながら、考え事をしていると。
『よ』
鈴を転がすような少女の声が、頭の中に響きました。
「レーヴァ」
懐から、相棒を取り出します。
銀色の石が、手の平の上で瞬(またた)いていました。
「おはようございます。朝から起きているのは、珍しいですね?」
『まあの。主様のテンションに引っ張られておる』
思考領域にて繋がるわたし達の間では、ある程度の感情の波が共有されます。
「別にいつも通りだと思いますが……」
『少なくとも、死者が間違って目覚めたかのような、いつもの鬱屈とした朝よりかはマシじゃろうて。あの男と同行するようになったここ数日は、良い傾向じゃ』
「はあ、なるほど」
実感が無いので、どうしても生返事になってしまいます。
『それはそうと——』
ふいに、頭の中に聞こえてくるレーヴァの声音が、真剣味を帯びました。いつもはどこか飄々(ひょうひょう)とした彼女にしては珍しい、あまりにも真面目な雰囲気。表情こそ見えないものの、その真っ直ぐな眼差しが伝わってくるようでした。
ごくり、と唾を飲み込みます。前置きは終わり、ここからが本題だと言わんばかりの変化に、わたしは心の底から身構えました。
日常を根本から揺るがしかねない新事実が今、明かされようと——
『草むらでしょんべんをする時は、虫に噛まれんよう注意するんじゃぞ』
「揃いも揃ってあなた達は、わたしを何だと思ってるんですか⁉︎」
仮にも美少女 (23歳)に向かって、何てことを言うのですか。
『ああ、大の方じゃっ——』
強制的にレーヴァとの接続を切りました。とんでもないことを口走りやがりましたので。安易な下ネタは許されないのです。
彼女は何の為に出てきたのでしょうか……。
そんなことを疑問に思いながら、いい感じの所でいい感じに用事を済ませ、意気揚々とわたしは帰路に着きました。
あの可愛い小動物はどうなったのでしょうか。
ライザと仲良くしているといいのですが……。
そう思いながら、キャンプ地に戻ってきたわたしはとんでもないものを目撃してしまいました。
思わず声が出そうになるのを、すんでの所で抑えました。気配を消して隠れます。震える手でポケットから端末を取り出しました。小型ながらも、この端末には写真をデータとして保存しておける機能が備わっています。
は、早くこの光景を撮らねば。わたしには、使命がありました。
恐る恐る、端末のカメラを彼へと向け——
「…………」
やめちゃいました。
画面越しに見た、彼の『表情』。初めて見た彼の一部。わたしの知らない彼の一面。機械などではなく、これからもっとたくさん、これからもずっと、わたしの胸にしまっておこうと、そう思ったのです。
今回は、見ず知らずの可愛い小動物に先を越されてしまいましたが、今度はわたしが彼の新たな一面を発掘してみせましょう。
わたしは、微笑みました。
何だか嬉しかったのです。
仲間がいる。一人じゃない。
わたしはきっと、独りでも生きていける人間です。
母親が死んで、父に恨まれ、一人になって。師匠に拾われ、一人で生きていく為の知恵と力を授けられ、感謝する反面、何だかとても悲しかったのを覚えています。いつかまた、独りになることを告げられていたようで。そしてその微かな不安は現実となり——再びわたしは一人になりました。
強くなりたかった。強くならなければいけなかった。
一人で生きて行く為に。独りでも生きていけるように。
ある意味で、わたしは強くなれた。
それは文字通り、ある意味でしかないのですが。
けれど、本当は。
ホントは。ほんとは。
寂しくない、わけじゃなかった——。
だからわたしは、この光景を、この時間を、この今を、大切にしたいのです。
もう二度と、手放さないように。ガラスのような祈りに、すがりつく——。
——と、まあ、些か感傷にひたってはみましたが、そろそろライザの所に顔を出そうと思います。
今の所は、そこがわたしの戻る場所だと把握しておりますが故に。
わざとらしく、音を立て。騒々しく、あたかも今来たかのように。本人のプライバシーもあるので、わたしが見た彼の表情には言及しないでおいてあげましょう。出来る女の気遣いです。ふふ、感謝して下さいね。
後日談。
覗き見ていたことがバレて、しばらく、毎食人参を使った何かしらの一品が食卓に並ぶようになりました。
皆さん、憶えておきましょう。
食事を支配されるということは、生殺与奪の権を握れるに等しいということを。
それでは。
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