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夢を見ました。
いつもの夢です。
始まりは、些細なこと。
あまりにお腹を空かせた幼いわたしが、父の酒のつまみに手を出し、いつものように殴られるところからスタートします。
幼い少女から見た、大人の男性の手というのは、それはもう岩のように大きく恐ろしいもので。
それが容赦なく、振り下ろされるのです。
痛かった。怖かった。全てが恐ろしかった。
わたしには、父親が、怪物のように見えていました。
逃げようと背を向けるわたし。
父は、近くに落ちていた空の酒瓶を拾い上げると、わたしの後頭部を殴打しました。
鋭い痛みが走り、ガラスが砕けて頬を裂きます。前のめりに倒れました。生暖かい液体が、後頭部からどろりと垂れてきます。それが何かと認識する暇もなく、髪を掴まれ、無理矢理起こされます。次は、顔を殴られました。破裂音。鼓膜が破れ、骨が軋み、顔が歪んだような衝撃と共に、わたしは再び床に叩きつけられました。
口の中が切れ、血を吐き出します。視界が朦朧としていました。脳の揺れに意識が落ち掛け、それでもあまりの痛さにわたしはただただ床を転げ回ります。
それが気に障ったのか、父親が大木のような足を上げ、わたしの腕目掛けて思いっきり踏み下ろすのです。
激痛。自分の喉から出たとは思えない、地獄の亡者のような嗚咽を漏らしながら、わたしは踏まれた腕を押さえる為に、体を横に向けようとしました。
しかし、そこに待ち受けていたのは、未曾有の衝撃。
お腹を、蹴られました。
爪先が胃に突き刺さり、わたしの小さな体は跳ね上がります。息ができない。痛み痛み痛み痛み痛み。内臓が攪拌(かくはん)されたような気持ち悪さが一気に喉元を登り、わたしは必死に全てをぶちまけました。そうしなければ、体の内側から風船のように破裂してしまうかと思ったのです。それ程の吐瀉物(としゃぶつ)をまき散らしながら、それでもわたしは生きようと懸命に、ゴミと空き瓶が転がる床を這いずります。
父は、そんなわたしの足を持ちあげ、床を引きずり回し、壁際へと放り投げるのでした。
逃げ場が——ない。
いつものこと。
そう、わたしは諦めます。
抵抗する力も、反抗する気力も、やり返す胆力も、わたしには無いのです。
幸運なことに、もしくは不幸なことに、″わたしの体は人よりも頑丈に出来ている“らしく、普通ならば死んでしまうような暴行も耐えることができました。
父の暴力は、わたしか動かなくなるまで続けられます。
泣き叫び、悲鳴を上げても、父の加虐心をより刺激するだけ。わたしはそれを知っていました。
だから、耐えるのです。
じっと、声を殺して。
恐怖に体を震わせながら。
痛みに心を壊されながら。
『その日』もまた、同じことの繰り返し——だったはずでした。
何故かは分かりません。理由は無かったのかもしれません。あるいは、限界だったのかもしれません。
その日は、わたしの誕生日でした。同時に、母の命日でもありました。
だからなのか——
父の暴力に晒されながら、わたしは、乞(こ)うてしまったのです。
お母さん、助けて。と——
それが契機でした。
父の赤ら顔がみるみる内に、無になっていきました。
人間は、こんなにも恐ろしい表情ができるのだと、わたしは心の底から恐怖しました。
父の手が、わたしの服を掴みます。ボロ雑巾にも似たそれは、いとも容易く引きちぎられます。
何をされようとしているのか。
まだ幼いわたしには分かりませんでした。
ただ——壊される。全てを、壊される。
そう、思ったのです。
自分の体に覆いかぶさってくる、気持ちの悪い何か。全身を走る生理的嫌悪感。身の危険。かつてないまでの、恐怖。
わたしは、無意識の内に、必死に、近くにあった空き瓶を掴んでいました。
それは、偶然にも、父がわたしを殴った時に使用した酒瓶。割れて、半分になっていて、先が——鋭利に——。
わたしは、力の限り、父の首に空き瓶を突き立てました。
肌を、肉を、突き破る、身の毛もよだつ感触。
鮮血。赤い。紅——。
父が、悲鳴を上げました。目が鬼の形相で未開かれたかと思うと、絶叫と共にわたしの首に手を掛けます。
息が——出来ない。
首を圧迫される、人体にとって致命的な苦しみが、わたしに襲い掛かります。脳への酸素と血流を止めれた先に待っているのは、確実なる死。わたしの生存本能が、瓶を握る手の力を緩めることを許しませんでした。
どちらが先に力尽きるか。
文字通り、互いの首を掛けた鍔迫り合いは、しかし呆気なく終焉を迎えます。
力なく、覆い被さる父親の体。
顔や体に彼の血を存分に浴びながら、わたしは放心します。手に力が入りませんでした。体が動きませんでした。心に穴が空いていました。
何が起こったのか。
何をしてしまったのか。
現実を見失い、幻想は遠ざかり、わたしの手に残されたのは——
生暖かった血が徐々に冷えていき、黒ずんでいくのを見ながら、わたしは思うのです。
ああ、汚いなあ——と。
父の血。半分は、わたしの血。
それは、誰に対しての言葉だったのか。
今となってはもう、分かりませんでした。
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目を覚ますと、わたしは泣いていました。
悲しいわけではありません。怖いわけではありません。後悔しているわけでも。
なのに。
手が、震えていました。
体の芯が、がたがたと音を立てて震えていました。
この夢を見ると、いつもこうなります。
体が底から冷えて、心が根っこから冷たくて、震えが止まらないのです。涙と共に、わたしを構成する何かがこぼれ落ちていくようて。
わたしは、ぎゅっと身を屈め、朝が来るのを待ちます。
悲しくない。怖くない。後悔なんか、していない。
呪文のように、あるいは呪詛のように唱え続けます。
わたしは、平気。
なんでもない。
辛くなんかない。
苦しくなんかない。
強く、目を閉じます。
歯を食いしばり、力一杯、シーツを握り締めます。
涙が止まりませんでした。
震えが止まりませんでした。
「嫌だ……」
分かっているのです。
本当は。
ただ意固地に自分に言い聞かせているだけで。少しでも正当化しようと、嫌なものに蓋をしているだけで。
怖くて、苦しくて、辛くて、嫌で嫌でしょうがないのです。
なんでわたしがあんな目にあわなければならなかったのか。
思い出したくない。考えたくない。
けれど、どれだけ強くなった気でいても、年月が経っても、あの夜のことは、わたしの心を蝕み続けるのです。
乗り越えられない。
振り切れない。
克服できない。
弱いから。
本当は、弱いから。
わたしという人間の本質は、弱さでしかないのだと。
理解し、思い知り、痛感します。
この夢を見た日は、朝まで眠れないのが通例でした。暗い闇の中、わたしはただただ耐えるしかありません。
こんなところ、フィアリスちゃんに見られるわけにはいかない……。
わたしは、祈るように、目を開けました。
フィアリスちゃんが、こちらを見ていました。
ああ……終わった。
こんなにも呆気なく、終わってしまった。
彼女の前では、強くあらねばならなかったのに。
そう、誓ったばかりなのに。
見られてしまった。
情けないわたしを。
弱いわたしを。
見放されると思いました。
見限られると思いました。
見捨てられると思いました。
だって、フィアリスちゃんが求めているのは、強いわたしなのです。
こんな情けないわたしでは、決してない。
フィアリスちゃんの手が、こちらに伸びてきました。
びくり、と体が震えます。
駄目……今、触られたら、全てバレてしまう。
ハリボテのわたし。
強がっているだけのわたし。
表向きは、フィアリスちゃんの力を受け入れるふりをして。
いざとなれば、こうして、恐(おそ)れる。
なんと虫のよい。なんと浅ましい。
恥知らずもいいところでした。
嫌だ。
本当に、嫌だ。
こんな自分が、嫌いだ。
見ないで欲しい。
見られているという事実から目を背ける為に、わたしは強く目を閉じます。そんなことをしても、無駄なのに。
闇の中を怖がる癖に、暗闇へと逃げようとする。
本当は弱いくせに、強いふりをする。
そんな矛盾だらけのわたし。
体が冷たい。
寒い。
震えが、止まらない。
そんなわたしの体に、何か暖かいものが覆いかぶさりました。
目を開けます。
フィアリスちゃんは、わたしには触れず、布団をかけ直してくれたようでした。
わたしを見つめる、黒曜石の瞳。
強く、温かな、視線。
フィアリスちゃんが、口を開きます。
けれど、声は聞こえません。
夢と現実の狭間にいるような感覚。
——大好きだよ、エルル。
彼女はそう言って、確かに、笑ったのです。
本当に、素敵な笑顔でした。
本当に、優しい笑みでした。
母が、子に向けるような——。
わたしは、泣きました。
泣きながら、謝ります。
ごめんなさい、ごめんなさい。
それは、フィアリスちゃんに対してなのか、わたしを産んだ母へ対してなのか、この手で殺した父に向けた言葉なのか。
自分でも、分かりません。
ただ、とめどない感情の波が、抑えようのない洪水となって押し寄せるのです。
わたしは、自らフィアリスちゃんに身を委ねました。
小さな胸に抱かれたまま、彼女の穏やかな心音を感じます。
静まり返った室内に響く、わたしのすすり声。
フィアリスちゃんは、何も言わずにわたしの頭を撫でてくれました。
心を満たす安心感。
あんなにも眠ることが恐ろしかった気持ちが、嘘のように霧散していきます。
まどろみの中、わたしは顔も知らない母に会ったような心地でした。
眠りに落ちる寸前、わたしは思います。
ありがとう、と。
フィアリスちゃんに、わたしは確かに救われました。
あなたに会えて、良かった。
そしてわたし達は、身を寄せ合ったまま、眠ります。
次に起きた時、わたしは少しだけ、強くなれているような気がしました。
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悪夢は終わらない。
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ノックの音。
寝ぼけ眼(まなこ)をこすります。
まだ日は登っておらず。
こんな時間の来訪者に頭を傾げながら、
扉の前へ。
「夜分遅くに失礼するよ」
木製の扉が派手に砕け、招かざる客の乱入。
立っていたのは、紳士風の男性。
「残念ながら、甘い蜜月の時は終わりだ。さあ、聖女殿をこちらに渡してもらおうか」
勧告は無慈悲に。
悪夢は覚めず、地獄へと。
わたしは、どこまでも、落ちていくのでした。
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