終焉の幼女エルルと死なずのライザ

かこみ
かこみ

15 空の蒼さはかくも遠き⑮悪夢の始まり

公開日時: 2020年11月8日(日) 05:18
文字数:4,099

————




 夢を見ました。


 いつもの夢です。


 始まりは、些細なこと。


 あまりにお腹を空かせた幼いわたしが、父の酒のつまみに手を出し、いつものように殴られるところからスタートします。


 幼い少女から見た、大人の男性の手というのは、それはもう岩のように大きく恐ろしいもので。


 それが容赦なく、振り下ろされるのです。


 痛かった。怖かった。全てが恐ろしかった。


 わたしには、父親が、怪物のように見えていました。


 逃げようと背を向けるわたし。


 父は、近くに落ちていた空の酒瓶を拾い上げると、わたしの後頭部を殴打しました。


 鋭い痛みが走り、ガラスが砕けて頬を裂きます。前のめりに倒れました。生暖かい液体が、後頭部からどろりと垂れてきます。それが何かと認識する暇もなく、髪を掴まれ、無理矢理起こされます。次は、顔を殴られました。破裂音。鼓膜が破れ、骨が軋み、顔が歪んだような衝撃と共に、わたしは再び床に叩きつけられました。


 口の中が切れ、血を吐き出します。視界が朦朧としていました。脳の揺れに意識が落ち掛け、それでもあまりの痛さにわたしはただただ床を転げ回ります。


 それが気に障ったのか、父親が大木のような足を上げ、わたしの腕目掛けて思いっきり踏み下ろすのです。


 激痛。自分の喉から出たとは思えない、地獄の亡者のような嗚咽を漏らしながら、わたしは踏まれた腕を押さえる為に、体を横に向けようとしました。


 しかし、そこに待ち受けていたのは、未曾有の衝撃。


 お腹を、蹴られました。


 爪先が胃に突き刺さり、わたしの小さな体は跳ね上がります。息ができない。痛み痛み痛み痛み痛み。内臓が攪拌(かくはん)されたような気持ち悪さが一気に喉元を登り、わたしは必死に全てをぶちまけました。そうしなければ、体の内側から風船のように破裂してしまうかと思ったのです。それ程の吐瀉物(としゃぶつ)をまき散らしながら、それでもわたしは生きようと懸命に、ゴミと空き瓶が転がる床を這いずります。


 父は、そんなわたしの足を持ちあげ、床を引きずり回し、壁際へと放り投げるのでした。


 逃げ場が——ない。


 いつものこと。


 そう、わたしは諦めます。


 抵抗する力も、反抗する気力も、やり返す胆力も、わたしには無いのです。


 幸運なことに、もしくは不幸なことに、″わたしの体は人よりも頑丈に出来ている“らしく、普通ならば死んでしまうような暴行も耐えることができました。


 父の暴力は、わたしか動かなくなるまで続けられます。


 泣き叫び、悲鳴を上げても、父の加虐心をより刺激するだけ。わたしはそれを知っていました。


 だから、耐えるのです。


 じっと、声を殺して。


 恐怖に体を震わせながら。


 痛みに心を壊されながら。


 『その日』もまた、同じことの繰り返し——だったはずでした。


 何故かは分かりません。理由は無かったのかもしれません。あるいは、限界だったのかもしれません。


 その日は、わたしの誕生日でした。同時に、母の命日でもありました。


 だからなのか——


 父の暴力に晒されながら、わたしは、乞(こ)うてしまったのです。


 お母さん、助けて。と——


 それが契機でした。


 父の赤ら顔がみるみる内に、無になっていきました。


 人間は、こんなにも恐ろしい表情ができるのだと、わたしは心の底から恐怖しました。


 父の手が、わたしの服を掴みます。ボロ雑巾にも似たそれは、いとも容易く引きちぎられます。


 何をされようとしているのか。


 まだ幼いわたしには分かりませんでした。


 ただ——壊される。全てを、壊される。


 そう、思ったのです。


 自分の体に覆いかぶさってくる、気持ちの悪い何か。全身を走る生理的嫌悪感。身の危険。かつてないまでの、恐怖。


 わたしは、無意識の内に、必死に、近くにあった空き瓶を掴んでいました。


 それは、偶然にも、父がわたしを殴った時に使用した酒瓶。割れて、半分になっていて、先が——鋭利に——。


 わたしは、力の限り、父の首に空き瓶を突き立てました。


 肌を、肉を、突き破る、身の毛もよだつ感触。


 鮮血。赤い。紅——。


 父が、悲鳴を上げました。目が鬼の形相で未開かれたかと思うと、絶叫と共にわたしの首に手を掛けます。


 息が——出来ない。


 首を圧迫される、人体にとって致命的な苦しみが、わたしに襲い掛かります。脳への酸素と血流を止めれた先に待っているのは、確実なる死。わたしの生存本能が、瓶を握る手の力を緩めることを許しませんでした。


 どちらが先に力尽きるか。


 文字通り、互いの首を掛けた鍔迫り合いは、しかし呆気なく終焉を迎えます。


 力なく、覆い被さる父親の体。


 顔や体に彼の血を存分に浴びながら、わたしは放心します。手に力が入りませんでした。体が動きませんでした。心に穴が空いていました。


 何が起こったのか。


 何をしてしまったのか。


 現実を見失い、幻想は遠ざかり、わたしの手に残されたのは——


 生暖かった血が徐々に冷えていき、黒ずんでいくのを見ながら、わたしは思うのです。


 ああ、汚いなあ——と。


 父の血。半分は、わたしの血。


 それは、誰に対しての言葉だったのか。


 今となってはもう、分かりませんでした。




————




 目を覚ますと、わたしは泣いていました。


 悲しいわけではありません。怖いわけではありません。後悔しているわけでも。


 なのに。


 手が、震えていました。


 体の芯が、がたがたと音を立てて震えていました。


 この夢を見ると、いつもこうなります。


 体が底から冷えて、心が根っこから冷たくて、震えが止まらないのです。涙と共に、わたしを構成する何かがこぼれ落ちていくようて。


 わたしは、ぎゅっと身を屈め、朝が来るのを待ちます。


 悲しくない。怖くない。後悔なんか、していない。


 呪文のように、あるいは呪詛のように唱え続けます。


 わたしは、平気。


 なんでもない。


 辛くなんかない。


 苦しくなんかない。


 強く、目を閉じます。


 歯を食いしばり、力一杯、シーツを握り締めます。


 涙が止まりませんでした。


 震えが止まりませんでした。


「嫌だ……」


 分かっているのです。


 本当は。


 ただ意固地に自分に言い聞かせているだけで。少しでも正当化しようと、嫌なものに蓋をしているだけで。


 怖くて、苦しくて、辛くて、嫌で嫌でしょうがないのです。


 なんでわたしがあんな目にあわなければならなかったのか。


 思い出したくない。考えたくない。


 けれど、どれだけ強くなった気でいても、年月が経っても、あの夜のことは、わたしの心を蝕み続けるのです。


 乗り越えられない。


 振り切れない。


 克服できない。


 弱いから。


 本当は、弱いから。


 わたしという人間の本質は、弱さでしかないのだと。


 理解し、思い知り、痛感します。


 この夢を見た日は、朝まで眠れないのが通例でした。暗い闇の中、わたしはただただ耐えるしかありません。


 こんなところ、フィアリスちゃんに見られるわけにはいかない……。


 わたしは、祈るように、目を開けました。


 フィアリスちゃんが、こちらを見ていました。


 ああ……終わった。


 こんなにも呆気なく、終わってしまった。


 彼女の前では、強くあらねばならなかったのに。


 そう、誓ったばかりなのに。


 見られてしまった。


 情けないわたしを。


 弱いわたしを。


 見放されると思いました。   


 見限られると思いました。


 見捨てられると思いました。


 だって、フィアリスちゃんが求めているのは、強いわたしなのです。


 こんな情けないわたしでは、決してない。


 フィアリスちゃんの手が、こちらに伸びてきました。


 びくり、と体が震えます。


 駄目……今、触られたら、全てバレてしまう。


 ハリボテのわたし。


 強がっているだけのわたし。

 

 表向きは、フィアリスちゃんの力を受け入れるふりをして。


 いざとなれば、こうして、恐(おそ)れる。


 なんと虫のよい。なんと浅ましい。


 恥知らずもいいところでした。


 嫌だ。


 本当に、嫌だ。


 こんな自分が、嫌いだ。


 見ないで欲しい。


 見られているという事実から目を背ける為に、わたしは強く目を閉じます。そんなことをしても、無駄なのに。


 闇の中を怖がる癖に、暗闇へと逃げようとする。


 本当は弱いくせに、強いふりをする。


 そんな矛盾だらけのわたし。


 体が冷たい。


 寒い。


 震えが、止まらない。


 そんなわたしの体に、何か暖かいものが覆いかぶさりました。


 目を開けます。


 フィアリスちゃんは、わたしには触れず、布団をかけ直してくれたようでした。


 わたしを見つめる、黒曜石の瞳。


 強く、温かな、視線。


 フィアリスちゃんが、口を開きます。


 けれど、声は聞こえません。


 夢と現実の狭間にいるような感覚。


 ——大好きだよ、エルル。


 彼女はそう言って、確かに、笑ったのです。


 本当に、素敵な笑顔でした。

 

 本当に、優しい笑みでした。


 母が、子に向けるような——。


 わたしは、泣きました。


 泣きながら、謝ります。


 ごめんなさい、ごめんなさい。


 それは、フィアリスちゃんに対してなのか、わたしを産んだ母へ対してなのか、この手で殺した父に向けた言葉なのか。


 自分でも、分かりません。


 ただ、とめどない感情の波が、抑えようのない洪水となって押し寄せるのです。


 わたしは、自らフィアリスちゃんに身を委ねました。


 小さな胸に抱かれたまま、彼女の穏やかな心音を感じます。


 静まり返った室内に響く、わたしのすすり声。


 フィアリスちゃんは、何も言わずにわたしの頭を撫でてくれました。


 心を満たす安心感。


 あんなにも眠ることが恐ろしかった気持ちが、嘘のように霧散していきます。


 まどろみの中、わたしは顔も知らない母に会ったような心地でした。


 眠りに落ちる寸前、わたしは思います。


 ありがとう、と。


 フィアリスちゃんに、わたしは確かに救われました。


 あなたに会えて、良かった。


 そしてわたし達は、身を寄せ合ったまま、眠ります。


 次に起きた時、わたしは少しだけ、強くなれているような気がしました。


 


————




 悪夢は終わらない。




————




 ノックの音。


 寝ぼけ眼(まなこ)をこすります。


 まだ日は登っておらず。


 こんな時間の来訪者に頭を傾げながら、


 扉の前へ。


「夜分遅くに失礼するよ」


 木製の扉が派手に砕け、招かざる客の乱入。


 立っていたのは、紳士風の男性。


「残念ながら、甘い蜜月の時は終わりだ。さあ、聖女殿をこちらに渡してもらおうか」


 勧告は無慈悲に。


 悪夢は覚めず、地獄へと。


 わたしは、どこまでも、落ちていくのでした。


 


 


 

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート