終焉の幼女エルルと死なずのライザ

かこみ
かこみ

8 「繋ぐは愛、世界はかく語りき」

公開日時: 2020年10月2日(金) 20:55
文字数:5,786

 気がつくと、わたしは不思議な空間に立っていました。


 辺り一面が真っ白で、奥行きが全く感じられません。広いような、狭いような、高いような、低いような。時間さえも、昼なのか、夜なのか、あるいは進みも、速いのか、遅いのか。我々人は、尺度となる物差しがないと距離感すら計れないのだと痛感させられます。それはきっと、人と人との距離も同じ——。


「よお」


 いつの間にか、そこには少年が立っていました。


 年の頃は十歳程でしょうか。目が据えた、いかにも生意気そうな少年です。


 初めて見る子どもでした。


 けれど、何故でしょう。何故か確信が持てるのです。


 今わたしの前に立つこの少年が——アーサー・ローランであると。彼の、子どもの頃の姿だということが。


 そして、この場所が、この時間が、現実ではない幻、心綺楼が夢を見ているかのような、虚な幻想に過ぎないということを——。


 遺物の——共鳴。


 アーサーの記憶が、感情の波が、わたしの中に流れ込んでくるのを感じました。


「アンタ、そんないい女だったんだな」


 アーサーが悪戯っぽい笑みを浮かべて言います。


 言われて初めて、わたしは自分の姿に気付きました。アーサーという比較対象が出来て、初めて自分の上背が伸びていることに気付きます。いや、伸びているというよりは——戻っている。ああ、随分と懐かしく感じます。


「あなたは——随分とまあ、縮みましたね?」


「アンタには言われたくねえな、それ。“ここに来て分かったよ″。なんとなく、理解出来た。まるであらかじめ知っていたかのように、自然な知識として頭の中に浮かぶんだ。アンタの″事情″ってやつも、アンタの″過去″も——アンタの“気持ち″もな。不思議なことがあるもんだ。不可思議ですらある。不可侵なはずの情報を、言葉もなく、お互い共有しちまってる。一体全体、なんでだろうね?」


「……さあ? わたし達は、存在自体が不思議とさえ言えますからね。あるいは、存在そのものが間違っているとも。歪(いびつ)で、歪(ゆが)んでいて、歪(ひず)んでいる——わたし達みたいなのは、本来存在していてはいけないんですよ」


「違えねえ」


 アーサーは少年のように笑い、わたしは大人ですので笑いませんでした。


「まあ、いいや。せっかくだから、もうちょっと話そうぜ。最後っつーか、“最期“だしよ。俺は、アンタとお喋りがしたい」


「それは光栄ですね。わたしもちょうど、あなたに聞きたいことがあったんですよ」


「聞きたいこと、か。なんとなく分かるよ。しかしどうだ、アンタも″その答え″は察しがつくんじゃねえか? 俺が、アンタを理解出来るようによ」


 ここに来て、頭の中に流れ込んできたアーサーの過去——垣間見た記憶の断片。

 

 母親から送られた、遺言。


 それは呪いの言葉。


 一人の少年の、一個の世界が、音を立てた崩れ落ちたその瞬間——彼は、世界を否定するしかありませんでした。


 それでも。


「わたしは、あなたの口から直接聞きたいんですよ。ちゃんと、答えて欲しいんです」


「ふうん? 懺悔でも求めてるのかね? するってーと、アンタはシスターか。あはは、ハマり役だな。生まれ変わったら、転職を勧めるぜ」


「冗談でしょう? わたしは、何度死んでも、聖職者にはなれませんよ、絶対に。——わたしはただ、納得がしたいだけです。理解することと、心が受け入れることは、イコールではないでしょう」


「納得ねえ……。中々どうしてアンタも立派な人でなしだな。——そう睨むなよ。これでも褒めてんだぜ。素直じゃないだけさ。いいぜ、何でも聞いてくれよ。ここでは嘘吐く意味も無いだろうし、珍しく正直に答えるとするぜ」


「それでは——一つだけ。あなたは、どうしてこのようなことをしたんですか?」


「少なくとも、遺物のせいじゃないことだけは確かだな。あれはただのきっかけだ。“あの子ども“に出会わなくても、俺は殺してた。そして、改めて聞かれると難しい質問だな」


「そんなことはないでしょう。人を、殺すだけの理由。余程の動機が無ければ、実行しようとは思わないはずです」


「そんなことはねえさ。大層な理由なんぞ無くても、人は人を殺す。余程のことがあって、人を殺すのと同じくらいにはな。勢い余って、殺す。ただムカついたから、殺す。目が合って気に食わなかったから、殺す。世の中には、そんな連中であふれてるんだぜ」


「つまり、あなたもそんなとち狂った連中の

一員だと?」


「そう結論を急かすなよ。まあ、概念的にはその通りなんだか。実際は、ちょっと違う。何故なら、俺は人を殺したという自覚がこれっぽちも無いからだ」


 アーサーが、ニヒルな笑みを浮かべます。


 わたしは頭を傾げました。


「分からないか? つまり、俺は俺の中で、俺が殺した連中を母親だとは定義していないんだ。どころか、人間だともな。何故ならば——」


「虐待——」


 アーサーの記憶が、わたしにその事実を伝えます。


 クリフさんからいただいた情報。その中あった、アーサーが元勤務していた病院から持ち出したとあるデータとは、虐待の疑いがある子どもの診療データでした。


 彼は、そのデータを元に犯行のターゲットを選択していたのです。


 少年は、嫌悪に顔を歪めながら、吐き捨てるように続けます。


「ああ、そうだ。あいつらは正真正銘のクズだ。掃き溜めですら吐きながら捨てる程のウジ虫供だ。手前(てめえ)が勝手に産んでおいて、自分勝手に役割を放棄しやがる。母親の資格どころか、人間ですらない——いやいや、勘違いするなよ。俺は俺のしてきた行いを正当化したいわけじゃない。そんな奴らを殺すことについての是非は、この際何の関係も無いのさ。情状酌量の余地なんぞ、俺は微塵も求めてねえ。何故なら、俺は自分のした行いを微塵も後悔しちゃいないからさ。正義感や義務感などでは決してなく、結局のところ、どれだけ屁理屈や腐ったプロファリングを並べても、俺はそいつらが気に食わないから殺した。動機ってやつを言語化してしまえば、つまりたったそれだけのことなのさ」


「そんな理屈で、人を——」


「殺していいのか、ってか? おいおいおい、いくら夢の中だからって寝ぼけてんのか? どうやら嘘吐きなのは、アンタの方だったらしい。言ったろ。アンタの″気持ち″は分かる。本当の本当に、アンタはそんなことを今更疑問に思ってんのかい?」


「ええ、その通りです。あなたの言う通りですよ。この体に負った傷は、この先二度と消えることはない。わたしは、父親が憎い——そんなわたしが、どうしてあなたの行為を、考えを、心情を非難出来ましょうか。だから——故に、わたしが言いたいのは、最初から本当に聞きたかったことは、ならばどうして、子どもまで、一緒に殺したんですか? 彼等は、誰よりも被害者だった。彼等は、何よりも″わたし達だった″。あなたなら、その子たちの心に寄り添うことだって出来たはずです」


 わたしは、真っ直ぐにアーサーの目を見て問い掛けました。


 こちらを見上げる淀んだ瞳が、バツが悪そうに逸らされます。


「……さあな。理由ならいくつか思い当たるが、どれが本当かは自分でも分からねえよ。どれもただの言い訳にしかならねえからな。アンタもその身に染みて知ってるだろ。この国で、身寄りの無い子どもの辿る道は」


 わたしは、思い出します。


 雨水を飲み、木の根を齧り、ゴミを漁り、盗み、物乞い、幼すぎる故に体を売ることも出来ず、人としての尊厳など全て無くし、獣のように生きて——それでも、最後は行き倒れて。


 師匠(ナツメ)に拾われなければ、わたしは、わたしとして死ねたかどうかも分かりませんでした。


「だから、殺したと?」


「……どうだろうな。それだけが理由なら、最初から殺すなって話だしな。憐憫……同情……ただの憐みだけでは、無い気がする」


「先程と違って、随分曖昧じゃあないですか」


「実際曖昧なんだから当然だろ。あんたの問いに対する答えはやっぱりこうさ、よく分からねえ。それ以上でも、それ以下でも、それ以外ですらねえよ。母親(あいつら)が人でなしなら、|子ども《おれたち》も、やっぱり人間じゃあないのさ。子どもってのは、親がいて初めて社会に認知され、人としての権利を得るんだ。俺が殺した連中は、人間にすらして貰えたかった可哀想な奴等だったよ」


 常に、世界から否定されているかのような疑似感覚。


 生きていてはいけないと。


 生きる価値は無いと。


 四六時中、耳元で呪詛を呟かれているかのような。


 気が狂いそうな日々。


「責めてもいいぜ。非難されても俺は甘んじて受け入れる。何故なら……少しだけ、後悔している。アンタの言う通りだ。俺なら、もしかしたら、あいつらを人間にしてやれたのかもしれなかった」


「先程も言ったでしょう。わたしに、あなたを非難する権利も資格もありませんよ。今更、たらればの話をしてもしょうがないでしょう」


「なら、何で聞いたんだよ?」


「それも、最初に言った通りです」


 心を、納得させたかった。


 彼の境遇——まるで、わたしの一部を見ているようで。


 あったかもしれない可能性。


 あり得たかもしれない過去。


 万華鏡の中に映った、たくさんのわたしの中の一人。


 そんな彼の口から心情を吐露(とろ)させることで、わたしは今尚解明し切れない、自らの心を覗き見ようとしたのかもしれません。


 彼がやったことは、間違いなく許されないことです。どんな事情があれ、絶対に人を殺めてはいけないのです。子どもでも知っている常識。絶対に、何があっても、選んではいけない道をアーサーは選択してしまった。


 しかし、そんな彼を糾弾する気になれないわたしもやはり、ただの人でなしなのでしょうね。


 わたしが、彼に抱いた感情は、決して同族嫌悪などでは無かった。


「なあ——」


 しばしの沈黙の後、アーサーが口を開きます。


「生きていても、クソみたいな奴から逃げられもせず虐げられ、生き残っても泥沼。理不尽な現実はどうしよもなくて、誰からも手を差し伸べられず、世界全部が敵で。そして、アンタはどんな気持ちだった?」


 敵は、世界そのもので。


 味方も無く、強大すぎる現実(てき)に、毎日が負戦。


 ずっと、ずっと。


「そんなの——決まっているじゃないですか。あなたは、母に裏切られてどんな気持ちでしたか?」


「はっ、そんなの決まってるわな」


 ずっと。



「「死にたい気分だった」」



 自然と、二人の声が重なりました。


 アーサーは自虐的に笑い、わたしはやっぱり笑えませんでした。


 大人は、素直にはなれないのです。


 時に、格好付けなければならないのです。


 それでも、心の中には不思議な充足感がありました。


 ちょっとだけ、肩の荷が降りたようなそんな感覚です。


 目の前にいるちっぽけな自分が、とても手の掛かる我が子のようで。


 何だか、可笑しくて。


 生きて。


 もがいて。


 苦しくて。


 死にたくて。


 それでも生きなければならなくて。


 出会って、別れて、また出会って。


 廻(めぐ)り巡り。


 これから先も——わたしは、旅を続ける。


「さて——そろそろ時間だな」


 アーサー少年の姿が、まるで霞みがかったかのように朧げなものになっていきます。光の粒子がぽわぽわと纏わり付き、今にも霧散してしまいそうなほど儚げな様相でした。


「ああ、そうだ。一応、礼は言っておくよ。サンキュー、俺を止めてくれてよ。俺だって、誰でもよかったわけじゃねえ。犯罪者として言わせて貰えば、誰かれ構わず殺さずに済んだ」


「ええ、どういたしまして」


 わたしは、彼に向かって微笑みます。


 ここにきて、初めてアーサーがわたしから視線を逸らしました。


「——なあ、どうする? 一緒に行くって選択肢もあるみたいだが?」


「お気持ちだけ受け取っておきます。あなたの他に、ちょっとだけ気になる方がいるのですよ。この気持ちに、白黒がつくまで——もう少しだけ、わたしは生きてみようと思います」


 わたしの言葉に、アーサーは「あーあ、フラれた」とおどけてみせます。


 彼が、くるりと背を向けました。


「じゃあな」


 時計の針をねじ曲げるかのように、彼の姿が子どもから大人へと、大人から子どもへとブレ変わります。 


「ああ——そうそう。俺さ、産まれた時から、一回言ってみたかった台詞があるんだよね」


 背中越しの言葉。


 それは別れの従花(あだはな)。

 

 追い求める、過去の幻想。


 追憶に至らなかった、本来受け取るはずだった当たり前の未来。


「別の形で出逢えていれば、アンタとは友達になれたのかもしれねえな」


 アーサーの姿が、完全に消失しました。余韻すら残っていません。


 わたしの体も、光に包まれ始めます。


 友達——ですか。


 まあ、返事は保留ということで。


 いつまでって?


 そうですね——たぶん、誰もがいつかは辿り着く、その先まで。




————




【Side:Arthur】


 


 そして彼は、夢から回帰し、現実へと目を覚ます。


 長い夢を見ていた気がした。


 一瞬の幻想のような気もした。


 目が見えない。真っ暗だ。


 何も感じない——いや——薄れゆく意識の中、アーサー・ローランは手に確かな温もりを感じた。 


 死の間際、彼は考える。


 自らの半生を。


 何も為せず、何も得られず、何も遺せず。


 結局、自分は何を追い求めていたのだろう。


 犯行の末に、果たして自分は何かを得たというのだろうか。


 我が子に明確な危機が迫れば、きっと母親は庇うだろうと思いたかった。


 しかし、誰もがそれをしなかった。


 みな子どもを見捨て、自分だけが逃げ果せようとしていた。


 だから、足を切り落とした。


 だから、殺した。


 気に食わなかったから、殺した。


 それで気持ちが晴れたかと言えば、違う。


 よく分からず。


 分からないから、殺してしまった。


 後悔が残った。


 こんな姿になってまで。


 心と体をたかが機械に支配されてまで。


 自分勝手に人を殺してまで。


 自分が追い求めたもの——。


 思い出すのは、あれ程忘れようとしていた母との日々。捨てたかったはずの情景。


 一度も、繋がれることの無かった手。


 ああ——そうか。


 俺は——俺が、欲しかったものは——。


 当たり前に与えられるはずだった。


 それでも戦わなければ、得られなかった。


 感覚が、消えていく。


 死は、足音すら立てない。


 真っ暗な闇の中。


 道標は無く。


 墓標も無く。


 それでも、アーサーに恐れは無かった。


 何故なら——。


 それは、たったそれだけのこと。


 本当に欲しかったものが、そこにあるから。


「おやすみなさい、アーサー」


 繋がれた手。


 アーサー・ローランは、人生で初めて、愛を与えられた。


 



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