雨が降っていた。
体をつらぬくような強い雨だ。
久しぶりの水分に、わたしの体は歓喜する——はずだった。
しかしどうやら、もう手遅れだったようで。地面に横たわった体は、ぴくりとも動かなかった。雨粒を飲む為に、仰向けになりたいのに、それすら叶わない。
なるほど——もう駄目なんだと。
頭の中で、自分を他人事のように捉えるもう一人のわたしが、冷たく判断した。
その気持ちは、痛い程に分かる。
そもそも、何故生きていたのかも分からないのだ。何の為に生まれてきたのか、“その意味を与えられなかったわたし“は、ずっと迷子だった。生きる——その生物的本能だけが、わたしの支配者だった。その目的が潰えそうな今、その支配者から見捨てられるのも頷ける。
母を殺し、父に『——』され、雨水で乾きを凌(しの)ぎ、生ゴミをあさり、物を盗み、汚いと罵られ、拒絶を投げられ、生き延びてきたわたしの人生に、意味など無かった。
それが結論であり、結果であり、結末だった。
なんともまあ、滑稽で、嘲笑する価値も無いほどに、笑える話だ。
死際に、思い出す両親の顔も無く。
何も与えられてはこなかった。
奪うだけの人生だった。母の命を。父の『——』を。
失うだけの人生だった。母の存在を。人の尊厳を。
意識が遠のく。
このまま、気を失えば、もう二度と目覚めることはないのだろう。
闇がやってくる。
暗闇が暖かい。
待ち望んでいた? 焦がれていた?
やっと——。
…………………………。
——ああ——でも——。
それでも。
「よお、どうした? 随分とまあ、死にそうじゃないか
——声が、聞こえた。
凛とした、生命力に満ち溢れた声だった。
顔を上げる気力が無いので、姿までは確認出来ない。
「私はよお」
声の主は、おもむろに、語り出す。
「行き倒れってやつを見掛けると、必ず、こう問い掛けることにしてんだよ。なあ、お前は——何がしたかった?」
そんなもの——そんなこと、決まっている。
「どうしたかった? どうなりたかった? 人生は苦しかったか? 糞つまんなかったか? 負け戦だったか?」
苦しかった。つまらなかった。負けっぱなしだった。
それでも。
「人生は、無意味だったか? 無価値だったか? 無駄だったのか?」
無意味だった。無価値だった。無駄だった。
それでも。
「そんなくだらない理由で、こんなところに這いつくばって、お前は全てを諦めるのか? なあ、お前は″どうしたい″んだ?」
生きる意味など無いのかもしれない。産まれて来た意味など無かったのかもしれない。望まれていなかったのかもしれない。誰からも望まれていないのかもしれない。
それでも。
それでも——
「生きたい」
死にたく——無い。
「強く……なりたい」
視界が滲んだ。瞬く間に目から涙が溢れ出た。
「強く……なりたい。一人で生きて行けるくらい、強くなりたい……!」
死にたい気分だった。生きることが辛かった。けれどそんなものは、わたしが望んだことじゃない。人生なんかに、負けたく無い。理不尽なんて、不条理なんて、糞食らえだ。
「そうか」
優しい声音。産まれてからこの方、向けられたことのない、感情。
体に残った、僅かな気力を振り絞る。震える手で、それでも地面を必死に掴み、顔を上げた。
「なら、私と一緒に来いよ。私が、お前に、お前の望む全てを教えてやる」
降りしきる雨の中、太陽がそこにあった。
それが、私と師匠の出会いだった。
————
目を覚ますと、未だ見慣れない天井が目に入った。
霞がかったようにはっきりとしない頭を持ち上げ、わたしは体を起こす。
どうやらここは、わたしの部屋らしかった。曖昧なのは当然だ。わたしが『この家』に来て、まだ一週間しか経っていないのだ。自分の部屋という実感が全く無かった。ましてや、自室などという代物を与えられたのは人生で初めてだ。馴染まないし、あまり落ち着かない。屋根があるだけでもありがたいのに、柔らかい寝床まであるのはやり過ぎではないだろうか。
ベッドから降り、用意されていた服を着る。白いワンピース。破れてもいない、ほつれてもいない、臭いもしない、汚れてもいない、清潔な衣服。
「良い匂いがする……」
ずっと嗅いでいたい衝動に駆られながらも、わたしは部屋を後にし、階下へと。リビングの扉を開けると、既に起きていた同居人が食卓に食事を並べているところだった。
「よお、起きたか。おはよう。朝飯出来てるぜ」
彼女の名前は、『ナツメ・カミシロ』という。野垂れ死ぬ寸前だった、野良犬のようなわたしを拾ってくれた、酔狂な人だ。後頭部で適当にまとめ垂らされた、燃えるような赤い髪。すらりと伸びた長身に、そびえ立つ胸。わたしを見て、くっきりとした顔立ちを少年のように破顔させながら、彼女は言う。
「おぉ、似合ってんじゃねえか、その服。ちょっとポーズ取ってみてくれよ。そうだな……こう、片手でスカート部分を少し持ち上げて——」
「こう?」
しばらく、ナツメの言う通りにした。
「やっぱり見てくれは一級品だなあ。コーディネートのしがいがあるぜ」
わたしは首を傾げた。わたしにとって服は、寒さを凌ぐ為の物でしかなかったからだ。
「いずれお前にも分かるよ。女の子だろ? 女には、女らしく生きる義務は無いが、女として生きる権利ってやつはあるんだぜ」
「あなたの言うことは、時に難しい」
「そうか? まあ、いいや。取り敢えず朝飯食べようぜ。せっかく作ったのに、冷めちまう」
それはあなたのせいでは、とはもちろん言わなかった。食べさせて貰えるだけでもありがたいのだ。
ロッジ風の室内を進み、食卓につく。
目の前のテーブルには、美味しそうな食事が並んでいた。パンはカビが生えていないし、サラダは変色していない。スープもハムエッグも、湯気が立っていた。冷めていない、暖かい食事。そんな貴重な物を、無償で与えられるという事実を、未(いま)だ受け入れられていない自分がいた。
「食べる前には、必ずいただきますだ」
「分かった」
ナツメに倣(なら)い、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
ナツメの作るご飯は、いつもあまりにも美味しくて、一口食べると、後は一心不乱だった。
喉を詰まらせそうになるのを、水で何とか流し込みながら食べる。
「……誰もとらねえよ。もっとゆっくり食べろ」
「ふぉぃしいふぁら」
「何言ってんのか分かんねえ」
呆れ顔のナツメを尻目に、あっという間に食べ終わった。
「ごちそうさま」
「おう、お粗末さん」
自分の食器を持って、流し台へ。洗い物はわたしがするルールだった。先に自分の分を洗い終えて食卓へ戻ると、朝食を食べ終えたナツメの手には、大きなコップが握られていた。なみなみと注がれた黄金色の液体。雲のような泡が表面に蓋をする。確か、ビールという飲み物で、彼女はそれを大変好んでいて、食後や暇を見つけては、ことあるごとに摂取していた。
わたしが、彼女の分の食器を片付けようとすると、それを制される。
「まあまあ、後でいいよ。それより、お前も飲んでみるか? いいや、飲め」
「分かった」
この時、わたしの認識の中ではナツメが飲食するものは全部美味しいという常識が出来上がっていて、渡されたコップに、疑うことなく口を付けるのだった。
途端。口の中で、何かが、はじけた。同時に、冷たいはずなのに、液体が燃えているような不可思議な感覚も。頑張って飲み込む……が、喉が焼けるようだった。
「痛い。熱い。苦い」
不味い。
苦言を口にするわたしを見て、ナツメは残念そうに言った。
「なんだ、流石に酒の味はまだ分かんねえか? ふむ——」
ナツメがおもむろに立ち上がる。
「なら、こっちはどうだ?」
しばらくして戻ってきたナツメの手にあったのは、また別のコップが握られていた。水を飲むには小さすぎるし、飲み物を入れる為には不要な、何だか綺麗な絵が描かれている。そこに満たされていたのは、湯気立つ漆黒の液体だった。大雨の後の泥水を、より濃くしたかのような。嫌な記憶。見た目だけは、さっきの飲み物よりもまずそうだけど……。
疑いながら、おそるおそる、飲む。
「…………苦い」
毒だと思った。吐き出そうとしたが、それだけは許されないという理性が、本能を制した。
「駄目か」
「無理」
「そっか」
「うん」
どうやらナツメは呑み仲間というやつが欲しかったそうで、子どものように唇を尖らせて「ちぇー」と頭を掻いた。
「これは、飲み物じゃない」
「飲み物だよ。喉を潤すだけが、飲み物じゃないってことだ。強いていうなら、心を潤す為のものだな」
「意味が分からない」
「料理と一緒だ。腹を満たすだけなら、何だっていいんだ。栄養を得るだけなら、サプリメントで事足りる。それでも人は、心を満たしたいから旨いもんを食うんだろ」
「そもそも美味しくないから言ってる」
「そこはまあ、いつの日か——″お前が大人になったら“、良さがきっと分かるさ」
自分が大人になった姿——今まで、そんなもの考えたこともなかった。全く想像が出来ない。ナツメのような大人になるのだろうか。……何だか、それは違う気がした。心も、体も、きっとわたしは大きくなれない気がする。
「そういやあ、よ」
と、ナツメが言う。
「大人で思い出したんだけど、お前いくつなんだ? 生年月日は? あと、すげー今更なんだけど、一番肝心な『名前』を聞いてないことに気付いたよ」
「知らない」
本当のことだった。わたしは、親から何も与えられた記憶が無いから。歳も、誕生日も、血液型も、食事も、教育も——名前も。
むしろ意図的に徹底されたように、一切の全てを、合切の全部を——貰わなかった。
ナツメはそんなこと大したことでもないという風に、話を進める。
「ふうん。戸籍はあんのかね? 今度調べてみるか」
戸籍って何だろう、とぼんやり考えていると。
ナツミがぶつぶつと独り言を始めた。黙って見守る。やがて彼女は、ふんふん、なるほどね。と一人で納得したように頷いた。
「よし、決めた」
「?」
「お前への報酬だよ。ほら、″『修行』を始めた時に約束したろ″。ひとまずの目標として、この私に一撃入れられたら、ご褒美をやるよって」
「ああ——」
忘れていた。
すっかりと。
修行が、“あまりにも厳し過ぎて“、どうでもよくなってしまっていた。
わたしは、あの時間を思い出し、身震いをする。
「中身はまだ内緒だけどな。期待してくれていいぜ」
にひひ、と笑うナツメ。
そんなものよりかは、もう少し訓練の内容を優しくして欲しい——そんな言葉を、喉元で飲み込んだ。
強くなりたい。
そう願ったのは、わたし自身なのだ。
例え、死ぬ程痛めつけられても、死にかけても——死ぬよりかは、マシだ。
「さて、それじゃあ、そろそろ行くか」
ナツメが伸びをしながら、立ち上がる。
「どこへ?」
わたしの問いに、彼女はシニカルな笑みで答えるのだった。
「腹ごなしを済ませた後にすることといったら、決まってんだろ。もちろん、山登りだよ」
「そう」
常識って、難しい。
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