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もちろん山登りというのは、気軽なハイキングでも、適度な登山でも無く、訓練の一環だった。
より正鵠を射るなら、山下り。まずは、知らない山の頂上付近で置き去りにされる。装備はナイフ一本。コンパスも地図もなく、日没までに山を降りるのが、修行だ。
もちろん、今のわたしではただただ迷って終わる。野生の獣に追い回され、水源も見つけられず、食べてはいけない木のみやキノコを口に腹を下し、木の根につまずき足を挫(くじ)き、ボロボロになったところでいつもタイムオーバーだった。
時間切れになった後は、どこからともなく現れたナツメに回収され(おそらく、わたしに気付かれないようどこかで見守ってくれているのだろう)、麓(ふもと)へと運ばれる。
しかし、そこからが本当の地獄だった。
疲労困憊状態での、組手。
ナツメは、同じ人間とは思えないくらいに強く、いつもボコボコにされる。
叩きつけられ、投げられ、骨を折られ、砕かれ、内蔵を潰され、その度に彼女の不思議な力で瞬く間に怪我は治され、またそれを繰り返す。体中の骨で、折れていない箇所など無いように思えた。内蔵の位置さえ変わっているような錯覚を覚えた。何度も血反吐を吐きながら、わたしは起き上がった。
ナツメは、わたしが構えないと絶対に手を出してこなかった。失敗を責めたりもしない。出来ないことを糾弾することもせず、わたしに技術と知識を授けてくれる。付き合ってくれる。
内容は常軌を逸してスパルタだったが、一度たりとも無理強いされたことは無かった。その証拠に、わたしがやめて欲しいと懇願してしまえば、その場ですぐに訓練は終わるのだ。
全ては、わたし次第。わたしが望むものが手に入るかどうかは、自分自身にかかっている。
だからわたしは、痛みに挫けそうになりながらも、立ち上がるのだ。何度でも、何度だろうと。決して弱音を吐かず、絶対にめげず。
そして、そんな日々が一ヶ月程続いた——ある日のこと。
「いいか、まずは、体中を巡るエーテルの流れを自覚するんだ」
わたしに向かい、ナツメが言った。いつものどこか凛としつつも陽気な面影はそこには無い。研ぎ澄まされた刃物のように、鋭い立ち振る舞い。
わたしは、この世には父親よりも怖いものは無いと思っていた。わたしを叩く時の形相。わたしを『——』する時の下卑た笑み。全てが恐怖だった。
けれど、違った。
あんなもの、あんなやつ——ただのゴミだった。弱者を嬲(なぶ)る偽物の強さだった。
ここに、『本物』がいる。本当の『強者』がいる。
わたしが構えると、ナツメも構える。
そうすると不思議なことに、ただでさえ大きな彼女が、更に強大に感じるのだ。
「——っ!」
肌にビリビリと突き刺さる、見えない何か。これがナツメのエーテルなのだと、幾度となく繰り返された稽古の中で理解出来るようになってきた。
しかし、自分の中にあるはずの力を感じられない。
いや、もう少しで何かを、掴めそうなんだ。もう、そこまで来ている。″そう思えるくらいに″、あとちょっとなんだ……。
でも…………本当に、そうなのだろうか?
こんなもの、ただの気のせいではないのだろうか。見えないものを、信じる。自分を信じことの難しさが、わたしを懐疑的にする。
そんなわたしの心情を察するかのように、ナツメが声を張り上げる。
「最初のきっかけだけは、言葉で伝えられねえ! ただ一つ言えることは、″自分を疑うな″! 自分の感覚に身を委ねろ! 自分の直感に従え! 自分を——信じろ!」
ナツメの姿が、消えた。
「————っ⁉︎⁉︎」
次の瞬間、わたしの体を、未曾有の衝撃が襲う。
天地がひっくり返る。空を叩きつけられるかのような矛盾感覚。わたしの体は宙を舞い、キリ揉みしながら地面に落下し叩きつけられた。
「あっ……ぎ……⁉︎ ひっぐぅぅぅっ」
地面にぶつけた衝撃か、それともナツメの攻撃によるものか。片腕が変な方向に折れ曲がっていた。あまりの痛さに歯を食いしばる。涙が溢(こぼ)れ、途端に胃から酸っぱいものが込み上げてきて、ぶちまけた。吐瀉物(としゃぶつ)に血が混じっている。内臓も痛めたのかもしれない。
「ふっ——ぐぅ……!」
それでも、わたしは起き上がろうとする。ナツメは絶対に、倒れたわたしに追撃はして来ない。時間を掛けて、それでも何とか立ち上がった。
「はっ……はっ……」
肺が痛くて、深く呼吸が出来ない。折れた腕は上がらず、もう片方の腕も、拳に力が入らなかった。
足が震えている。激痛が頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
朝からの下山修行での疲労。そして、一撃一撃が、打ち所が悪ければ即死しかねない攻撃を幾度となく受けて、わたしの体はもう、とうに満身創痍だった。耳もあまり上手く聞こえない。視界も朦朧とし、かろうじてナツミの姿だけを捉えていた。
「感じろ! 手を伸ばせ! 『力』は既に、お前の中にある! あとはお前が気がつくだけだ!」
ナツメが動く。流れるような動作。真正面からの特攻。
もう、何も考えられない。思考する余裕が無いのだ。
朦朧する意識の中、ナツメの言葉が山彦(やまびこ)のように反響していた。
委ねる。
自分の、感覚に。
自分自身を——信じる。
——目の前に、ナツメの拳があった。
極限状態に埋没する肉体。余計な情報が遮断され、感覚が研ぎ澄まされていく。肌を通じて、ダイレクトに伝わるナツメの激流のようなエーテル。ふいに、頭の奥を一筋の光がよぎる。自身の中を、血流に乗って光が駆け巡っている。生命の源。熱い。熱い何か。
自然に、体が動いた。
あれだけ避けられなかった、ナツメの拳打を、体をよじって、避ける。
今までずっと、産まれた時から共にいた、その光に手を伸ばすように、わたしは拳を前に突き出していた。
カウンター気味に、ナツメの体にわたしの一撃が突き刺さる。
いつの間にか、きらきらと煌く銀色の光が、わたしの体を覆っていた。
一瞬の沈黙。
威力は無い。ダメージなんてもちろん皆無。
けれど、ナツメは本当に嬉しそうに笑い、
「合格だ」
そう言った。
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「中々いい一撃だったぜ。いやいや、本当にもう、自分で言うのも何だが、誇っていいぞ。この私にあんな綺麗にカウンター入れられる人間は、世界にもそうはいねえからな」
その言葉が冗談ではないことは、対峙していたわたしがよく分かっていた。そして、わたしと組み手している最中の彼女が、とても手加減しているということも。
ナツメは何者なのだろう。
今更ながらに、気になってくる。
訊くつもりはないけれど。
別に彼女が何者だろうが、わたしには関係無かった。
聞いてしまえば、終わってしまうかもしれない。
今のこの関係も、今のこの時間も。
だったら、知らなくていい。
もう、見捨てられるのは——嫌だ。
わたしにとって今は、この居場所こそが全てだった。
「どこか痛むところはあるか?」
腕に視線を向ける。骨は完全に治っていた。体のどこも痛まない。傷痕すら残らない、完璧な治癒術。
わたしは、首を横に振った。
「ならよかった。もう少し——休憩してから、帰ろう」
今は、修行が終わり、休憩の最中だった。
切り立った崖の上。心地よい風が、全てを出し切った体に染み渡る。
目の前には、見渡す限りの平野。遺跡の跡や森、畑や集落が見えた。綺麗な、夕焼け空。空と大地の境界線が燃えていた。
空に手をかざす。血流に乗って体中を巡るエーテルを、手に留めるイメージで意識を集中させると、銀色の光が手の平を包んだ。
わたしの、力。
とても、綺麗だった。
「なあ——」
ナツメがふいに、前を見つめたまま口を開いた。
「——辛いか?」
わたしは再び、黙って首を振った。
「そうか」
むしろ——そう、楽しい。
充実していて、独りじゃなくて、毎日が待ち遠しい。
楽しいし、嬉しいし——幸せだ。
ああ——これが、幸せなんだ。
気がつくと、涙が出ていた。
最近は、泣いてばかりだった。
少し前のわたしは、もっと落ち着いていたはずだ。
何も感じないし、何も思わなかった。
今は——違う。
全てが、新鮮だ。
何もかもが、色付いている。
世界が、広がっている。
わたしが、世界に存在しているという実感がある。
わたしは——
「『エルトゥールル・ハウル』」
「え——?」
驚いて、ナツメの方を振り返る。
彼女は照れ臭そうに、笑った。
「約束しただろ。私に一撃入れられたら、褒美をやるよって。名前にするって、決めてたんだ。エルトゥールル・ハウル。愛称は、エルルってところか。いい名前だろ? これでも、この一ヶ月ずっと、一生懸命考えてたんだぜ」
「わたしの——名前」
エルトゥールル・ハウル。何度も、何度も口にし、心の中で繰り返す。
その度に、わたしの存在がより強固になっていく気がした。
「それは、お前が——エルルが自分の力で勝ち取ったものだ。苦労して、痛い思いして、頑張って、自分の手で掴み取ったものだ。そうして得たものは、絶対に自分を裏切らねーってのが私の持論でな。だから——なんつーか、うまく言えないんだけどよ……このタイミングで、名前をやりたかったんだ」
「…………嬉しい」
本当に、嬉しい。
心が、満たされている。
胸に手を当てる。暖かい。
「ありがとう、ナツメ」
「おう。どういたしまして、エルル」
ナツメの、満面の笑み。
わたしは、上手く笑えなかったけれど、どうしてもこの嬉しさと感謝の気持ちを表現したくて、彼女に抱きついた。
頭に手を置かれ、撫でられる。
気持ちいい。
わたしがいて、ナツメがいる。
こんな日々が、いつまでも続けばいいのに。
そう願わずには、いられなかった。
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ナツメは、わたしにありとあらゆることを教えてくれました。
戦い方、生き方、笑い方、考え方、わたしは、師匠から全てを学んだのです。
やがて、『魔女の黄昏』と呼ばれる魔法使いの大虐殺が起こり、彼女は同族を助ける為に戦場へと赴(おもむ)きました。
そして、二度と戻らなかったのです。
彼女がいなくなって、わたしは再び独りになりました。
辛かったです。悲しかったです。毎日泣きました。わたしは泣き虫なのです。
どうしてわたしを置いて行ったのですか?
どうして——わたしを連れて行っては、くれなかったのですか?
言いたいことが、いっぱいありました。
だからこそ、わたしは彼女に再び会わなければなりません。
わたしはきっと、彼女がどこかで生きていると信じています。そんな予感がするのです。
それは儚い幻想なのかもしれません。
それは拙い夢物語なのかもしれません。
それでも、わたしは信じています。
だってそうでしょう?
自分を疑うな。自分の感覚に身を委ねろ。自分を、信じろ。
そう言ったのは師匠、あなたなのですから。
いつかまた。
取り敢えず、再開した日には、また一発殴らせて下さいね!
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