昇降機に乗っている時間は短かったものの、随分な距離を上昇した感覚がありました。
現在地は、天候再現装置の管理システムがある、ペイルローブの天蓋(てんがい)部でしょうか。
ここもまた、無機質な場所です。
天井は遥か遠く、部屋の内壁が見渡せない程に広く。
何もない——虚無とさえ言える空間。
謎の幾何学的な模様が刻まれた硬質の床を、かつん、と。
乾いた音が叩きました。
視線を向けると、そこには黒のトレンチコートに紳士風の帽子を被った男が一人。わたし達と十分に間合いを取り、佇んでいます。
「アイゼンドッグ——!」
彼——アイゼンドッグは、我々の来訪を待ち侘びていたかのように、柔和(にゅうわ)に笑いました。
「やあ、また会ったね。小さな淑女(レディ)」
随分と距離があるにも関わらず、不思議と声は聞こえてきます。
「その後(ご)、体はもう良いのかな?」
「——っ」
他ならぬ、あなたが、それを言うのですか。ざわざわと、心にさざ波が立つのを感じます。
「落ち着け。奴の言動にかき乱されるな」
わたしの心の乱れを諫(いさ)めたのは、ライザのそんな声。いつもと同じ落ち着いた声音の中に含まれる、確かな警戒心が、わたしに冷静さをもたらします。
肌を突き刺すような鋭いエーテル。横目でライザの姿を確認するまでもなく、彼が臨戦態勢に入ったのをひしひしと感じます。こめかみを、一筋の冷ややかな汗が流れ落ちました。それ程までに、ライザが放つ敵意は、今までわたしが感じたことのない純度と圧力を含んでいました。
そして、そのことが敵の力量を如実に物語っているのです。
アイゼンドッグは、わたし達を順番に見遣(みや)ると、大仰に両手を広げます。
「さて、せっかくの再会だが、君達をこの先へ通すわけにはいかないのだよ」
口元を楽しげに歪めて、彼は言います。
「残念だがこれも仕事だ。些か陳腐な言い回しにはなるがね——ここを通りたくば、私を倒していくことだ」
アイゼンドッグの言動と立ち位置から察するに、部屋の出口は彼の背後、ザルディオもその先にいるのでしょう。
「エルル」
ライザが、わたしにだけ聞こえるよう小声で言います。
「真っ直ぐ、部屋の出口を目指して走れ」
その申し出に、わたしは眉を潜めました。
「ライザは?」
「……すまない」
「何故、謝るのですか」
「結局、お前をザルディオの元へ向かわせるはめになった。恐怖の根源へと、大切な人を、一人で送り出さなければならないこと。一緒に立ち向かえないことを、悔いている」
大切な人——頬に感じる熱と、少しばかりの胸の高鳴りと共に、わたしの中では、様々なものが渦巻いていました。恐怖。トラウマ。痛み。使命感。フィアリスちゃん。勝算。セラディス。決意。思い出されるのは、ただ泣くだけのわたしに、ライザがかけてくれた言葉。
その言葉があったから、わたしは再び立ち上がれたのです。口元に、自然と笑みが浮かびました。
「でも、わたしのこと、信じてくれるんでしょう?」
ライザが、強く頷きます。
「でしたら、わたしは前を向けます。自分の足で、しっかりと、立てます。どんな恐怖や理不尽にも立ち向かえるでしょう。そして、わたしも——」
視線は前へ向けたまま、わたしは落ち着いた口調で言います。
「ライザ、あなたを、信じています。あんな胡散臭いエセ紳士なぞに、あなたが負けるはずがありません。それに、わたしがピンチになったら、きっと駆け付けてくれるのでしょう? そう思えば、気が楽になります」
人任せで申し訳ないですが、それも美少女の特権ゆえにご了承ください。ヒロインのピンチには、必ずヒーローが颯爽と登場するものなのです。
ほら、わたしは大丈夫。
思い描くのは、未来。
掴み取らなければならない、これから。
楽しいことを想像すれば、踏ん張れる。
約束があれば、頑張れる。
「これが終わったら、また二人で、ゆっくりと晩酌を交わしましょう。約束ですよ?」
「ああ、必ず」
示し合わせたわけではなく自然に、わたし達は互いの手の甲を、軽く打ちつけます。
「作戦会議は、終わったかね? あるいは、今生の別れを済ませたのか。どちらにせよ、退かぬなら、立ちはだかるだけだがね」
「ええ。わざわざ待っていただいたようで申し訳ない。紳士なのは、その格好だけかと思っていましたよ」
わざとらしく肩をすくめ、内心を悟られないよう努(つと)めます。
息を大きく吸い、深呼吸。
行きます。
わたしはライザに目配せをして、一気に走り出しました。真っ直ぐ、全速力で。アイゼンドッグの背後にあるはずの先を目指して。最短距離を征きます。
真正面から突っ込んでくるわたしに対し、アイゼンドッグは目を丸くしました。愚か。そう思ったのでしょう。しかし、流石は歴戦の兵(つわもの)。すぐに隙のない構えを作ると、迎撃の姿勢を見せます。
カウンター気味に放たれた右の掌底。基本技、されど速度は超。動く標的(わたし)の顎を目指して、寸分の狂いなく繰り出されたその攻撃にも、わたしは怯みませんでした。回避も防御もせず、ただひたすらに体を前に進めます。何故なら、知っていたから。ライザが、来てくれると。
アイゼンドッグの攻撃がわたしにヒットする直前、金色の光が煌めきました。
「ぬぅ⁉︎」
瞬(またた)く間の出来事。ライザが振るった巨大な金色の剣が凄まじい速度でアイゼンドッグに衝突し、彼の体が真横に吹っ飛びます。
その隙に、わたしはただひたすらに前へと駆け抜けました。
刹那——アイゼンドッグを追撃せんとするライザが、わたしの前を横切ります。一瞬にも満たない短い時間の中、交錯する視線。言葉など交わせるはずがないのに、わたし達は確かに互いの意志を授受するのでした。
任せました。
任せろ。
と。
視線は前へ。
涙はなく。
あるのは決意という名の信頼。
攻撃など、来るはずがないのです。
前へ。ただただ前へ。
最後まで、わたしは後ろを振り返りませんでした。
————
【Side:Liza】
しばしの交戦の後、ライザとアイゼンドッグは距離を取り、互いの出方を探り合うように向かい合った。
「いいのか? 追わなくて」
ライザの問いに、アイゼンドッグが元楽しげに笑う。
「追っても、君が阻むのだろう? 君のような強者を相手に、そのような愚行は犯せぬよ。このような形になった時点で、私に仕事を遂行する道は一つしか無くなったわけだ。すなわち、君をすみやかに討ち倒し、あの小さな少女を追いかけ排除する」
アイゼンドッグのエーテルが、更なる昂(たか)まりを見せた。群青色をした輝きが、両手を覆う。高密度、かつ強大なエーテル。
エーテルを感知する術に長けるライザでなくとも、その脅威がまざまざと伝わってくる。
剣を握る手が汗ばんでいた。思い出されるのは、セラディスの言葉。傑物(ばけもの)——歴戦の経歴から、ライザはその表現が決して誇張ではなく、まさしくであったことを、短いやり取りの中ですでに把握していた。
実力は、今まで出会った人間の中でも間違いなくトップクラス。己の全力を賭しても、敗色濃厚な難敵。
しかし、何故だろう。
全く負ける気がしないのは。
胸の奥で、何かが燃えていた。
「逆に問うが、君こそいいのかね? あの少女を一人で行かせてしまって。この先に待つのは、再びの地獄かもしれないよ。いくら口で自らを鼓舞しようが、一度心に突き刺さった棘(とげ)はそう簡単に抜けもしなければ、癒えはしない。あの男が、彼女の小さな体に植え付けたトラウマは、相当なものだろう。はたして、彼女は立ち向かえるのかな? 恐怖と傷みと後悔の波に、呑みこまれてしまわなければいいがね」
流れるようなアイゼンドッグの言葉にも、ライザは揺るがない。今や、そんな戯言などには何の意味も無かった。
「君達を見ていると、私は年甲斐もなく不憫に思うよ。互いの絆、部外者の私にも伝わってくる程に、確かだ。故に、哀れでならない。独りで死ぬのは、寂しかろう。死ぬなら、せめて二人寄り添い合いながら——などと私は思うわけだよ」
言って、アイゼンドッグが加虐的に笑った。
対し、ライザは誇らしくも堂々と切り返す。
「お前は、何も分かっていない」
エルルという少女を。
そして、自分が彼女から受け取った大き過ぎる力を。
体が歓喜に打ち震えていた。
胸に手を当てる。
愛する者に、信じると言われた。
任された。
託された。
熱い、熱い何か。
心が、燃えている。
体の底から、無限に力が湧いてきた。
さあ、行こう。目の前の敵を倒し、エルルの後を追う。そして元凶を共に討ち破る。それだけ。単純。何も問題などない。なんの障害もない。
吹き上がるエーテルを全て解き放ち、ライザは剣を構えた。
その姿を、気迫を、力を見据え、アイゼンドッグはなおも笑う。
「素晴らしい力だ。先の戦争、人々が魔術士(きみたち)を弾劾し、根絶せんと思い立ったその気持ちが分かるような気がするよ。久々に、心が躍る」
戦うことへの快楽。持てる力を思う存分に振るう愉悦。矜恃を掲げ、死合(しあ)える僥倖(ぎょうこう)。
彼もまた、拳を構えた。
「青年よ。名乗り給(たま)へ」
ライザとアイゼンドッグ。
両者は互いに名乗り上げる。
己の存在を懸け、戦う際の掟(ルール)。
それは絶対に退かぬという意思表示。
「至天征閥(してんせいばつ)が一柱『鉄狼(クロガネ)』、アイゼンドッグ・ラック!」
「壬(じん)純種第一級魔術士、ライザ・テオドール」
片や高らかに、片や静かに。
二人の声が広場に響き渡ると、金と群青の光は同時に動き、衝突した。
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