「ちょっとあんた、どうしてくれるの!?」
「ゆ、由良? いきなり何事よ? それにもうすぐ始業時間でしょう? 総務部に戻らないとまずいんじゃ」
「私がここに来るのは、部長と課長公認よ! と言うか解決するまで、総務部に戻れないの! さっさとあんたのお父さんに電話しなさい!」
「はぁ? どうして朝っぱらから、和洋さんに電話しなきゃいけないのよ?」
全く訳が分からない沙織が怪訝な顔で問い返すと、由良は深呼吸して怒気を鎮めてから、徐に口を開いた。
「……あんた、私に嘘をついたわよね? マンションを借りているのは、『名前呼びする位に仲の良い、遠縁の一之瀬和洋さん』からだって」
それにはさすがに沙織も強く言い返せず、弁解がましい台詞を口にする。
「まあ……、名前は合ってるわけだし、遠縁って言うのは血縁関係があるって事で……、つまり親子関係も血縁関係があるって事だから、あながち間違ってもいないわけで……。全面的な嘘と言うわけでは」
「まだグチャグチャ言うか!? あんたのせいで、総務部内の空気が居たたまれなくなってんのよ!!」
「だからどうしてよ! さっきから、全然意味が分からないんだけど!?」
再び怒鳴られた沙織が声を荒げて言い返すと、由良は何とか怒りを押さえ込みながら話を続けた。
「あんたは知らないだろうけど、うちの富野部長は前の奥さんと離婚しているの。一人娘が、三歳の可愛らしい盛りにね」
「それは知らなかったわ……」
いきなり沈鬱な表情で由良が語りだした内容に、沙織の顔も微妙に強張る。
「しかも、奥さんが浮気して離婚する事になったのに、子供が小さいから母親の方が養育に適任とかふざけた理由で、娘さんは奥さんが引き取ったのよ」
「……それはちょっと、どうかと思う」
「当初は養育費を出す代わり、月一程度の面会は認められていたけど、一年も経たずに奥さんが浮気相手の男と子連れで再婚して、養育費の支払い義務も無くなったから娘さんに会わせて貰えなくなったそうよ。更に再婚相手の仕事の都合で引っ越して以来、音信不通でね」
「……気の毒な話ね」
「部長はその後再婚して子供が二人生まれたけど、どちらも男の子で……。だから余計に生き別れになった娘さんの事を、こっそり興信所に依頼して消息を調べて貰う位、可愛くて心配してるのよ」
「そこまでするのは、やり過ぎのような気が……」
思わず沙織が感想を述べた途端、それに盛大に由良が噛みついた。
「泣けてくる位、いじらしい話じゃないの! それに今の妻子に見られたら、気を遣わせたり気を悪くするかもと心配して、興信所からの報告書とか隠し撮りの写真は、全部職場の机に置いてあるのよ!?」
「……退職したら、どこに隠すのかしらね」
沙織は思わず遠い目をしながらそんな心配をしてしまったが、彼女の反応は由良の怒りを増幅させただけだった。
「ふざけんな! そんな娘さんに対して色々と思うところがある部長の目の前で、あんた昨日、娘を心配して乗り込んで来た父親を、赤の他人のくせに父親面して余計な事はするなと散々詰った上、蹴り転がして泣かせたんですって!? 本当に血も涙も無い女ね!?」
「だから! それはちょっとしたはずみで! 別に本気で蹴ろうと思ったわけじゃないわよ!」
本気で弁解した沙織だったが、由良が恨めしげな声で話を続けた。
「私があんたの友人だと言う事を、同僚達が話していたのを課長が耳にしてね……。出勤したら課長にそのまま部長席に連れて行かれて、部長から昨日の一部始終を聞かされたの。『一之瀬さんがあまりに気の毒で、思わず貰い泣きしてしゃしゃり出てしまった』と部長がしみじみ語った途端、周りの同僚達から怒りの視線が突き刺さったわ」
「…………」
人望の篤い事で有名な富野部長の話で、その場の空気がどうなったのかが分からない沙織ではなく、思わず口をつぐんだ。
「騒ぎの後、部長が一之瀬さんを近くの喫茶店に連れ出して、色々な話をしたんですって。何でも最近、興信所の調査で娘さんの結婚が決まった事を知ったそうで、一之瀬さんを慰める合間に『せめて祝いを贈ろうと考えていたが、やはり父親らしい事を全くしていないのに、娘からすれば迷惑だろうか』と悩みを吐露したら、親身になって相談相手になってくれて、すっかり意気投合して連絡先を交換したそうよ。今度一緒に飲みに行くんですって」
「へぇ……、それはまた、何とも……」
「それで『君の友人が親に職場に乗り込まれて、気分を害したのは理解できる。一之瀬さんの行為が、あまり誉められた物では無い事も分かっている。だがもう少し、一之瀬さんに優しく接して貰えるように、君からやんわりと意見して貰えないだろうか?』と部長に懇願されたのよ」
「由良……、それって公私混同だと思うけど」
「うるさい! さっさと一之瀬さんに電話! そして『お父さん、昨日わざわざ職場に来てくれて、沙織はとっても嬉しかったわ! だけど裁判とかになったら社内で気まずくなるし、訴訟とかは止めて欲しいの。それから昨日は勢い余って、蹴り倒しちゃってごめんなさい。本当はお父さんの事は大好きだから、誤解しないでね?』って可愛く言ってあげれば、一件落着なのよ!」
途中、いつもとは全く異なる明るく軽い口調で由良が語った内容を聞いて、沙織は盛大に反論した。
「ちょっと由良! それ、どう考えても私のキャラじゃないから!」
「私のキャラでもないわよっ! さあ、さっさとこの場で電話しなさい! でないと、あんたとの友情もここまでよっ!」
ここで至近距離から睨み付けられた沙織は、抵抗を諦めた。
「……分かった。電話するから、手を離して」
「言っておくけど、スピーカーホンにしなさいよ? かけたふりをして、一人芝居で誤魔化すような真似はさせないわ」
まさにしようとした事を先回りして言われた沙織は、舌打ちしたいのを何とか堪えた。
「どれだけ信用がないのよ……」
「これに関しては、全く信用は無いわ」
「酷い言われようね」
きっぱりと断言された沙織は、渋々スマホを取り出しながら、チラリと友之の様子を伺う。
(全く……、どうしてこんな事に! 大体、他部署の人間が入り込んで業務を妨害しているのに、友之さんも他の人達もどうして傍観してるのよ!)
(沙織が言いたい事は分かるが、どのみち一之瀬さんを宥めて貰わないと困るし、この際吉村と頭を下げに行く前に、電話して貰おう)
申し訳なさそうな友之の視線を受けた沙織は完全に諦め、スピーカー機能をオンにした上で和洋に電話をかけた。
「沙織、どうかしたのか?」
(うわ、声が暗っ! そう言えば昨日うっかりフォローするのを忘れて、あのまま寝ちゃったし!)
さほど待たされる事なく和洋がそれに応答してくれたが、ここで沙織は迂闊な事に、昨夜彼に連絡しておくのをすっかり忘れていたのを思い出した。それで動揺しながらも、手の中のスマホに慎重に語りかける。
「ええと、その……、もう仕事中かしら? 私も今職場で、周りに同僚が居るから、あまり長話はできないんだけど……」
「ちょっと! 何をごちゃごちゃ言ってるのよ?」
途端に由良が不機嫌そうに小声で文句を言ってきたが、沙織にしてみればたまったものではなかった。
(これでこの会話は、周りに聞き耳を立てている人間がいるって悟ってよ!? 余計な事を喋ったら、電話と一緒に親子の縁も切るから!)
その怒りの一念は何とか伝わったらしく、和洋が慎重に問い返してくる。
「……ああ、うん。こちらも会社だが、大丈夫だ。だが、仕事中に電話して構わないのか?」
「うん……。それは構わないし、早めに電話しておこうと思ってね……」
「沙織。これ以上ぐだぐた言ってたら怒るわよ?」
再び由良が小声で恫喝してきた為、沙織は慎重に話を進めた。
「ええと……。その、昨日ははずみとは言え、蹴ってしまって悪かったわ……」
「いや……、沙織の職場で、騒ぎを起こした俺も悪かったし……」
「それで……、和洋さんが私の事を心配してくれたのはとても嬉しいんだけど、さすがに裁判沙汰になると本当に困るから止めて欲しいと」
「『和洋さん』じゃなくて、『お父さん』でしょうが!」
「分かってるわよ! ちょっと黙ってて!」
すかさず声を潜めながらも鋭く突っ込みを入れた由良に、沙織も小声で言い返す。
「沙織? どうかしたのか?」
「こっちの話だから。それでね? お父さんが私の事を心配してくれているのは、良く分かっているから」
「……沙織?」
「昨日はちょっと苛ついて酷い事を言っちゃったけど、お父さんの事は大好きだから、そこは誤解しないで欲し」
「さ、沙織ちゃあぁ~ん! お父さんも、お父さんも沙織ちゃんの事が大好きだよぅ~! 沙織ちゃんが裁判が困るって言うならそんなのは止めるから、いつまでもお父さんの事を好きでいてくれるかい!?」
いきなり感極まった口調で尋ねてきた和洋に、沙織は若干引きながら言葉を返した。
「そうね……、いつまでも好きでいてあげるわ……」
「うぅうっ、嬉しいよおぅっ!! 沙織ちゃあぁあぁ~ん!!」
「……私も嬉しいわ」
完全に泣き叫んでいる和洋に沙織はうんざりしながら応じたが、彼が急に泣くのを止め、地を這うような声で釘を刺してくる。
「但し、沙織ちゃん。今回馬鹿な事をやらかした奴らには、二度目は無いと言っておいてくれるかな?」
その恫喝を聞いてしまった友之と吉村は顔色を悪くしたが、沙織も肝を冷やしながら何とか話を纏めにかかった。
「分かったわ。私からちゃんと言っておくから。それじゃあ、仕事の邪魔をしてごめんなさい。そろそろ切るわね」
「うん、沙織ちゃんも仕事頑張って。またお土産を持って会いに行くからねっ!」
「……お待ちしてます。それじゃあまた」
最後の能天気な和洋の声を聞いて沙織は脱力しつつ通話を終わらせ、由良に視線を向けた。
「これで良い?」
「まあまあね。だけど、一之瀬さんが泣いて喜んでいたし、あんたの対応があれでも取り敢えずは良しとしましょう」
「あれ以上、何をどうしろと言うわけ!?」
上から目線でダメ出しをされた沙織は思わず声を荒げたが、由良はそれに構わずに話を続けた。
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