無事に松原家に到着し、電動のシャッターが上がっていく車庫の中にクラウンが吸い込まれるように停められて、沙織は完全に腹を括った。しかし出入り口とは反対側の壁に設置してある扉を抜けて、庭を歩き出した彼女は、立派な玄関の前に立って硬直する羽目になった。
「さあ、関本さん。レディーファーストですから、遠慮なくどうぞ」
鍵を開けてドアを開き、笑顔で譲ってきた義則に、そこまで言われて固辞もできず、沙織は神妙に頭を下げた。
「……恐縮です。失礼致します」
(勤務先の社長に、ドアを開けて貰うって……。なんかもう、本気で罰ゲームじみてきた)
既に車を降りた時から、スーツケースは友之が引いており、気持ちはありがたいけどこちらの心情も察して欲しいと、沙織は心底願った。そんな彼女が広い玄関に足を踏み入れると、車庫での物音が耳に入っていたのか、年の頃から考えると社長夫人兼友之の母に間違いない女性が、上がり口で待ち構えていた。
「いらっしゃい! あなたが関本さんね? ようこそ、ゆっくりしていって頂戴! 1ヶ月でも2ヶ月でも好きなだけ」
「母さん。それだと例の男に、同じだけ纏わりつかれる事になるから」
沙織の後ろから、友之が窘めるように言い聞かせたが、彼の母親である真由美は面白く無さそうに呟く。
「清人君に手を抜くように、こっそりお願いしておこうかしら?」
「母さん?」
「冗談よ、冗談! さあ、皆上がって頂戴。ご飯も出来てるし」
「頼むから、笑えない冗談は止めてくれ……」
(予想以上に、強烈キャラのお母様みたい)
息子に睨まれたものの、笑い飛ばした彼女は明るく三人を促し、前後二列になって歩き出した。すると軽く体を捻る様にして沙織を見ながら、真由美がしみじみとした口調で言い出す。
「でもやっぱり関本さんって、真澄ちゃんのように“華やか女王様”系でも、清香ちゃんのように“ゆるふわお姫様”系でもなくて、“孤高の女騎士様”系なのね。やっぱり身近な女性とは違うタイプに惹かれるって言うのは、本当みたいだわ」
「……はい?」
いきなり意味不明な事を言われて沙織は本気で戸惑ったが、友之は盛大に言い返した。
「母さん! だから関本は、そんなんじゃないって」
「だって関本さんって、周りからクールビューティー系って言われない?」
息子の叫びを丸無視しながら真由美が尋ねてきた為、沙織は一瞬考え込んでから告げた。
「クールビューティーかどうかは分かりませんが、最近私は『ツンデレならぬツンツンだ』と、職場の先輩に言われました」
「『ツンツン』って何の事?」
「ツンデレのデレ抜きの事です」
「ぶっ、ぶふぁあぁっ! ツッ、ツンツンって! うわははははっ! せっ、関本さん、面白いなっ! あはははは! はっ、腹が痛いっ!」
不思議そうな顔になった真由美に沙織が解説すると、いきなり義則がお腹を抱えて廊下に崩れ落ちるように膝を付き、爆笑し始めた。しかしそれを見ても妻子は動揺する事無く、沙織を連れて奥へと向かう。
「ほっとけ。行くぞ」
「え、えぇ!? いえ、あの、でも!」
「良いのよ。好きなだけ笑ったら、ちゃんと来るから。さあ、行きましょうね」
そして盛大に笑い続けているその家の主を放置して、三人は広いダイニングキッチンへと入った。
結局、真由美が料理を並べている間に、何とか笑いが収まったらしい義則が姿を現し、無事四人で夕食を食べ始めた。
「関本さん。食べられない物とか、苦手な物は無かったかしら? 友之に聞いておくのを忘れてしまって」
「アレルギーも好き嫌いもありませんし、大丈夫です。美味しく頂いています」
「そう? 良かったわ。お代わりが欲しい時は、遠慮無く言って頂戴ね?」
「はい、ありがとうございます」
まず気がかりな事を沙織に尋ねた真由美は、それが解決すると息子に向かって疑いの目を向けた。
「ところで友之。関本さんは直属の部下なんでしょう? まさかとは思うけど、パワハラとかセクハラとかしていないわよね?」
「何でそんな事を、言われなくちゃならないんだ!」
「私だって自分の息子が、自分の立場を利用して部下に手を出したとか思いたく無いわよ? でもねぇ……、一応確認しておこうと思って」
実の母親に大真面目にそんな事を言われて、友之は盛大に顔を引き攣らせながらも、いつもの声音で応じた。
「誤解だ。関本とはプライベートでも友人だが、疚しい事は一つも無いから。そうだよな?」
「はい。一応職場を離れた所では、『松原さん』とお呼びしていますが」
しかしその答えは、微妙に彼女のお気に召さなかったらしく、不満そうに問いかける。
「つまらないわ……。疚しい事が一つ位あるのが、男の甲斐性なんじゃないの?」
「母さん、怒るぞ?」
「ねえ、あなた?」
「ここで俺に聞くな。言っておくが、俺にも疚しい事は一つも無いぞ?」
「そうなの?」
(うん、パワフルなお母様と言って良いよね?)
そんな話を聞きながら、沙織は遠い目をしてしまったが、すぐに話の矛先が彼女に向かった。
「そうそう、関本さんのお名前は何て言うの?」
「沙織です」
「まあ、素敵な名前。じゃあ沙織さんって呼んでも良い? 私の事は真由美さんって、呼んでくれて良いから」
「ええと……」
さすがに戸惑った沙織を庇う様に、ここで友之が会話に割り込んだ。
「母さん。どうしていきなり名前呼びなんだ?」
「だってうちには『松原』姓の人間が三人いるし。沙織さんが呼びかける時に、区別が付かないと困るでしょう? 友之が『松原さん』だし。あ、主人は『社長』で構わないわ」
一応、筋は通っていた為、沙織は素直に頷いた。
「分かりました。真由美さんとお呼びします」
「ええ。ところで沙織さんって何歳なの? 主人が聞いたらセクハラだけど、女の私が聞いたら大丈夫よね?」
「真由美……」
「母さん……」
二人は(男の自分達が目の前で聞いていると、どのみち駄目なんじゃないだろうか?)とか(社長夫人の問いかけを無視できないから、どのみちパワハラじゃないのか?)などと思ったが、沙織は全く気にせずに正直に答えた。
「二十七です。来月二十八になりますが」
しかしここで、真由美が予想外の反応を見せた。
「……え? それじゃあ、友之の五つ下?」
「入社年度は松原さんの五期下ですから、そうだと思います」
「…………」
年齢を告げた途端真由美が黙り込み、男二人も無言のまま目を見交わす。それに従い、室内の空気が微妙に重苦しい物に変化した為、沙織は控えめに声をかけてみた。
「あの、それが何か……」
するとそれで我に返ったように、真由美がにこやかに微笑む。
「いえ、何でも無いのよ。若いって良いわね」
(何だろう? さっきちょっと、微妙な空気だったんだけど)
それからは和やかに世間話をしながら食べ進めた沙織だったが、その時の事が妙に心に引っかかっていた。
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