「今日は本当に、ご馳走様でした」
無事、夕方にはマンションに帰り着き、少し休んで行って下さいと部屋に友之を入れた沙織は、お茶を出しながら、改めて彼に礼を述べた。それに友之が、笑顔で言葉を返す。
「堪能して貰って何よりだ。本当だったら帰り道で夕飯を済ませてきても良かったんだが、中途半端な時間に帰り着いてしまって悪いな」
「いえいえ、海岸まで回って帰る途中で、しっかりフレンチトーストを頂いてきましたから。お昼も美味しかったけど、あれも絶品でした。もうお腹一杯で、夕飯は要らないです」
「そうか。それなら良かった。ところで、ちょっと聞きたかったんだが、お前がこれまで付き合ってた男は、このマンションに入った事はあるのか?」
ここでいきなり変わった話題に、沙織は目を丸くした。
「どうしてそんな事を聞くんですか?」
「単なる好奇心だが。言いたくなければ、言わなくても良い」
「別に構いませんし、誰もここに入れた事はありませんね」
「どうして?」
あっさりと言われた内容に、友之が再度問いかけると、沙織は少し考え込みながら事情を説明する。
「ええと……、何となく? 大学入学と同時に、既にここに住んでいた豊と同居を始めたんですが、豊がここを出て私が一人で暮らす事になった時、和洋さんが『ここに見ず知らずの男を入れたら、お父さん泣くからね!』って、既に泣きながら訴えてきたので。付き合っていた相手の家とか、外で会っていましたから」
それを聞いた友之が、何とも言えない表情になった。
「一ノ瀬氏にしてみれば、幸せな結婚生活の名残だろうからな。同情はする。だが、俺は中に入れて良いのか?」
「良いんじゃないですか?」
「どういう基準で?」
「既に、例の酔っ払って前後不覚になりかけて送って貰った時に、中に入って貰いましたし。和洋さんとももう顔を合わせてますから、見ず知らずの人では無いです」
そんな事を大真面目に言われてしまった彼は、額に手を当てて深い溜め息を吐いた。
「お前の判断基準は、やっぱり微妙にずれてるぞ。良く今まで騙された、トラブルにならなかったな」
「何ですか。いきなり失礼な」
「ところで沙織、今何時だ?」
「十七時四十五分ですが。それが何か?」
再び唐突に変わった話題に、沙織が訝し気な顔になりながらも答えたが、彼の問いかけは更に続いた。
「明日は月曜だが、それから導き出される就寝予定時刻は?」
「いつも通り、二十三時ですけど。それがどうかしましたか?」
「そうか。風呂に入ったり明日の準備をする時間を踏まえて逆算すると、二十二時までは暇だよな?」
「……確かにそうですが? さっきから一体、何ですか?」
微妙に不穏な物を感じ始めた沙織に向かって、友之が予想に違わぬ事を言い出す。
「時間が余ったし、せっかくだからここのベッドの寝心地を体感させて貰おうかと。安心しろ。沙織の貴重な睡眠時間を、削るつもりは毛頭無い。二十二時には帰る」
「あのですね……」
「さて、そうと決まれば、さっさと行くか。どの部屋だ?」
そう言いながら二人の間にあったテーブルを回り込んだ彼は、屈んだかと思ったら如何にも慣れた手つきで、軽々と沙織を横抱きにして立ち上がった。そのまま悠々とドアに向かって歩き出した為、いきなりの展開に軽く放心していた沙織が、慌てて声を上げる。
「……ちょっと! いきなり何をするんですか!」
「変わった奴だな。俵担ぎの方が良いのか?」
「そうじゃなくて! 何でいきなり、やる気満々なんですか!?」
「別に、いきなりじゃないぞ? 人が我慢して酒断ちしてる前で、昼日中から遠慮無く、如何にも美味そうに飲みやがって。きっちりとその落とし前を付けて貰おうじゃないか」
とても良い笑顔でそんな宣言をされてしまった沙織は、盛大に反論した。
「一応、遠慮はしましたよ! それに、そっちが飲めって勧めたんじゃないですか!?」
「そうだったか? 一滴も飲んでいない筈なのに、どうしてだかそこら辺は記憶が無いな」
「白々しい! とんでもない似非紳士野郎!」
「今後は気を付けろ。一つ勉強になったな」
そう言ってカラカラと豪快に笑った友之は、色々諦めた沙織に指示されて、寝室へと向かった。
「ただいま」
「あら、帰って来たの? てっきり今夜は沙織さんの所に、泊まってくるかと思っていたのに」
玄関から聞こえた物音に、リビングにいた真由美が様子を見に行くと、予想通り沙織とのデートに出かけていた息子が廊下を歩いている所に出くわして、少々不満げな顔つきになった。そんな母親に、友之が苦笑いで返す。
「明日は仕事があるから。月曜の朝から、バタバタしたくは無いんだ」
「確かにこれまでも、翌日に仕事がある日には、泊まってきた事は無かったかもしれないけど……。真面目過ぎるのも良し悪しだわ」
「十分のんびりしてきたし、楽しんできたさ。じゃあ、お休み」
愚痴っぽく呟いた母親に背を向けて友之は廊下を進み、階段を上がって行ったが、その背中に真由美が慌て気味に声をかけた。
「あ、友之。お風呂は今、義則さんが入っているわよ?」
「ああ、風呂はもう入って来たから、大丈夫」
さらっと言い返された内容を聞いて、真由美は一瞬戸惑ってから、笑って確認を入れた。
「……そうなの。お休みなさい。朝ご飯はいつもの時間で良いわね?」
「ああ、頼むよ」
振り返った知之の苦笑を見届けてから、真由美は満足げにリビングに戻って行った。
「おはよう、沙織!」
「……おはよう」
「どうしたのよ。月曜の朝から、生気が無いわね」
最寄り駅から職場に向かう途中で沙織に追いついた由良は、朝からどんよりした空気を漂わせている友人を不思議そうに眺めた。すると沙織が、しみじみとした口調で言い出す。
「ちょっとね……。取り敢えず、飲みたくても飲めない人の前で、殊更美味しそうに酒を飲むのはご法度だと、肝に銘じたわ」
「はぁ? あんたそんな情け容赦の無い事、本当にやったの? 見かけによらず鬼ね」
「容赦が無いのは向こうだって。しつこいし、根に持つし」
「何とでも言いなさい。話を聞く限り、あんたの自業自得でしょうが」
呆れ気味に由良が言い聞かせると、沙織が不承不承頷く。
「分かってるわよ……。二度としないって。ああなると分かってたら、中途半端に遠慮なんかしないで、昼日中でももっと飲んでおくんだった……」
「あんた、全然分かって無いわよね!?」
駄目だこのザル女と本気で呆れつつ、由良は職場に向かう道すがら、延々と沙織に説教したのだった。
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