酸いも甘いも噛み分けて

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(26)一応の収束

公開日時: 2021年8月7日(土) 21:55
文字数:4,310

「失礼します、一之瀬社長。宜しかったらこれをお使いください」

「え?」

 反射的に涙に濡れた顔を上げた和洋に、彼は重ねて穏やかに言い聞かせる。

「余計なお世話かもしれませんが、仮にも上場企業のトップであられる方が、他企業の社屋内で醜態を曝すのは控えた方が宜しいかと。まずは少しだけ、心を落ち着かせましょう」

 それで瞬時に自制心を取り戻した和洋は、軽く頭を下げてハンカチを受け取った。


「……確かに。申し訳ない。使わせていただきます」

 そして顔にハンカチを当てながらゆっくりと立ち上がった和洋を、その人物が支えるようにしながらエントランスの隅に誘導していく。


「向こうに座る場所がありますので、どうぞそちらに。スーツについた埃なども払い落としますから」

「面目ない。お恥ずかしい所をお目にかけました」

「いえ、一昨日からの騒ぎは、私も小耳に挟んでおりました。父親であれば、娘の立場を案じるのは当然の事。心中お察しします」

「本当に私事でお騒がせして、こちらにご迷惑を」

「お気になさらず。そちらの胸中を穏やかならぬものにしてしまった松原工業の一員として、また面白おかしく騒ぎ立てる部下を制止できなかった管理職の一人としても、そちらにお詫びしなければならない立場ですから」

 穏やかな口調で語り合う二人の動きに合わせて、人垣が即座に左右に割れ、通りすぎると同時に再び人波にその姿がかき消される。それと同時に周囲にざわめきが戻り、退社する社員が一斉に動き出してエントランスはいつも以上の混雑ぶりになったが、二人を半ば呆然と見送った佐々木は、沙織に確認を入れた。


「さっきの人は……、確か総務部の富野部長でしたよね?」

「そうね。社内でも一、二を争う人格者として有名だし、和洋さんを適当に宥めて帰してくれそう。本当に助かったわ、後でお礼を言わないと」

 本気で胸を撫で下ろした沙織だったが、そんな彼女に佐々木は再び猛然と抗議した。


「そういう問題じゃないですよね!? 先輩、お父さんの扱いが酷すぎませんか!?」

「どうして私が、文句を言われなくちゃならないのよ!」

「関本! 一之瀬さんはどうした!?」

「課長?」

「一体、どうしたんですか?」

 そこで人波をかき分けて現れた友之にいきなり尋ねられ、二人は本気で面食らった。


「どうもこうも……。受付から、関本が今にも相手に掴みかかりそうな勢いで、一之瀬さんを罵倒していると連絡を貰ったものだから、関本を止めに来たんだが……」

 周囲に和洋の姿が見当たらない事を訝しく思いながら尋ねてきた友之に、佐々木が心底残念そうに首を振った。


「課長……、一足遅かったです。既に先輩がお父さんを足蹴にして、蹴り転がした後です」

「は? おい、それは本当か!?」

 打ち合わせではそこまで酷い事にはならない筈であり、一体何があったかと友之が慌てて問い質したが、沙織はそれを無視して佐々木に怒鳴り返した。


「そんなわけないでしょう! 佐々木君、人聞き悪すぎるわよ!」

「何を言ってるんですか! 誰がどう見てもそうでしたよ!」

「冗談じゃないわ! 頭にきた! 開発部に申し入れ書を出したら、その足で帰らせて貰うから! 今日の仕事はそれで終わりだしね!」

「ちょっと待ってください!」

「それじゃあ、お疲れ様!」

「先輩!」

 本気で腹を立てた沙織が捨て台詞を残し、佐々木が引き止める声を無視して猛然と歩き出した。


「……佐々木。取り敢えず二課に戻って、ここで何があったのか聞かせて貰う」

「分かりました」

 沙織の剣幕を見て、微妙に顔を引き攣らせた友之に促され、佐々木は納得しかねる顔付きのまま職場に戻った。そして何事が生じたのかと心配していた二課の面々の前で、怒りを露わにしながら一部始終をぶちまけ、沙織の非情ぶりを訴えた。


「そんなわけで、富野部長に宥められた一之瀬さんが、いつの間にか部長と一緒にエントランスからいなくなっていたんですけど……。先輩の、一之瀬社長に対する態度は酷すぎますよね!? あの人は鬼か!? 仕事はできても、プライベートはダメンズ好きのグダグタだとは思っていましたが、親子関係まで絶対零度だとは思っていませんでしたよ!!」

「佐々木……。気持ちは分かるが、ちょっと落ち着け」

「どこが『美人である以上に心根が優しい』んだよ……」

「親の欲目って、ある意味凄いよな」

「課長。そんな騒動が生じてしまって、一之瀬社長の心証が益々悪化しないでしょうか? 関本に罵倒されたのが、吉村達のせいだと逆恨みしたりとか」

「…………」

 杉田が難しい顔になりながら口にした懸念を聞いて、吉村の顔色が悪くなったが、彼が何か言う前に友之が先回りして強い口調で言い聞かせた。


「吉村。気持ちは分かるが、関本と一之瀬社長、今日はどちらにも電話はするな。勿論、自宅に押しかけるなどもっての他だ」

「ですが課長!」

「二人とも、今日は冷静とは言い難い。そんな時に何を言っても無駄だ。事態を悪化させる事はあっても、改善させる事など無理だ」

「しかし!」

「課長の言う通りだ。君も今夜は頭を冷やすんだな。今日はもう帰って、おとなしくしていろ。明日、仕切り直しだからな」

「……分かりました」

 友之と杉田に二人がかりで言い聞かされ、吉村は肩を落として退社していった。

 その後、興奮している佐々木を何とか宥めてから帰した友之は、重い溜め息を吐きながら残っていた仕事を片付け、あまり遅くならないうちに帰宅した。


「母さん、沙織は部屋かな?」

「ええ。夕食を食べ終えてから、ずっと部屋にいるわ」

「やはり機嫌が悪そうだったがな」

「……そうだろうな。今日は筋書き以上の展開だったし」

「何があった?」

「食べてから説明する」

 リビングにいた両親に挨拶し、夕食の後で簡単に事情を説明した友之は二階に上がり、気合を入れて沙織の部屋のドアをノックした。


「沙織、入っても良いか?」

「……どうぞ」

 一瞬の静寂の後、短く返事が返って来たのを受けて、友之は静かに部屋に入った。すると沙織はベッドの上に仰向けに転がり、目の前に持ち上げたスマホを何やら操作していた。入って来た自分に目を向けず、相変わらずスマホを見続けている彼女に、友之は小さく溜め息を吐きながら歩み寄る。


「その……、今日は色々大変だったな」

「……お気遣いなく」

 声をかけてから友之は、沙織の足元の方でベッドの端に座り、真顔で申し出た。


「沙織、取り敢えず今、俺にして欲しい事は無いか?」

「はぁ? いきなり何?」

「気が済むなら、殴っても構わないが」

「誰が殴るか」

 漸く視線を向けてきたものの、如何にも不機嫌そうに応じられた友之は、思わず弁解じみた台詞を口にした。


「ああ、うん。今のは一応、言葉のあやなんだが……。周りにお義父さんを蹴り倒したとか言われてしまった日に、殴る蹴るとかするとは思えないし」

「…………」

 そこで沙織は更に顔を顰めながらゆっくりと起き上がり、膝立ちのままベッドの上をにじり寄って来た。その不穏な気配に、友之は内心で肝を冷やす。


(これは本気でしくじったか? 二、三発本気で殴られるかもしれんな)

 微動だにしないまま、友之がそんな覚悟を決めていると、沙織は益々面白く無さそうな顔付きになりながら、些か乱暴に彼の膝の上に頭を乗せつつゴロンと横になった。そして友之ではなく向かい側の壁に顔を向けながら、何やらブツブツと悪態らしいものを呟く。その状況に、咄嗟に反応に困った友之は、動く事もできずに固まった。


「あ、その……、沙織?」

「何よ。何か文句あるの?」

「いや、このパターンは初めてだなと……」

「それで? あれだけ騒いで、吉村の奴をおとなしくさせられなかったら、承知しないわよ?」

 顔を合わせないまま言われたその一言で、友之は瞬時に真顔になって断言した。


「それは大丈夫だ。あいつは相当肝を冷やしたし、本当に反省している。父さんの話では、田宮さんも相当顔色を無くしていたそうだ」

「当然よ。今回の事で私の愛人疑惑は吹っ飛んだでしょうけど、社内で地も涙もない冷血女のレッテルが貼られたでしょうね」

「沙織、そこまで悪し様に言う人間は」

「どうせ佐々木君も、それ位言ってたでしょう?」

「いや……、もう少し穏当な表現だったと思うが……」

 宥めようとして失敗した友之は、口ごもって沙織の側頭部から視線を逸らした。そこで沙織が盛大に舌打ちし、腹立たし気に言い出す。


「全く! そもそもあのホテルで、和洋さんが私に抱き付いてきたのが悪いんじゃない! あんな写真を吉村に撮られたりするから!」

「確かにそうかもしれないがな……。やはりお義父さんは沙織の事が、今でも可愛くて仕方がないし」

「もっと言えば、友之さんが待ち合わせ場所をあっさり漏らして、いなくなっていたのが原因よね!?」

「全面的に俺のせいだな。すまない」

「……もういいわよ。言っても仕方ないし」

 ここで(言ってるよな)などと言おうものなら十倍になって言葉が返ってくる事が分かっていた友之は、これ以上余計な事は言わなかった。しかし微妙に怒った状態から拗ねている状態に移行したと察した友之は、努めて冷静に、かつ穏やかに声をかける。


「だがこれで、沙織の不名誉な噂は自然消滅するだろうからな。ついでに『部下の個人情報を厳守する理解のある上司』の肩書を周囲から貰えそうな俺は、すっかりご立腹な奥様にお詫びの意味を込めて、明後日の土曜日にドライブ付きの温泉に一泊二日でご招待したいんだが、ご都合は?」

 それを聞いた沙織が、ピクリと身じろぎする。


「……温泉?」

「箱根の強羅、館内設備にエステサロンやプール、部屋には露天風呂あり。二食とも部屋食、特選料理対応」

「良く取れたわね」

「父さんに伝手を頼って貰った。どうだ?」

「特に予定は無いし、お義父さんの手まで煩わせて、断るのは申し訳ないでしょうが。二日前ならキャンセル料だってかかるだろうし」

 ぼそぼそと沙織がそう呟くのを聞いた友之は、苦笑しながら軽く彼女の頭を撫でつつ、話を続けた。


「よし、それなら決まりだ。それから何か欲しい物があったら買ってやるから、この際、遠慮なく言って良いぞ?」

「いつも、自分のお給料で買ってるけど」

「偶には良いだろう。それに今後、この事を持ち出して幾らでも強請って構わないからな」

「しないわよ、そんな事」

「そうか? 因みに母さんは、若い頃に夫婦喧嘩した時の事を持ち出して、時々高い物を父さんに強請ってるぞ?」

「お義父さん……、一体どんなネタをお義母さんに掴まれたのよ」

「それは俺も知らない。知らない方が良い気もするし」

 そこまでふくれっ面だった沙織はここで思わずくすくすと笑い出し、友之も笑みを深めてその話を終わらせ、騒動は一応の収束を迎えた。


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