「沙織ちゃあぁ~ん! 会いたかったよぉうぅ~!」
「和洋さん、どうしてここにいるのよ?」
「今日は松原工業との契約更新に来たんだよ!」
「……そう。社長自ら足を運ぶなんて、和洋さんも大変ね」
「一之瀬社長!? 何でこんな所に、いきなり出てくるんですか!?」
そこで二人が芝居を始めると同時に驚きで固まった佐々木が、遅れて驚愕の叫びを上げる。
(うん、佐々木君、ナイス突っ込み。しかもサッカーで鍛えた肺活量のせいか、声がエントランスの隅々まで良く通ること)
確実に社員達の流れが止まり、自分達の回りに十重二十重に人垣ができつつあるのを沙織は察した。それは和洋も同様で、わざと周囲に聞こえるように普段より大きめの声で話し出す。
「何だね、君は。失礼だな。それに誰の許可を得て、俺の沙織と一緒にいるんだ?」
「佐々木君は、組んで仕事をしている後輩よ。絡まないで頂戴」
「『俺の沙織』って……。え? やっぱり先輩は、この人の愛人なんですか?」
混乱した佐々木がそんな事を思わず口走った途端、和洋は鬼の形相になって彼を叱りつけた。
「何だと、失敬な!! 沙織と私はれっきとした親子だ!! 娘の事を俺の娘と言って何が悪い!!」
「はあぁあ!? 関本先輩が一之瀬社長の娘!? 名前が違うのに、どういう事ですか!!」
予想もしていなかった事を言われた佐々木は動揺して声を張り上げ、両者のやり取りを耳した周囲も、困惑した顔を見合わせる。
「何だ、どうした?」
「ほら、一昨日から噂になってる、あれだよ」
「だけど親子とか言ってるぜ?」
「えぇ? どういう事?」
(ギャラリーは十分か……。全く誰かさんのせいで、こんなくだらない小芝居をする羽目になるなんて……)
沙織はさりげなく周囲を見回し、内心の憂鬱さを押し隠しながら佐々木に解説した。
「佐々木君、和洋さんと私の名字が違うのは当然よ。両親が離婚してからは、母方の名字を名乗っているから」
「ですが、先輩の父親は亡くなっていると聞きましたが!? それに『和洋さん』とか、この人を名前で呼んでいるじゃありませんか!?」
「子供の頃、母から『もうあいつは沙織の父親でもパパでもないから、名前で呼びなさい』と厳命されて、名前呼びの癖がついたのよ。別に他人に迷惑をかけるわけじゃないし、構わないわよね?」
「構わないかもしれませんけど、紛らわしいですよ! それならそうと、どうしてさっさとその事実を公表しないんですか!? そのせいで先輩は実の父親の愛人だなんて、不名誉極まりない噂を立てられているんですよ!?」
「そんな馬鹿な噂を真に受けるのは、馬鹿な人間だけよ。相手にするだけ馬鹿馬鹿しいわ」
「先輩! 確固たる信念を持っているのは美点だと思いますが、時と場合によると思います!」
相変わらず淡々とした口調の沙織と、徐々に声を荒げる佐々木のやり取りを聞いて、周囲の社員達は驚きつつも納得し、退社する人の流れが緩やかに生じ始める。
「何だ……、実の親子だって?」
「つまらんオチだったな」
「誰だよ、そんなガセネタ流したの」
しかしここで和洋の声高な叫びがエントランス中に響き渡り、社員達は再びその足を止めた。
「君の言う通りだ! 沙織の名誉を傷つけられて、黙っていて良いものだろうか? いや、良いはずがない!! だから俺はここの社内でつまらん噂を流した奴等を突き止め、さっき宣戦布告してきた!! 沙織! お前の名誉はお父さんが守ってあげるから、安心しろ!!」
「はい?」
「ちょっと待って。宣戦布告してきたって、一体何をしてきたの?」
わけがわからずに佐々木は首を傾げたが、沙織は予定通り慌てた様子を装いながら詳細について尋ねた。それに和洋が、得意満面で答える。
「犯人どもに証拠を掴んでいる事を告げた上で、訴訟を起こす事を宣言してきた。名誉毀損で訴えて、慰謝料をふんだくった上で松原工業から放逐して、ありとあらゆる手段を使って再就職を妨害して、路頭に迷わせてやるからな!! お父さんに任せておけ!」
言い放った後は「うわはははは」と高笑いしている和洋を見て、佐々木は「訴える……、放逐って……」と、さすがに動揺したが、沙織はシナリオ通り相手を叱りつけた。
「訴訟ですって!? 何勝手に、頼んでもいない事をしてるの! 冗談じゃないわ!」
「え?」
「先輩?」
彼女の叫びに男二人は困惑したが、和洋はすぐに沙織に向かって訴えた。
「だって沙織ちゃん! 社内で陰口を叩かれたり、有ること無いこと吹聴されたりして、肩身の狭い思いをしているんだろう!? そんなのお父さんは我慢できないんだ!」
「ふざけないで! 自分の父親が勤務先の社員相手に訴訟なんか起こしたら、今後の私の経歴にどれだけ傷を付けると思ってるのよ!? それと比べたら今回の噂なんて、どうでもいい代物だわ! 放っておけばすぐに消えるわよ!」
「そんな! 沙織ちゃん!」
「良く考えてみなさい! あんな根も葉もない与太話を頭から信じるなんて、相当頭の軽い人間よ! それとも何? 和洋さんは松原工業の社員が、そんな馬鹿揃いだとでも言うつもり? 松原工業に対する侮辱だわ!」
「…………」
本気で怒り狂っているようにしか見えない沙織の叫びに、噂が広がってから面白おかしく取りざたしていた社員達は、後ろめたさを感じて微妙に沙織達から視線を逸らす。自分達の周りを囲んでいる殆どの者がそんな反応を見せた事で、佐々木は無言で渋面になったが、沙織の訴えはまだまだ続いた。
「大体ね! あのマンションだって、好き好んで住んでいるわけじゃないのよ? 『遊ばせておくのは勿体ないから住んでくれ』って頭を下げて頼まれたから、住んであげているんじゃない。一人で3LDKに住むなんて、広くて持て余すわよ。掃除するのも手間がかかるのよ? その挙げ句、贅沢な所に住んでいるから愛人とか? 今回の騒ぎで、アホらしくて完全に住む気が失せたわ。さっさと出るから、賃貸にでも出しなさいよ!」
「だっ、だけど沙織ちゃん! あそこは家族全員で住んでいた頃の、愛の思い出が詰まっているんだよ! 他の誰一人として、あそこに入れたくないんだ! だから沙織ちゃんにあげるから、沙織ちゃんが将来愛のある家庭をそこで築いてくれたら、俺はそれだけで満足」
「はぁ!? 愛のある家庭!? どの口がそれを言うわけ!? お母さんが妊娠中、里帰り出産で留守にしていた時、あそこに浮気相手を引っ張り込んだ挙げ句、お母さんと私に現場を目撃されたくせに。あんな縁起の悪いところ、寧ろ結婚が決まったと同時に出るに決まってるでしょうが!!」
「そんな……。沙織ちゃん……」
吐き捨てるように言われた和洋はショックを受けたように沙織の前で床に崩れ落ち、両手をついて項垂れた。それを見た周囲のそこかしこから、囁き声が伝わってくる。
「うわぁ、何だか凄い話だな」
「一人で3LDK暮らし? 羨ましいぃ~」
「あの父親、随分甘やかしてるよな」
「しかし見た目まともなのに、とんでもないゲス親父だぞ」
「だけど娘の方も、相当キツいぞ?」
「気持ちは分かるけどな……」
それを耳にして微妙に苛つきながら和洋の前で仁王立ちになった沙織は、彼を見下ろしながら横柄に言い放った。
「小さな子どもがお弁当を忘れたわけじゃあるまいし、自活している娘の職場に乗り込んで喚き立てる行為が、どれだけ娘の立場を悪くするか分からないわけ? 分かったら裁判沙汰なんてふざけた考えはすっぱり捨てて、とっとと帰って。仕事の邪魔よ」
しかしここで、本当に精神的ダメージを受けてしまったらしい和洋が、涙ぐみながら両手で沙織の右足首と脛を掴み、悲痛な叫びを上げた。
「だけど沙織ちゃん! 俺は本当に、沙織ちゃんの事が心配で心配で!」
「くどいしウザい! いい加減にして!!」
「……っ!」
「あ……」
どこまでこの茶番を続けなければいけないのかと、本気で苛立ってきた沙織が、掴んでいる和洋の手を剥がそうと右足を軽く振ろうとしたが、予想以上に動きが大きくなってしまい、彼の右肩に足先が当たってしまった。それに加えて和洋が中腰での前傾姿勢になっていた事で、呆気なく仰向けになりながら左側に転がる。
「おいっ!」
「きゃあっ!」
途端に周囲から短い悲鳴が上がり、一斉に非難を込めた視線が沙織に突き刺さる。そして呆然自失状態の和洋がのろのろと上半身を起こし、再び床に座り込むのと同時に、佐々木がしゃがみこんで彼に声をかけた。
「先輩! 何をやってるんですか!? お父さん、大丈夫ですか?」
「さ、さおり、ちゃ……、ふぅえぇっ……、おっ、おれはぁ、あっ……」
(振り払っただけのつもりが、まともに転がっちゃった……。だって和洋さんが、足にすがり付いたりするから!)
狼狽する佐々木の前で和洋はうずくまり、哀れっぽくしくしくと本気で泣き出してしまった。さすがにやり過ぎたと思ったものの、今さら芝居を止められない沙織が内心で狼狽していると、周囲からぼそぼそと自分を咎める囁き声が伝わってきた事で、彼女の機嫌が急速に悪化する。
「何かあのおっさん、泣き出したぞ?」
「どうするんだよ、あれ……」
「うわぁ、幾らなんでも、お父さんが気の毒すぎる」
「そうよね。何も足蹴にしなくても……」
「気に入らないのは分かるけど、物事には限度って物があるだろ」
「ひっどい女だよな」
刻一刻とその場の空気が悪くなる中、そこで佐々木の反対側に膝を付きながら、一人の初老の男性が和洋に向かってハンカチを差し出しつつ、彼に優しく声をかけた。
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