「さて……、何とかしてやるにしても、どこでどう話を進めれば良いものか……」
息子夫婦のやり取りを聞いてから義則は密かに考え込んでいたが、特に妙案が浮かばないまま土日が過ぎてしまった。
そして迎えた月曜日。出社してから社長室で一人考え込んでいると、ノックに続いて男女二人が入室してくる。
「社長、失礼します」
「ああ。どうかしたのか?」
秘書課長の南波と共に、これまで何度か自分に付いた事がある新見聖乃が姿を見せた為、義則は怪訝な顔になった。すると南波が彼の前で軽く一礼してから、事情を説明する。
「社長、申し訳ありません。倉橋がインフルエンザに罹患しまして、出勤できなくなりました。その間この新見が、社長の担当となります」
「倉橋先輩と比べましたら至らない点が多々あるかと思いますが、精一杯努めさせていただきます」
それを聞いた義則は、普段は自分付きの秘書が姿を見せていない事について、納得して深く頷いた。
「そうか、了解した。どのみち年内の勤務は今日と明日だけだし、倉橋さんにはきちんと養生するように伝えてくれ」
「お伝えします。それでは新見君、後は頼んだ」
「はい。それでは社長。本日のスケジュールを確認しても宜しいですか?」
「ああ、頼む」
「それではまず、十時からの役員定例会議ですが」
時間を無駄にせず、聖乃は早速ファイルを開いてスケジュールの確認を始め、それを確認した南波は無言で一礼し、社長室を出て行った。そして義則は聖乃の顔を眺めながら、つい先程まで考えていた事を思い返す。
(新見さんは倉橋さんよりかなり若いし、沙織さんとも年が近いな。結婚云々の話は聞かないが、さり気なく意見を聞くにはちょうど良い相手かもしれん)
彼女の顔をぼんやりと眺めながらそんな事を考えていると、報告を終えた聖乃が訝しげに声をかけてくる。
「あの……、社長? スケジュールの確認が終わりましたが、宜しかったでしょうか?」
それで我に返った義則は、慌てて言葉を返しつつ話を切り出した。
「あ、ああ。特に変更も無かったな。大丈夫だ。ところで新見さんに聞きたい事があるのだが、少し時間を貰っても良いかな?」
「はい。何でしょうか?」
「例えば新見さんが、南波課長と恋愛関係になった場合を考えて貰いたいのだが」
「……はい? 課長は既婚者ですが?」
忽ち不審そうな顔になった聖乃を見て、義則は相手に誤解されかねない表現だったと悟り、即座に謝罪した。
「すまない。私の言い方が悪かった。別に君と課長が不倫関係だと疑っているわけでは無いし、本当に例え話なのだが……。自分の上司と恋愛関係になった場合、女性側は色々と考える事が多くないかな? 特に現在の職場で、勤務が続けられるかどうかとか……」
最後は曖昧に誤魔化しながら尋ねてみると、聖乃は一瞬強ばらせた表情を緩めながら考え込んだ。
「はぁ……、そうですね。配属先は異なりますが、確かに直属の上司と結婚をした同期の女性がいて、彼女は今でも勤務を続けていますが、婚約が明らかになった時点で配置転換になりました。他にもちらほら、先輩達から話に聞いた事があります。就業規則に明記されてはおりませんが、やはり暗黙の了解みたいなものですね」
「やはりそうだろうな……」
「それがどうかしましたか?」
難しい顔になって溜め息を吐いた義則に、聖乃が再度不思議そうに尋ねる。それを受けて、義則は尤もらしい事を口にした。
「その……、やはり結婚する事を理由に、有能な人材を配置転換するのはどうかと思うんだ。各個人が最大限に能力を発揮できる職場環境を整えるのが、経営者としての使命だと考えているからね。しかし役員会でどう話を進めていけば良いか、考えあぐねていて」
「まあ……、そうでしたか……」
「先程君が述べたように、就業規則に禁止事項として明記されているわけでもない。それで」
「社長。意見を申し上げてもよろしいでしょうか?」
「それは構わないが、どうかしたかな?」
急に自分の台詞を遮ってお伺いを立ててきた聖乃に、義則は(彼女らしくないな)と思いつつも了承した。すると彼女は、予想外の事を言い出す。
「それは役員会で提案するより、寧ろ、まず労働組合で議論すべき内容だと思います」
「組合?」
「はい。一昔前前まで世間では、産休育休復帰後に従来通りの勤務ができないからと、配置転換を求められる例が多々ありました。それに対する労働争議が生じた事もあります」
「ああ、覚えている。妊娠出産を理由に配置転換を強いるのは違法だと、他社の裁判で判決が出た事もあったな」
その指摘に義則が頷くと、聖乃もすこぶる真顔のまま話を続ける。
「はい。現在では基本的に以前の職場への復帰が認められていて、本人と協議して了承した場合にだけ配置転換となっています。今後労働人口が縮小する中、活躍している有能な社員に如何に能力を発揮し続けて貰うかを考える事は、経営面でも重要事項であると思われます」
「全くその通りだ」
「たかが結婚で活躍の機会を奪われるなんて、重大な人権侵害です。改めて問題提起すれば、きちんと組合が経営側と協議して、同部署所属者同士の結婚でも片方を配置転換などさせないように、明文化させる事は可能かと思います」
「なるほど。いや、その方面からの視点は欠けていたな」
すっかり感心して何度も頷いている義則に、聖乃は重ねて提案した。
「社長。差し支えなければ、私から組合の方に話を通してみますか?」
「新見さんから?」
「はい。経営陣トップの社長からの問題提起となると、何か裏があるのではないかと勘ぐる頭の固い方が、組合上層部にいないとも限りません。幸い私の知人に組合執行部に顔が利く人がいますので、その人に私個人の考えとして伝える事にしたいのですが」
そんな渡りに舟の提案に、義則は安堵しながら頷く。
「確かに、頭の固い連中はいるな。新見さんさえ良ければ、それでお願いしたいのだが」
「分かりました。もう年末ですし、年明けには春闘が始まりますから、今からですとそこで議題を出すのは無理があるかと。ですが来年の秋闘の時期までには組合内で意見集約をして、きちんと素案を固めた上で要求として出せると思います」
「確かにそうだな。君の知人にも手間暇をかけさせる事になるかもしれないが、宜しく頼む」
「いえ、大した事はありませんし、今日社長からお話を伺って、とても感動しました」
「え? どうしてかな?」
ここまで冷静に理路整然と述べていた聖乃が、急に嬉しそうな笑顔で言い出した為、義則は不思議に思って問い返した。すると彼女は更に笑みを深めながら、感極まったようにその理由を告げる。
「我が社のトップである社長が、こんなにも社員一人一人の職場環境に対して心を砕いて下さっていたなんて……。その事実を知って、感動しない社員なんておりませんわ!」
「そ、そうかな……」
「そうですとも! 松原社長の下で働く事ができて、私は本当に幸せです。社長は我が社が誇る、経営者の鑑です!」
「それは多少、大げさだとは思うが……」
「謙虚でいらっしゃるのも、社長の美徳の一つですね。それでは他にお話が無ければ、下がって宜しいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「書類を作成しておりますので、ご用がある時はお呼び下さい。それでは失礼します」
「ああ、その時は宜しく」
満面の笑みで頭を下げた聖乃を見送った義則は、一人取り残された室内で深い溜め息を吐いた。
「あそこまで持ち上げられると、さすがにちょっと気恥ずかしいし、申し訳ないな」
義則は聖乃の反応に後ろめたさを覚えながらも、予想外に上手くいきそうな可能性が出てきた事で、気分良くその日の仕事に取りかかった。
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