「ええと……、おはよう、薫」
「ああ、起きたか。ほら、そっちに並んで座れよ」
何とか体裁を整えた二人がリビングに顔を出すと、薫は無表情で自分が座っていた方とは反対側の椅子を指し示し、静かに立ち上がった。
「……お邪魔しています」
沙織に続いて、友之が神妙な面持ちで軽く頭を下げたが、薫は淡々と事務的に尋ねてくる。
「別にここは俺の家じゃ無いので、お気遣い無く。食物アレルギーとかは有りますか?」
「いえ、全く」
「それは良かったです。どうぞ、座って下さい。今、ご飯と味噌汁を出します」
「すみません。ご馳走になります」
そして二人が大人しく席に着き、ダイニングテーブルを挟んで食べ始めると同時に、沙織が少々攻撃的な口調で弟を問い質した。
「薫。あんたどうして、いきなりここに来たわけ?」
「先々週、家に帰って来ただろう?」
「それが?」
「どことなく変だったから、探りに来た。多分、新しい男かと思ったから、いつも通り沙織の日記を覗こうかと思ったら、タイムリーに男が来ていたのには笑った。予定通り、中身は一通り見せて貰ったけど」
「…………」
そこで初めて能面のような無表情が崩れ、皮肉気な笑いが浮かんだ彼の顔を見ても友之は無言を保ったが、とても納得できない内容を聞かされた沙織は、一気に激昂した。
「別に家でも普通だったよね!? それに、いつも通りって何!? あんたこれまで私のパソコンの中を、勝手に頻繁に覗いていたわけ!? パスワードをどうやって」
「沙織が考え付く内容なんて、粗方想像が付く」
「あっ、あんたねぇぇっ!」
箸を放り出すようにテーブルに置き、勢い良く立ち上がった沙織の腕を掴まえながら、友之が宥める。
「沙織、取り敢えず落ち着け」
「でも!」
「さすが年上の余裕ですね。松原友之さん?」
不敵な笑みを深めながら自分に向かって呼びかけてきた薫を、友之は些か警戒しながら問い返した。
「……今から、自己紹介をしようと思っていたんたが?」
「勤勉で結構ですね。プライベートでも免許証入れに、名刺を入れて持ち歩いているとは。日記にも色々書いてありましたが、勤務先が見覚えのある社名と部署名で、驚きましたよ」
完璧に身元がバレている事を悟って、友之は完全に腹を括った。
「ああ、沙織は直属の部下になる」
「そうですか。公になったら、些か面倒ですね。モラハラとかパワハラとか非難されそうだ」
「…………」
「ついでに、俺の自己紹介もさせて貰います。関本薫です。別に、宜しくして頂かなくても結構です」
無言で顔を顰めた友之に向かって、薫はどこからともなく取り出した名刺を差し出した。それを反射的に受け取った友之が、無意識に呟く。
「……弁護士。お母さんと同じ?」
「職業は同じですが、勤務先は違います。それで沙織、ここに来た理由だが」
「私の私生活を、探りに来たんじゃ無いの?」
「今のはついでで、単なる前振りだ」
「あのね……」
友之に喧嘩を吹っ掛けたのかと思いきや、急に話の矛先を向けてきた弟に、沙織はうんざりした表情になった。しかし予想外の台詞を耳にして、再び思考が停止する。
「見合い」
「はい?」
「今日の午後一時から、都内のホテルで会食。愛知県弁護士会会長の仲介だから、下手に断れない。そして沙織が先々週来た用件で、あれ以降母さんがブチ切れていて、それを伝えるのをすっかり忘れていたそうだ。因みにこれが相手の写真」
そう言いながら、薫が隣の空いている椅子に予め乗せておいたらしい、白のキャビネアルバムをテーブルの上に乗せた為、沙織の顔が盛大に引き攣った。
「あの、ちょっと待って、薫。見合いって……」
「薫君? 沙織は」
沙織が動揺する以前に、目の前でそんな話をされて腹を立てた友之が口を挟もうとしたが、薫はそれを如何にもわざとらしい笑顔でぶった切った。
「これは松原さんには全く関係の無い話なので、口を挟まないで貰えますか? あくまで家族間の話ですので。それにこれまでの沙織の恋愛遍歴から考えると、どうせあなたとの付き合いも長続きしないでしょうし。最短五日で最長三ヶ月とは、本当に恐れ入る。松原さんはせめて、半年は頑張って下さい。一応弟として、新記録樹立を温かく見守るつもりですから」
(こいつ……、完璧に喧嘩売ってるよな?)
最後は完全に馬鹿にした笑いを浮かべた彼に、友之は盛大に闘争心を掻き立てられたが、さすがに沙織の弟相手に本格的に揉めて良いものかと、内心で葛藤した。そんな彼の隣で、沙織が益々喚き立てる。
「薫! あんた今まで、どれだけ私のパソコンから情報を取ってたの!? 家族と言えども、れっきとした犯罪よ!」
「へえ? 沙織は俺を犯罪者にして、弁護士バッヂを剥奪させたいんだ。じゃあ責任取って、一生俺の面倒を見てくれるのか?」
「それは……」
「まあ、取り敢えず見ろ」
「あのね! 私は見合いも何も……」
「……え?」
姉の抗議など歯牙にもかけず、薫がアルバムを取り上げて中を開いて見せた。それを目にした沙織と友之が、揃って当惑する。
「薫、どう見ても女性なんだけど?」
その疑問に、薫が素っ気なく答える。
「俺が見合いするんだから、当然女だろうが。俺は沙織の見合いだなんて、一言も言って無い。勝手に何を勘違いしてるんだ」
「あっ、あんたねぇぇっ!!」
沙織が更に怒りのボルテージを上げ、友之が激しく脱力した所で、薫がのんびりとした口調で要求を繰り出した。
「それより沙織、食後の珈琲を淹れてくれ。俺は話す合間にちゃんと食ってたから、もう少しで食べ終わる」
「はぁ!?」
「飯を作ったんだから、それ位してくれても良いよな? 嫌なら松原さんにお願いするけど」
「ふざけないでよ! 分かったわよ、淹れてやろうじゃない!」
憤然として立ち上がった沙織を、苦笑いで見送った薫は、そのままの表情で友之に向き直った。
「うちは母の方針と言うかこだわりで、豆とか茶葉から淹れるんだよ。インスタントやティーバッグなんか、使った事は無い。……ああ、これ位は知ってるか?」
「沙織を怒らせてまで時間稼ぎをして、何が言いたいんだ?」
明らかに台所に沙織を追い払ったのが分かった友之が、鋭い視線を薫に向けると、彼は途端に表情を消した。そして友之の顔を見据えながら、面白く無さそうに吐き捨てる。
「……気に入らない」
「俺のどこがだ?」
「見た目が良くて、背が高くて、人当たりが良さそうで、稼ぎが良くて、黙ってても女の方から寄って来るタイプ。あのゲス野郎と同類だ」
「…………」
無言で眉根を寄せた友之を見て、薫は益々不愉快そうな表情になった。
「『ゲス野郎とは誰の事を言っているのか』と聞かない所をみると、もうあれの事を聞いているのか? 沙織がそこまで話しているとは、正直意外だったな」
「言っておくが、口外するつもりは無い」
「あんたもあいつと同様、陰でろくでもない趣味を持っていたり、他人の女に手を出したりしていそうだしな。同類相憐れむって奴か?」
「…………」
再び表情を消して黙り込んだ友之を見て、今度は僅かに面白がるような素振りを見せながら薫が笑う。
「へぇ? 沙織が知ったら何て言うか」
「知っている」
端的に友之が答えた内容を聞いた薫は、今度は怒りの表情になった。
「……沙織のこれまでの男は、甲斐性無しと根性無しと馬鹿と勘違い野郎と、揃いも揃ってろくでもなかったが、最近、男の趣味が一気に悪化したらしいな」
「君が言うところの『馬鹿』なら、この前、直接目にした。君は沙織の保護者のつもりか?」
「…………」
そこで男二人が険悪な表情で睨み合っている所に、沙織が淹れたての珈琲を手にして戻って来た。
「ほら、薫! これで文句は無いわよね?」
「ああ、どうも。じゃあ食べたらシャワー使わせてくれ。着替えたら出て行くから」
「さっさと出てって頂戴」
何故か薫は沙織の前では露骨な敵対心を綺麗に覆い隠し、当初の無表情で対応していた為、友之もそれ以上余計な事は言わずに、無用の争い事を避けた。
(本当に見合いだったのか? 午後からなら午前中に名古屋を出れば、十分間に合うよな? やはりここを探りに来たのか?)
それから風呂と着替えを済ませた薫が、鞄を提げて玄関から出て行くのを、友之は釈然としない思いで見送ったが、彼の姿がドアの向こうに消えた途端、沙織が廊下にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「ああぁ、本当に、日曜の朝からとんでもない……。それに、パソコンのパスワードを変えないと……」
「因みに、今まではどんなパスワードにしていたんだ?」
好奇心から友之が尋ねると、沙織は素直に答えた。
「母方の祖父母の誕生日が偶然二日違いで、若い頃からその中間日に、二人纏めてお祝いしてるんです。だからそれなら忘れないから、gfgm0918にしていて。でもこれでもあいつに分かるなら、どんなパスワードにすれば良いのよ……」
本気で呻いた彼女を見て、友之は思わず笑いながら告げた。
「それなら、俺の名前と誕生日にすれば良いだろう?」
「はぁ?」
「うっかり忘れても、覚えるまで何度でも教えてやる」
楽し気にそう言ってきた彼の顔を、沙織は立ち上がりながら凝視し、その提案を真剣に考え始めた。
「確かに、友之さんの生年月日なんか、あいつが簡単に調べる事はできなさそうですけどね。何かと組み合わせれば、分かり難くなるか」
「しかし、聞いていたより、兄弟仲は良いみたいだな」
そこで何気なく友之が口にした台詞に、沙織は盛大に異議を唱えた。
「はぁ!? 別に、良くはありませんよ。昔から無愛想で、最近は何を考えているか全然分からないし、和洋さんを『ゲス野郎』呼ばわりで、豊の事は『裏切り者』扱いなんですよ!? 二人についての話題を出しただけで、凄い目で睨んできますし。それに事あるごとに『どうせ沙織はまともな恋愛も結婚もできないから、母さんと一緒に俺が養ってやるから安心しろ』って、人を馬鹿にして!!」
「……なるほど」
それは別にお前を馬鹿にしているわけでは無く、結構姉思いな弟の、ひねくれた愛情表現だろうがと思ったものの、興奮状態の沙織に何を言っても無駄だろうと、友之は口を噤んだ。
(父親に続いて、弟にも敵認定されたか。沙織とは違う意味で目端が利いてひねくれまくって、容赦の無いタイプだな。単なるシスコンとは一味違うか)
付き合い始めて早々、沙織の身内に再び敵認定された事に、友之は間の悪さを感じずにはいられなかった。
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