その日、沙織は佐々木と一緒に午後から外回りに出たが、何事も無く自社ビルに戻ったところで、佐々木が怪訝な表情で足を止めた。
「あれ?」
「佐々木君、どうしたの?」
「先輩、受付のあの人ですが……。去年課長に会わせろと喚いていた、勘違いストーカー女じゃないですか?」
広いエントランスを突っ切るのを止め、佐々木の指し示す方向に目を向けた沙織は、受付カウンターで何やら声高に訴えながら揉めている寧子の横顔を見て合点がいった。
「そうみたいね。また押し掛けて来たのかしら……。揉めているみたいだし、ガツンと言って追い返してやるわ。佐々木君は二課に先に戻っていて良いわよ?」
「いえ、念の為、お付き合いします」
「そう? 大して危険性は無いと思うけど」
二人とも軽い気持ちで受付に向かって歩き始めたが、ここで予想外の事態が勃発した。
「ガタガタ言ってないで、さっさと友之をここに呼びなさい!」
そう叫びながらトートバッグからタオルに包まれた物を取り出した寧子は、バッグを放り出してから手早くタオルを解いた。その中から現れた三徳包丁を躊躇いなく向けられた受付の女性達が悲鳴を上げ、それを目撃した何人かの社員達も血相を変える。
「きゃあっ!」
「ひいっ!」
「先輩! あの人!」
「あんた、何やってんだ!?」
(ちょっと! 包丁持参で来たってわけ!? ぶち切れるにも程があるわよね!?)
沙織もさすがに度肝を抜かれたが、自分以上にパニック状態の女性達を認めて、佐々木に冷静に指示を出す。
「佐々木君。私が彼女の気を引くから、その間に受付の二人を安全な所に誘導。監視カメラで見ているから、一分もしないうちに詰め所から警備員が駆けつけるし、五分位で警察も来るわ」
「でも先輩、危ないです!」
「彼女達は素手で、一人は腰を抜かして座り込んでしまっているわ。私にはこれがあるから。頼んだわよ」
「先輩!」
鞄を軽く持ち上げながら安心させるように言い聞かせると、佐々木が引き止める間もなく沙織は寧子に歩み寄った。
「あぁ~ら、誰かと思えば、自称松原課長の恋人の、傍迷惑妄想オバサンじゃないですか。随分とお久し振りですね」
わざと馬鹿にした口調で沙織が声をかけると、寧子が包丁を手にしたまま般若の形相で振り返る。
「あんた……、友之の部下の、生意気な女ね!?」
「今時、刃物の押し売りなんて超絶珍しいし、売り付ける場所を完全に間違えていますよ? ご存じ無いかも知れませんが、松原工業には刃物類の製造販売をしている部署もありますから。本当に、どこまで残念な女なんだか」
「何ですって!? 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!?」
そこで呆れ果てたように沙織が溜め息を吐いてみせると、寧子は益々いきり立って彼女を睨み付けた。その間になるべく寧子を刺激しないように慎重に移動していた佐々木は受付に到達し、カウンターの向こう側で床に座り込んでいた社員を助け起こし、半ば抱えるようにしてエントランスの奥へ移動を始める。
「さぁ! 今のうちに行きますよ!」
「たっ、立てない……」
「先輩、掴まってください!」
(よし、取り敢えず少しは離れたわね)
三人がよろめきながらホールの奥に向かって歩き始めたのを横目で確認してから、沙織は目の前の寧子との対峙を続けた。
「そんなに怪我をしたいの!? 私を友之のいる所に連れて行きなさい!!」
「そんなまだら剥げネイルの手で持った包丁なんて、まともに物が切れるの? こっちは母子家庭育ちで、八歳から包丁を握ってるのよ。確実にあんたより、包丁の扱いは上手いと断言できるわ」
「なんですって!?」
包丁を突き付けながらの脅迫の台詞を、沙織が容赦なくぶった切っていると、緊急時用の強化プラスチック盾と特殊警棒を手にした警備員が二人、制止の声を上げながら駆け寄って来た。
「君! 何をやってるんだ!」
「通報したから、すぐに警官が来る! おとなしくその包丁を放しなさい!」
「うるさい! どいつもこいつも私を馬鹿にしてぇぇっ!! 殺してやるぅぅっ!!」
「うおっと!」
(鋭いナイフじゃあるまいし、包丁は突いても、よほど物が柔らかくないと刺さらないわよね!)
両手で包丁を握り締めながら突っ込んできた寧子だが、沙織は手にしていた鞄の両端を両手で掴み、身体の正面でその刃先を受け止めた。勢いで鞄を身体に押し付けられたものの、刃先は鞄に大して刺さらず、動きが止まったところで沙織はすかさず寧子の脛を蹴りつける。
「うあっ! 何するのよっ!」
反射的に包丁を引いた寧子は、憤怒の形相で沙織を睨み付け、警備員や遠巻きにしている社員達が切迫した声を上げる。
「君! 危ない、下がれ!」
「警察が来るまで待て!」
「待ってられません!」
沙織がそう叫び返した瞬間、寧子は今度は包丁を右手だけで持ち、包丁を沙織に向かって上から振り下ろした。
「この女ぁぁっ!!」
「ちっ!」
(少しは頭を働かせたみたいね。手とか切られたら、さすがにまずいわ)
辛くも鞄で身体に切り付けられるのを防いだ沙織だったが、鞄の表面が一直線に切れたのを確認して、
さすがに焦りを覚えた。そして女二人が油断なく包丁と鞄を構えながら睨み合いに突入したところで、少し離れた場所で沸き起こった雄叫びが、一気に近付いてくる。
「うおぉりあぁぁ――っ!!」
「佐々木君!?」
「え、何?」
二人は自分達に向かって猛然と駆け寄ってくる佐々木を認め、何事かと呆気に取られたが、あっという間に至近距離まで到達した彼は、寧子に向かって飛びかかった。
「とりぁあぁぁぁっ!!」
「きゃあっ! 痛っ! 何するのよっ!」
「はぁ!?」
正確には身体を僅かに横に捻りながらジャンプし、その勢いで包丁を持っていた寧子の右手を激しく蹴りつけ、包丁を床に叩き落とした。しかし佐々木の猛攻はそれでは終わらず、傾いた身体のまま床に倒れ込むかと思いきや、両手と肩を使って綺麗に半回転してそのまま立ち上がり、落ちた包丁に駆け寄った。そしてそれを拾おうとした寧子の目の前で、エントランスホールのなるべく人が居ない方に向かって、勢い良く蹴り飛ばす。
「このっ! こんちくしょうぉぉ――――っ!!」
佐々木の気合いを込めたその一蹴りで、包丁は警備員や野次馬の間を一直線に滑っていき、エントランスホールのほぼ対角線上の壁にぶつかって動きを止めた。
「きゃあっ!」
「あっ、危ねぇだろうがっ!」
「何するんだ!?」
「誰も怪我して無いよな!?」
ホール内に悲鳴と怒声が飛び交う中、沙織は思わず鞄を放り出して佐々木を褒め称える。
「佐々木君! ナイス、ボレー&シュート!!」
「うわあぁぁ――っ!! 俺、サッカーやってて良かったあぁぁ――っ!! コーチ、ありがとう――っ!!」
対する佐々木と言えば緊張が振り切れたらしく、包丁を蹴り飛ばした位置で四つん這いになって涙声で叫んでいた。
「さあ、もう包丁は持っていないわよね。おとなしく警察が来るのを待ちなさい」
(まさか、あのトートバッグの中に、まだ刃物を隠し持っていないわよね?)
横目で先程寧子が放り出していたバッグを見ながら沙織が言い聞かせたが、意識が半分バッグに向いていたせいで、次の咄嗟の反応が遅れた。
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