「……あら? 友之君? こんな所で奇遇ね?」
「寧子さん……」
(ちっ! よりにもよって、こんな時にこんな所で遭遇するとは!)
少し前に寺崎の病室で、偶然を装って再会したばかりの女性から嬉しそうに声をかけられて、友之は舌打ちしたい気持ちを何とか押さえ込んだ。しかも相手が厚かましく、断りも入れずに自分の向かい側のソファーに腰を下ろした事で友之の機嫌は更に下降したが、辛うじて面には出さずに愛想よく応じる。
「本当に奇遇ですね。ここで誰かと待ち合わせですか?」
「ちょっと昔の友人と、顔を合わせてきたところなの」
「そうでしたか」
(『昔の友人』だと? 笑わせる。そんな高尚な人間が、あんたにいるのか? 大方、昔の男に言い寄ろうとして、肘鉄喰らったとかじゃないのか?)
四十代後半にしては派手なメイクと服装の女を、友之が心の中で冷ややかに分析していると、寧子が微妙にねっとりと纏わりつくような視線と口調で懇願してきた。
「こんな所で会えるなんて、やっぱり友之君とは縁があるのね。せっかくだから主人の事について、少しお話したい事があるのよ。これから少し、お時間を貰えないかしら?」
「生憎と、今日はちょっと予定がありまして……」
「そんなに時間は取らせないわ。主人も、『松原君だったら信頼できるから、今後何か困ったことがあったら相談しなさい』と言っていたし」
「……それは光栄ですね」
(拙いな……。そろそろ降りてくる頃だ)
傍目には平然と受け答えしながらも、披露宴を終えて会場から出てきたらしい招待客と分かる集団が、エレベーターホールから続々と広いロビーに現れて来た為、こんな所を沙織や真由美に目撃されたくなかった友之は、少しでも目立たない所に寧子を誘導する事にした。
「少しでしたら、お茶を付き合いますよ。そこのティーラウンジではどうですか?」
「ええ、構わないわ。そう言えば、予定は大丈夫なの?」
(白々しい。本当に気にしているなら、声はかけてこないだろうが)
一応殊勝に尋ねてきた相手に、友之は内心で悪態を吐きながらも平然と応じる。
「確かに待ち合わせをしていますが、相手には少し後の時間にして貰いますよ。寧子さんの誘いを、無碍にはできません」
「あら、申し訳ないわね。彼女さんに謝っておいて頂戴ね?」
「待ち合わせしていたのは男ですよ。従兄弟がそろそろ車を買い替えたいと言っていて、相談に乗っていたんです。この後、行きつけのデイーラーに、一緒に行く事にしていましてね」
「そうだったの。じゃあ友之君は、今特に付き合っている女性はいないの?」
さり気なく、探るような目を向けてきた彼女に、友之は小さく肩を竦めてみせる。
「そうですね。今の所は。ところで寧子さんに、一つお願いがあるんですが」
「あら、何かしら?」
「君付けは止めてもらえませんか? 三十過ぎてまでそう呼ばれるのは、違和感があり過ぎるので」
「それもそうね、ごめんなさい。つい、懐かしくて。もうれっきとした一流企業の課長さんなのに、確かに失礼よね」
友之の主張を聞いた寧子は一瞬困惑してから、おかしそうに笑い出した。しかしすぐにしんみりした口調で言い出す。
「でも主人の病室で偶然再会して、驚いたわ。随分立派になって」
「寧子さんは相変わらず、若くてお美しくて驚きましたよ」
「まあ、お世辞も上手になったのね」
(ほざいてろ、この女狐が!)
自分への賛辞を当然の事のように受け止めている寧子を、友之は心の中で罵倒しながら、さり気なく寧子やその関係各所との連絡用にだけ使い始めたスマホを取り出した。
「取り敢えず、従兄弟に連絡だけしておきます」
「ええ、そうして頂戴。謝っておいて」
そして友之は素早く真由美の携帯にメールを送信してから、二人でティーラウンジへと向かった。
「うん? あの男……」
エレベーターから降りて広いロビーに足を踏み入れた薫は、見覚えのある男が視界の端を横切った為、反射的に足を止めた。それはその男の腕に、派手な外見の美人の範疇に入る女が絡み付いていたせいでもあったのだが、両者がティーラウンジまで入るのを目で追ってから、薫は一人冷笑する。
「へえ? あまり趣味は良く無さそうだな」
それから注意深くガラス張りのティーラウンジの外から、撮れる範囲で二人の姿を撮っていると、背後から呆れ気味の声がかけられる。
「薫? こんな所で、何をしているの? 探したんだけど」
そこで薫は振り返りながら、話題を逸らした。
「ああ、母さん。向こうへの挨拶とかは済んだの?」
「……義理は果たしたわ。これ以上、不愉快な顔を見るなんて御免よ。帰るわ」
「そうだね」
途端に不愉快そうな顔になって歩き出した佳代子の後に続きながら、薫は一瞬背後を振り返り、(あの男の身辺を、少し調べさせておくか)と密かに決意していた。
「もう、本当にあの子ったら! ここまで私を連れて来たくせに、『急用ができたから、先にタクシーで帰ってくれ』って、一体どういう事!? ホテルのロビーで、どんな急用ができるって言うのよ!」
メールで簡単に連絡を入れただけの息子に、真由美は憤慨して電話をかけたものの通じず、彼女の機嫌は更に悪くなった。母と別れて真由美と二人になった沙織が、そんな彼女を困惑気味に宥める。
「事情は分かりませんけど……、取引先のお偉いさんに掴まったとかでしょうか。でも友之さんが急用って言うなら、本当に急用だと思いますし。私はタクシーでも構いませんから」
「本当にごめんなさいね、沙織さん。本当に友之がここまで、甲斐性無しだとは思わなかったわ」
「いえ、甲斐性無しだとかそう言う事は……。とにかく、正面玄関まで行きましょう」
(でも本当に、友之さんらしくない……。何かあったのかしら?)
申し訳なさそうに謝ってくる真由美を宥めつつ、彼女以上に釈然としないものを抱えながら、沙織は外に向かって歩き出した。
結局、友之は二人が松原邸に戻り、着物を脱いで衣紋掛けにかけて着替えを済ませても戻らず、義則と共にお茶を飲んで寛ぎ始めた頃に漸く戻って来た。
「友之! あなた私はともかく、沙織さんを放り出して何をやってたの!?」
リビングに彼が顔を見せるなり、問答無用で鋭く叱責した真由美を、友之が何か言う前に沙織が慌てて宥める。
「真由美さん。別に放り出されてはいませんし、小さな子供じゃないですから一人で戻れましたし、あまり怒らないで下さい。友之さんは急用だって言ってましたし」
「沙織さん、あまり甘い顔をしちゃ駄目よ? 男なんてすぐつけあがるんだから!」
「いえ、別にそれ程甘いわけでは……。急用だったんですよね?」
困り顔で友之に向き直りながら沙織が確認を入れると、彼が微妙に視線を逸らしながら頭を下げる。
「……ああ。悪かった」
何となく歯切れの悪い、かつ彼らしくないその様子に、沙織は僅かに眉根を寄せながら問いを重ねた。
「それは良いんですけど、その後何度も電話しても繋がらないって、真由美さんが心配していましたから。何か取引先の人と顔を合わせて、重要な話でもしていたんですか? それでスマホの電源を落としていたか、マナーモードにしていたとか」
「そんなところだ」
「そうですか……」
日曜の午後に、ホテルでどんな重要な話が持ち上がるのかと、沙織は勿論義則も不審に思ったが、憤慨しきりの真由美をこれ以上怒らせない様に、二人はそれ以上その事には言及せず、彼女を宥めつつ他の話題を持ち出して、場を和ませる事に腐心していた。
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