柏木夫妻と遭遇した翌朝。沙織が予想していた通り、友之が出勤してくるなり物言いたげな声をかけてきた。
「おはよう、関本」
背後からかけられた声に、座っていた沙織が椅子ごと振り返り、見上げながら挨拶を返す。
「おはようございます、課長」
「昨日の件だが……」
「柏木さんから、聞いていませんか?」
「一応、説明は受けた」
「それでは、そういう事ですので」
「……少々、納得しかねる所があるんだが」
素っ気なく話を打ち切った沙織だったが、友之は疑わしげに彼女を見下ろした。するとそのやり取りを聞いていた佐々木が、隣の席から不思議そうに尋ねてくる。
「先輩。柏木さんって、誰の事ですか? 取引先にそんな名前の人がいましたか?」
その問いかけに、沙織は笑って手を振った。
「違うの。昨日ここを出て帰ろうとしたら、近くに威圧感があるベントレーが停まっていたから、どんな人が乗ってるんだろうな~って眺めながら歩いていたら、反対側から歩いて来た人とまともにぶつかって、派手に転んじゃったのよ」
「転んだって、大丈夫だったんですか?」
驚いた顔になった彼に、沙織が苦笑しながら話を続ける。
「何とかね。それが偶然にも、課長の従姉にあたる、柏木産業の社長令嬢だったわけ。『そちらの怪我が後から酷くなった場合に備えて、名刺を交換して欲しい』と言われて確認したら、それが分かったのよ」
「そうだったんですか。凄い偶然ですね」
「ええ。柏木さんはこの近くに商談で来ていて、終了後は直帰だったそうで、わざわざご主人が車で迎えに来ていたの。それで柏木さんも、車の方に目を向けていて、お互いに前方不注意だったわけ。さすが柏木産業創業家。車も気合い入っているわよね」
それを聞いた佐々木は、心底感心した風情で頷いた。
「確かに凄いですし、ご夫婦仲も良好なんですね」
「そうなの。その後『お詫びに是非夕食をご一緒に』と夫婦揃って誘われて、お相伴に預かったんだけど、ご主人がまめまめしくお世話していたわね」
「そうなんですか」
「…………」
素直に佐々木は頷いていたが、友之は微妙な顔付きで無言を貫いていた。
「それで色々話をしながら食べ進めていたら、なんだか妙に気に入られてしまったみたいで、『決まった人が居ないなら、私の弟はどうかしら? あなたみたいな人が義妹だったら嬉しいわ』とかまで言われちゃって、困ったわ~」
「えぇ!? 何も困る必要なんか無いじゃありませんか! 身元がはっきりしているし、身内に気に入られているし、ちゃんと真っ当に働いている人なんですよね?」
「ええ、美容師さんなの。年も私とそう変わらないし」
沙織はいつも通り淡々と話を続けたが、佐々木は嬉々としてそれに食い付いた。
「手に職を付けているなら、益々結構ですよね! これはチャンスですよ、先輩!」
「別に佐々木君が、そこまで興奮する事は無いでしょう?」
「本当に先輩は、淡々とし過ぎですよね! これは絶対お勧めですよ? もっと前向きに検討しましょう!」
「はぁ……、そんなものかしらね。取り敢えず今度の日曜、花見に呼ばれたけど」
「花見?」
唐突に出て来た単語に佐々木が不思議そうな顔になった為、沙織が説明を加える。
「柏木さんのお宅の敷地内に、立派な桜の木があって、毎年親しい人を招いてお花見をするそうなの」
「そんな内輪の会に呼ばれるなんて、本物ですよね! 先輩、頑張って下さい!」
「何をどう頑張るのよ?」
「ですから、普段商談成立に向けている時と同等のエネルギーを、もう少し縁談に向けましょう!」
「……まあ、頑張ってみるわ」
「先輩! もっと本気出しましょうよ!!」
素っ気なく話を終わらせた沙織に向かって、佐々木がじれったそうに訴えたが、ここで一連の話を聞くともなしに聞いていた周囲が、笑って宥めてきた。
「佐々木、気持ちは分かるが落ち着け」
「そうそう。関本はこれが通常運転だからな」
「今更、不必要に愛想を振りまくなんて無理だろう」
「だが確かに良縁だよな、柏木家と縁続きになれるなら」
「確かにな。ヘマをしない程度に頑張れ」
「皆さん、他人事だと思って……」
完全に面白がって口を挟んできた周囲を軽く睨み付けた沙織は、ふと背後に目を向けて友之がいなくなっている事に気が付いた。
(あれ? いつの間にか居なくなってる)
そして彼が自分の席に着いている事を確認してから、沙織は自問自答した。
(取り敢えず今の話で、筋は通っているわよね。披露宴の時のヘアセットの時に、玲二さんとは顔を合わせているから、花見の席では改めて紹介するって話になってるし。そっちの事情を聞いていないふりをしてあげているんだから、これ位の嫌がらせは甘んじて受けなさいよね!)
そんな八つ当たりじみた事を考えつつ、沙織はその日の仕事に取りかかろうとしたが、ここでポケットの中で震えたスマホに気が付いた。
(あれ、由良から? 随分急だけど、何か話でもあるのかしら?)
それは、その日の昼食をできれば一緒に取りたいとのメールだったが、普段なら当日に行ってくる事などまずない為、沙織は首を捻りつつ自身の休憩予定時間を相手に送った。
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