翌朝、義則と真由美が夫婦揃って朝食を食べ終え、ダイニングテーブルに着いたままお茶を飲みつつ談笑していると、そこに友之が現れて少々ばつが悪そうに挨拶をしてきた。
「おはよう」
「おはよう、友之」
「沙織さんは?」
真由美が尋ねると、友之は母親から微妙に視線を逸らしながら、自分の椅子に座る。
「ああ……、うん。まだ寝てるんじゃないか? 沙織の部屋を出る時に、アラームをオフにしておいたし」
その台詞を聞いて、すぐに事情を悟ってしまった義則は呆れ顔で息子を窘め、真由美は笑顔で立ち上がって息子の為に朝食を暖め直す。
「友之……。お前、沙織さんに怒られるぞ?」
「あ、やっぱりそうだったのね。沙織さんが『いつも朝食を作って貰っているので、休みの日位準備しますから』と言われていたんだけど、何となく起きられなくなりそうな気がしたから、普通に起きてちゃんと朝ご飯を準備しておいたから大丈夫よ」
「……どうもありがとう」
すっか母親に見抜かれていた事実に友之は居心地が悪い思いをしたが、そんな息子の姿を見た真由美は、益々笑みを深めた。
「どういたしまして。沙織さんは起こさなくて良いから、友之だけ先に食べてしまいなさい。お腹が空いてるでしょう? 大盛にしてあげたから、しっかり食べてね」
「いただきます」
両親から生温かい目を向けられながら朝食を食べ終えた友之は、リビングに移動してからも真由美にからかい倒される事になった。
「沙織さん、何時頃に起きてくるかしらね?」
「さぁ……、どうだろうな」
「お昼ご飯はあっさり目にしようかと思っていたけど、朝昼兼用でボリュームのある物にした方が良いかしら?」
「いや……、普通で良いと思うから」
(沙織さんも気の毒に。相当、気まずい思いをするだろうな)
離してくれる気配の無い母親に、辟易しながらも辛抱強く付き合っている友之を眺めながら、義則はこの場には居ない沙織に深く同情した。するとそこで、廊下の方から物音が伝わってくる。
「あら?」
「ああ、起きたみたいだな」
義則が苦笑いしたのとほぼ同時に、リビングのドアが勢い良く押し開かれ、怒りと羞恥で顔を真っ赤に染めた沙織が姿を現した。
「居た! 友之さん!」
「ああ、おはよう、沙織。良く眠れたか?」
全く弁解する気配も無く、ソファーに座ったまま爽やかに挨拶してきた友之に向かって沙織は突進し、両手でその胸倉を掴みながら怒鳴りつけた。
「眠れたか? じゃないわよっ!! 何やらかしてくれてんの!! 私のアラームを解除したわね!? ごまかそうとしても無駄よっ!!」
しかしその非難の声に、友之は悪びれずに答える。
「セットした時刻を見たら、随分早かったからな。あれだと睡眠時間が足りないだろう」
「もっと早く寝ようと思っていたのに、友之がしつこかったせいでしょうがっ!! 大体、今日は休みだし、私が朝食を作るってお義母さんと約束してるって言ったわよねっ!?」
「ああ、聞いた。だから母さんには、ちゃんと俺から謝っておいたから安心しろ」
「あっ、謝っておいたってねぇぇっ!!」
「沙織さん、本当に気にしないでね? 多分、そうなるんじゃないかなと思っていたから、私がちゃんと準備しておいたから大丈夫よ」
ここでのんびりとした口調で真由美が会話に混ざってきた為、沙織は幾分狼狽しながら彼女に向き直った。
「それは本当に申し訳ない上に、大変ありがたく……、いえ、そういう問題では無くてですね」
「いやぁ、初めて見たなぁ……」
「はい? お義父さん、何がですか?」
更に義則が、妙にしみじみとした口調で呟いたのを聞いた沙織が反射的に顔を向けると、彼はそのままの口調で指摘してくる。
「沙織さんが友之を呼び捨てにして、罵倒している姿。うん、凄く新鮮だ」
「……あら、そう言えばそうね。でもいつもより夫婦っぽいわよね」
「…………」
うんうんと真由美が頷く中、沙織は無言で顔を引き攣らせ、友之は笑いながら提案する。
「じゃあ時々は本気で怒らせて、理性を吹っ飛ばさせてみるか? そのうちに慣れて、いつでもタメ口になるかもしれないし」
「こんの馬鹿友之――っ!! 少しは反省しろ――っ!!」
憤怒の表情の沙織は、再び両手で激しく友之を揺さぶり始めたが、彼はされるがままの状態でおかしそうに笑い続け、両親は呆れた表情を隠そうともせずに短く忠告した。
「友之。本当に離婚されるから、次は止めておけ」
「そうよ。洒落にならないから、今度からはアラーム時刻を、一時間遅らせるだけにしなさいね?」
「そういう問題じゃないですよ……」
大真面目に真由美が口にした内容を耳にした沙織はがっくりと項垂れ、友之から手を離してリビングの床に座り込んだ。そんな彼女を気の毒に思いつつ、友之達は総出で彼女を宥めながら、遅い朝食を食べさせる事になった。
「全くお前と言う奴は……。あんなに真っ赤になって、沙織さんが気の毒だろうが」
「そろそろ起こしに行こうとは、思ってはいたんだがな」
「今日と明日で、ちゃんとご機嫌を取っておけよ?」
「分かってるよ」
気まずい思いをしながら食べ続ける嫁を見ながら、義則は息子に言い聞かせ、友之は素直に頷いて、取り敢えず平穏無事にその土日は過ぎていった。
※※※
「佐々木君。お願いだから私の話を良く聞いて。そして素直に聞き分けてくれたら、もの凄く嬉しいわ」
朝の始業時間前。職場の片隅で佐々木と向かいあっていた沙織が真顔で告げると、彼も大真面目に答える。
「勿論、先輩がそこまで仰るからには、後輩として素直に指示に従うつもりです」
「ありがとう。それでさっきの申し入れに関してだけど、佐々木君の気持ちは分かるし、ありがたいとは思ってはいるけど、断らせて貰うわ」
あっさりと結論付けた沙織に対し、佐々木は納得しかねる声を上げた。
「先輩、どうしてですか!? 俺の力量では先輩の人生を預かるには、不満だと思っているんですか!?」
「そうじゃないから。佐々木君位目端が利いてそつが無くて、気配りもできる人が言ってくれた事なら、大抵の人なら喜んで頷くと思うけど」
「酷いです、先輩! 俺は仕事ならともかく、プライベートでは年下だから頼り無いと言うんですか!? 一度、ちゃんと試してみてください! きっと先輩を満足させてみせますから!」
「だから、満足させるさせないの問題じゃなくてね」
沙織が内心でうんざりしながら、どうやって相手を納得させようかと思案していると、ここで周囲から呆れ気味の声がかけられた。
「おい、お前ら。朝っぱらから職場で、何を話しているんだ?」
「プライベートな話ですから、始業時間前に話しているんですよ、朝永さん」
「話だけ聞くと、関本が後輩を弄んだ挙げ句に袖にしている、痴話喧嘩にしか聞こえないぞ」
「人聞き悪過ぎます、田淵さん。合コンへの参加を、丁重に断っているだけじゃないですか」
憮然としながら弁解した沙織だったが、そんな彼女の両肩を掴みながら、佐々木が真摯な表情で訴えてくる。
「先輩! 諦めるのは早いです! 先輩の人生は、まだまだこれからじゃないですか! 本気で人生を切り拓きましょう!」
「うん、本気で私の人生を心配してくれるのは嬉しいんだけどね? 全然人生を諦めていないし、ちょっと……、いえ、かなり余計なお世話だから」
「先輩……」
沙織が思わず本音を漏らした途端、佐々木が涙目になる。それを見た周囲から、複数の溜め息が漏れた。
「関本、後輩を泣かせるなよ……」
「合コンに出る位、良いじゃないか」
「皆さん、他人事だと思って……」
思わず渋面になった沙織は、既に出社している友之が居る、課長席を見やった。
(本当に頭が痛い。こんな事を続けていると、友之さんが勤務評定に私情を挟みかねないから、佐々木君の将来に傷を付けない為にも、きちんと言い聞かせないといけないのに)
そして始業時間になる事を理由に、佐々木と共に自分の机に戻りながら、沙織は事態が悪化しないように切に願った。
(勿論、そういう公私混同はしないと、友之さんを信じてますけどね? 信じて良いわよね!?)
帰宅したらもう一度念を押しておこうと決意しながら、沙織は気持ちを切り替えてその日の仕事に取りかかった。
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