酸いも甘いも噛み分けて

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(19)転機

公開日時: 2021年4月9日(金) 12:22
文字数:2,155

「さすが課長……。あそこですかさず綺麗なハンカチが出てくるとは、侮れませんね。できる男はやっぱり違うわ……」

「それはともかく、何がどうなってこんな事態になったのか、是非納得のいく説明をだな」

「松原! 貴様、こんな公衆の面前で、何を言って彼女を泣かせた!?」

「貴島さん?」

 どうやら少し前から人垣の向こうにいたらしい貴島が、野次馬をかき分けるようにして現れ、友之に迫った。それを見た沙織が、再び感嘆の呟きを漏らす。


「うおぅ……、タイミングばっちりじゃないですか」

「関本。お前、これにも関わってるのか?」

 驚いて友之が問い質している間に貴島は距離を詰め、彼に掴みかかった。


「松原、答えろ! 事と次第によっては、今度こそ容赦しないぞ!!」

「ちょっと待って下さい。俺にも正直、何が何だか」

「木曽さん、仕事を辞めて実家に戻ってお見合いして、結婚するそうなんですよね~」

「はぁ!? なんだそれは!」

 さらりと沙織が口にした内容を聞いて、貴島が動揺し、友之も驚いた表情になった。しかしそんな男二人には構わず、沙織が冷静に話を続ける。


「それで心機一転して新しい人生に踏み出す為に、心残りをすっぱり断ち切ろうと、木曽さんは敢えて人前で松原課長に人前でプロポーズして、あっさり振られたんですよ」

「何だと? 貴様……、彼女に恥をかかせたのか?」

「いえ、そう言われましても、了承するわけには」

 途端に怒りの形相で凄んだ貴島だったが、友之は必死に弁解しようとした。しかしここでさり気無く、沙織が感想を述べる。


「でも木曽さんは勇気がありますし、立派ですよね? 大勢の人の前で恥をかいても、ちゃんと自分の気持ちを伝えましたし」

「…………」

 暗に自分の意気地の無さを責められたように感じた貴島は、思わず黙り込んだ。そこをすかさず、沙織が追い詰める。


「確かにちょっと泣いてしまったかもしれませんけど、とてもすっきりした顔で送別会会場に向かいましたよ。あれならとんとん拍子にお見合いして、結婚しちゃうかもしれませんね。実家の両親が厳選した相手みたいですし。因みに、その送別会会場はここなんですが、私もこれから行こうかどうしようかと」

 そう言いながら、沙織が何気無くポケットから取り出した一枚のメモ用紙を、貴島が必死の形相で奪い取った。


「寄越せ!!」

「貴島さん!?」

 そして奪ったメモ用紙片手に、勢いよく外に向かって走り出した彼に、友之は慌てて声をかけたが、その横でのんびりとした声が響く。


「あ、そう言えば、当初は送別会の予定だったんですが、木曽さんが退職して実家でお見合いしたりしないで、こっちで働きながら婚活するって決心したのが判明したので、名称が激励会に変わったんですよね……。あれ? いつの間にか貴島課長がいなくなっていますが、どこへ行かれたか分かりますか?」

 わざとらしく首を傾げてお伺いを立ててきた沙織を見て、友之の顔が盛大に引き攣った。


「……白々しいぞ、関本。後から盛大に文句を言われるのが、俺だと言う事は分かっているよな?」

「課長は本気で怒ると、本当に迫力ありますよね」

「まだ仕事中だ。さっさと戻るぞ」

「はい。ご迷惑おかけしました」

 一応しおらしく頭を下げた沙織を引き連れて歩き出した友之は、忌々し気に悪態を吐く。


「全く……。あと一時間以内に、仕事に区切りを付けろ。今日は晩飯を奢って貰うからな。そこで洗いざらい聞かせて貰おうじゃないか」

「了解しました」

 本気で腹を立てている上司に逆らう事などできず、それから職場に戻った沙織は集中して仕事をしていたが、三十分程経過した頃にスマホに由良から電話がかかってきた為、席を立って廊下で応答した。


「ごめん、由良。ちょっと課長に責められて激励会に顔を出せないから、皆に謝っておいて欲しいんだけど」

 てっきり、さっさと来いとの催促かと思った沙織だったが、その予想はあっさり外れた。


「それは良いから。もう激励会はお開きになったし。その報告よ」

「どうして? 予定より随分早いよね?」

 思わず問い返した沙織だったが、由良は幾分咎めるような口調で告げてきた。


「あんた、貴島さんに大嘘吐いて焚きつけたでしょう? 激励会の最中に乱入して『実家に帰る位なら、俺と結婚してくれ』ってやらかしてくれたのよ。もう大騒ぎの大盛り上がりよ。木曽さんなんか真っ赤になっちゃって、気の毒な位だったわ」

「分かった。心の中で貴島課長をヘタレ呼びするのは、今後は止める事にするわ」

 沙織がそう冷静にコメントすると、電話越しに由良が溜め息を吐いた気配が伝わる。


「本当に容赦ないわね。それから周囲の目なんか全く気にしないで、猛然とアピールし始めたから、馬鹿馬鹿しくなって二人を残して、全員店を出て来たってわけ」

「二人だけで大丈夫かしら?」

「どちらも三十過ぎた大人だし、大丈夫でしょう? とにかく、そういうわけで激励会は終了したし、後から貴島さんに大嘘吐いた事で文句を言われても、甘んじて受けなさいよ?」

「了解。連絡ありがとう」

「じゃあ残業頑張って」

 最後は互いに苦笑しながら通話を終わらせ、沙織はスマホを元通りしまいながら歩き出した。


「やれやれ、一件落着かな? でも本当に色恋沙汰で人生が変わるって、凄い事よね」

 ちょっと自分には無理だなと思いながら、彼女は無言で自分の席に戻った。


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