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(22)一難去って、また一難

公開日時: 2021年6月2日(水) 12:28
文字数:3,457

珍しく早く上がれた日。沙織は退社する人波の中に友人の姿を認め、駆け寄りながら声をかけた。


「由良、お疲れ。これから予定がないなら、何か食べて帰らない?」

「ああ、沙織。それじゃあ煉瓦亭で食べて行こうか。それにしても今日は、随分早く上がれたわね」

「今日は珍しく、さくさく仕事が進んでね。木曽さんの結婚祝いについて、ちょっと話したかったから」

 そう言いながら店に向かって並んで歩き出すと、由良が思い出したように言い出す。


「あ、私も話したい事があったの。例の、松原課長のストーカー女の事なんだけど」

「また押しかけて来たの? こっちには話が伝わってきていないけど」

「確かにあの騒ぎの後、一度だけ受付で押し問答になって、警備員に追い出されたそうだけど、最近はここに入る前後に、阻止されているみたいなの」

「阻止って、誰に? 警備員さんにじゃないの?」

 曖昧な表現に、沙織が不思議そうに問い返すと、由良も首を傾げながら、自分が知っている範囲の内容を告げた。


「警備員さんじゃないの。目撃した受付担当者の話だと、身元不明のスーツ姿の男性だそうよ。この会社の付近に例の女が現れた途端、どこからともなく現れて、押し問答をしながら彼女を引きずって行くらしいわ」

 そんな微妙に物騒な話を聞かされた沙織は、無意識に顔を引き攣らせた。


「……何、それ?」

「本当に意味不明よね。それが何回か続いてから、その女がぱったりと現れなくなったらしいわ」

 由良が難しい顔で考え込んでいる横で、沙織は密かに推測した。


(それってひょっとして、柏木さんあたりが例の女に尾行を張り付かせておいて、会社や課長の自宅の付近に現れた途端、取り立てが厳しい業者に通報しているとか?)

 そんな想像をした沙織は、清人の容赦のなさに戦慄すると同時に、寧子の行動に呆れてしまった。


(だけど今時待ち伏せとか、即行で身柄を確保しに来るなんて、どんな所からお金を借りたのよ? 普通の銀行とかだったら、さすがに立ち寄りそうな場所に張り込むとかまではしないわよね?)

 しかし由良に余計な不審を抱かせないように、沙織はここでさり気なく当初の話題に戻した。


「だけど貴島さんと木曽さんの結婚、トントン拍子に決まったわね」

 それに由良が、即座に応じる。

「本当にびっくりよ。二人が付き合い始めたきっかけがきっかけだから、《愛でる会》の皆は知っていたけど」

「これに関しては良い仕事をしたって、誉められて良いよね?」

 笑顔で沙織が意見を求めたが、由良は若干冷たい視線で見返してきた。


「はいはい、文句なく沙織の手柄よね。相変わらずゲン担ぎ希望女子社員の、松原課長への玉砕告白が続いているけど。もう何人目になっているのか、カウントもしてないわよ。そのたびに晒し者になっている課長が、気の毒で仕方がないわ」

 本気で同情しているらしいその声音に、沙織は薮蛇だったと肩を竦めた。


「その……、消耗品に関しては時々、課長にハンカチを差し入れしてるから……」

「当たり前よ! この不埒者が!」

 呆れ顔の由良に小突かれながら、沙織は目的の店に向かって歩き続けた。


(取り敢えず、これで課長の復讐は終わったのかしら? あの人が、あっさり引っ込むとも思えないけど……)

 二人で世間話をしながら足を進めた沙織だったが、一連の騒ぎについて完全に終わりなのかどうかを、密かに考えていた。




「友之、最近の様子はどうだ? 職場も家も、あの女がうろついたりはしていないよな?」

 清人が、確実に帰宅している時間を見計らって友之に電話してみると、落ち着き払った声が返ってきた。


「ええ。決裂した後も、しつこく接触しようとしていた形跡がありますが、いつの間にか会社にも家にも、姿を見せなくなりましたね。清人さんの方で、何かしましたか?」

「大した事はしていない。いまだに尾行を張り付かせて、松原工業やお前の家周辺に姿を見せた段階で、たちの悪い貸し出し先に、匿名で通報させているだけだ」

「どんな業者に、金を借りたって言うんですか……」

 うんざりしながら応じた友之に、清人が冷笑しながら告げる。


「金を浪費して、返済が覚束無いと思われた貸出先にせっつかれたから、取り敢えず他から借りて、そこに返済したんじゃないのか? ブラックリストに載る上に、借りる先も段々たちが悪くなっていく一方なのにな」

「しかし、まだ私や妹さん達に、金を払わせるつもりでしょうか?」

 訝しげなその声音を聞いた清人は、呆れ顔で吐き捨てた。


「はっ、冗談だろう? お前達がそんな事をする、義理も理由も無いからな。裁判に持ち込んでも、勝てる見込みがない。訴訟を引き受ける弁護士がいたら、そいつはハナから勝つ気なんか無い、手付け金目当てじゃないのか?」

「そうかもしれませんね」

 そこで清人は真顔になって、念を押した。


「念の為、あと半年は、あの女の素行調査を続けさせるからな」

「はい、費用は全額お支払いします」

「ああ、金を惜しむなよ? あの女が逆恨みして、妙な気を起こさないとも限らないからな」

「分かりました」

 そこまで神妙なやり取りをしてから、清人は口調を変えて尋ねた。


「ところでお前、あの女とはどうするんだ?」

「……沙織の事でしょうか?」

 何気なく尋ねたものの、友之が答えるまでに妙な間が空いた為、清人は忽ち渋面になる。


「聞き捨てならんな。他にも女がいるとか言うなよ?」

「いませんよ。分かっているくせに、虐めないでください」

「話を誤魔化すな。あいつと本気で、よりを戻す気はあるのか?」

「勿論、ありますよ。ありますが……」

「何だ?」

 どうにも煮え切らない口調に、徐々に不機嫌になりながら清人が話の先を促すと、友之がぼそぼそと、思うところを告げてくる。


「この間沙織は、職場で俺に普通に接していまして、全く動じて見えなかったんです」

「何よりじゃないのか? お前だって、下手に気を使わなくて良かったじゃないか」

「それはそうなんですが……、寧ろ絶好調だったんです。営業成績も鰻登りで」

「益々結構じゃないか」

「それで沙織にとって俺は、別れても微塵も動揺する事が無い程度の存在なのかと、考え込んでしまいまして」

「……だから? 結局お前は、何が言いたい」

 苛々するのを堪えながら聞いているうちに、相手が言いたいことが分かってしまったものの、清人は一応冷静に話の続きを促した。すると友之が、予想に違わない事を告げてくる。


「今更どの面を下げて、また付き合ってくれと言えば良いのかと」

「このどアホ!! そんな事位、自力で考えろ! あとはもう知らん、切るぞ!!」

 黙って聞くのもここまでだとばかりに怒鳴りつけ、清人は通話を終わらせて、使っていたスマホをソファーに放り投げて悪態を吐いた。


「全く、ろくでもない」

 その一部始終をすぐ側で眺めていた真澄が、恐る恐る声をかける。

「ええと……、その、清人?」

「アホらしい。風呂に入って来る」

「あ、ちょっと待って!」

 憤然として部屋を出て行った清人を見送った真澄は、放置されたスマホに視線を移して溜め息を吐いたが、男二人のやり取りを聞いていた為、一応フォローをしておこうと、自身のスマホを取り上げた。


「……そういうわけで、近々改めて友之から交際の申し込みがあるかと思うのだけど、できれば沙織さんには穏便な物言いと対応をしてくれたら、こちらとしてはもの凄く嬉しいし、助かるのだけど……」

 恐る恐る沙織に電話して、控え目に要請してみた真澄に、彼女はすこぶる冷静に言葉を返した。


「お話は良く分かりました。その上で一つお尋ねしますが、私が課長を含めた真澄さん達に対して、特に配慮しなくてはいけない理由が、存在しているのでしょうか?」

「……いえ、存在していません」

「それから男女問わず、三十過ぎの大人を甘やかすのは、止めた方が宜しいかと思います」

「ごもっともです」

「取り敢えず、私は真澄さん達から聞いている裏事情については、このまま何も知らない方向で押し通しますから。課長が何をどう言ってくるかは不明ですが、今後の事は本人次第ですね」

「そうですね。宜しくお願いします」

 ひたすら神妙に真澄が頭を下げている気配が、電話越しにも伝わったのか、沙織は最後だけは口調を和らげて挨拶してきた。


「それでは、お話がお済みのようですので、失礼します」

「はい、夜分お電話して、申し訳ありませんでした」

 その通話を終わらせてから、真澄はしみじみと独り言を呟く。


「やっぱり手強いわ。友之、頑張ってね」

 沙織の口調から、あまり酷いことにはならないとは思うものの、真澄は不安を拭い去る事ができなかった。


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