その日、帰宅した沙織は家族全員が顔を揃えた夕食の席で、真由美に求められるまま始業前に繰り広げられた騒動の一部始終を説明した。
「今朝、二課で勃発した騒動は、これで全部です」
沙織がそう話を締めくくると、真由美が喜色満面で息子夫婦に語りかける。
「凄いわね! 沙織さんのお友達が、そんな運命的な出会いを果たすなんて! 二人を引き合わせた沙織さんと友之が、愛のキューピッド役なのね!?」
「運命……、キューピッド……」
「別に、引き合わせようと思ったわけではありませんが……」
彼女のハイテンションとは対照的に、友之と沙織はため息まじりの呟きを漏らしたが、ここで室内に義則の爆笑が響き渡った。
「トッ、トライアングルデート……、ぶわはははははっ! 沙織さんも大変だが、友之はそれ以上に気が揉めるな! これは困った、あはははははっ!」
「父さん、笑い過ぎだ……」
「今の話のどこに、そんな笑いのツボが……」
父親の笑いっぷりに友之は憮然とし、沙織は項垂れる。そこで真由美は思い出したように、確認を入れてきた。
「とにかくこれで、社内での沙織さんの疑惑は晴れたのね?」
それに沙織が真顔で頷く。
「はい。興味本意に騒いでいたのは若手社員が多かったのですが、和洋さんを巻き込んだ事で年配の方を含めた社員達に、一気に私の容赦がない話が広がりましたから」
「大丈夫よ、沙織さん。友之は沙織さんが心根の優しい女性だと、分かっていますからね」
「そうですね……」
笑顔で保証した真由美に、沙織が何とか笑顔を浮かべながら応じていると、今度は義則が思い出したように言い出した。
「そう言えば沙織さん。今日一之瀬さんの所に、田宮さんに付き添って頭を下げに行って来たんだ。彼が私に自分が黒幕だと白状して、頭を下げたものだから」
「そうだったんですか? 友之さんと吉村さんが謝罪に出向いたのは、知っていましたが」
「それは俺も知らなかったな」
少々驚きながら沙織が尋ね返し、友之も同様の表情になる中、義則が説明を続けた。
「田宮さんも、根が悪い人では無いからね。会社に迷惑をかける可能性が出てきた事で、観念したんだろう。一之瀬さんに内々に済ませて貰うようにお願いしに出向いたが、『娘が思った程気にしていなかったし、事を荒立てるのはこちらも本意ではない』と仰って、茶菓子付きでお茶を出して笑顔で歓待してくれたんだ。それで田宮さんも、すっかり安堵して帰ってきたよ」
「そうでしたか。やけにあっさり引くなとか、不審がられなかったのなら良かったです」
「茶菓子……」
「友之、どうかしたの?」
笑顔で父親が語った内容を聞いて、何故か友之が表情を消して呟く。それを不思議に思った真由美が尋ねると、友之は盛大に溜め息を吐いてから、事情を説明した。
「俺が吉村と出向いた時には、茶菓子どころかお茶も出されず、立ったまま三十分程ネチネチと嫌みを言われ続けたんだ」
それを聞いた義則が、苦笑しながら息子を宥める。
「やはり娘を取られた父親の心境としては、なかなか婿は許しがたいか……。今回は三十分で済んで良かったと思わなければな」
「……本当に大人げなくてごめんなさい」
「いや、こうなるのは予想がついていたしな。この場合、吉村の方がとばっちりを受けたわけだが、向こうは俺を巻き込んだと思って、ひたすら恐縮していたし。これからは余計におとなしくしてくれるだろう」
「まあ、それ位は仕方がないわね」
沙織がうんざりしながら頭を下げるのを見て、友之と真由美も苦笑の表情になる。話が一区切りついた事で、それからは世間話をしつつ暫く夕食を食べ進めたが、全員がそろそろ食べ終わろうとする段階で、友之が唐突に問いを発した。
「父さん。秋闘に合わせて組合側から申し入れをして労使で妥結する場合、その条項が実際に運用されるのは十二月以降になるよな?」
「うん? ……ああ、例の同部署所属者で結婚しても、配置転換はしないとの確約の事か? それならやはり秋闘で申し入れがあったとして、十一月に労使で確認、十二月で明文化して運用か、キリ良く一月からかな?」
「そうだろうな……」
一瞬怪訝な顔になったものの、すぐに息子の言わんとするところを察した義則は、冷静に答えた。それを聞いて心なしか項垂れた友之に、真由美が不思議そうに声をかける。
「友之、それがどうしたの? 以前からそういう話だったでしょう?」
「それはそうだが……。吉村のせいで、あと七、八ヶ月、俺達の結婚の事を黙っていられる自信が無くなってきた」
「え? ちょっと友之さん!」
そこで友之が深い溜め息を吐いたのを見て、沙織は顔色を変えて彼を宥めようとした。しかし彼の両親が、どこか面白がっている様子で口を挟んでくる。
「あらあら……。随分と自分に自信が無いのね、友之。沙織さんがその吉村さんに言い寄られ続けたら、自分から乗り換えられそうで、そんなに心配なの?」
「母さん、怒るぞ?」
「まあ、怖い」
「確かに目の前で頻繁に沙織さんが口説かれでもしたら噴飯ものだろうが、これも精神修行の一環だと思って頑張れ。だが忠告しておくが、くれぐれも沙織さんに八つ当たりはしないように。そんな事になったら、本気で捨てられるからな?」
「父さん……」
「何だ、友之。どうかしたか?」
「……何でもない」
「そうか」
軽く睨んだものの真由美には笑って受け流され、義則にはさらりとかわされて、友之は憮然とした顔つきになって黙り込んだ。そこで義則が沙織に向き直りながら、真顔で言い聞かせる。
「とにかく沙織さん、変な噂が早々に収まって良かった。本当の事を明らかにした時には、今回の事も含めて周囲に謝らなければならないだろうが、その分これまで以上にしっかりと、誠意を持って仕事を続けなさい」
「はい。そうするつもりです」
素直に頷いた彼女を見て義則は満足そうに頷き、友之はどこか不満そうに最後の一口を食べ終えた。
(だけど今日一日で結構神経をすり減らしたのに、本当にこれからどうなるのかしら。吉村さんを、本当に何とかしないと)
沙織にしてみれば一難去ってまた一難の心境であり、今後の職場環境に不安を覚えずにはいられなかった。
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