酸いも甘いも噛み分けて

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(4)黒幕

公開日時: 2021年7月17日(土) 00:37
文字数:1,994

「あ、友之さん。どこに行ってたんですか。一緒にケーキを食べながら、珈琲でも飲みません?」

「ちょっと父さんの所にな。俺も飲むから、準備してくれるか?」

「分かりました」

 不思議そうに見上げてきた沙織に笑って誤魔化し、友之はリビングに向かった。そしてソファーに落ち着いて少ししてから、沙織が二人分のケーキと珈琲を運んで来る。


「お待たせしました。今日のシフォンケーキは、お義母さんの力作だそうですよ? 美味しそうですよね」

「母さんは?」

「二人で食べるなら、邪魔はしないからと言って、さっき入れ違いに二階に上がって行きましたけど」

「……そうか」

 難しい顔で食べ始めた友之を、沙織は慎重に観察してみた。


(何だろう? 確かに友之さんは、仕事の愚痴を零すタイプではないけど、変に溜め込まないで即断即決の人だと思っていたんだけど……)

 そんな事を考えていると、友之が徐に口を開いた。


「沙織……、ちょっと確認したいんだが」

「なんですか?」

「この間吉村と、個人的な話をした事があるか?」

「吉村さんと? 仕事上の事ならともかく、個人的な事……。記憶に無いですけど」

「だろうな。それなら良いんだ」

 そこであっさり話を終わらせ、黙々とケーキと珈琲を喉に流し込んでいる風情の友之を見て、沙織は僅かに顔をしかめた。


(せっかくのお義母さんのケーキと、淹れてあげた珈琲を、そんなありがたみが無いような感じで飲み食いしなくとも……。何を考え込んでいるのか知らないけど、意識をこっちに向けてやろうじゃない)

 腹を立てるのとはまた別の苛立ちを覚えた沙織は、さりげなく話題を切り出した。


「友之さん、今度のバレンタインに関してお義母さんと相談したんですけど、チョコケーキを作る事になったんです」

 それに友之が、不思議そうな顔で反応する。

「ケーキ? チョコを買いに行くとか言ってなかったか?」

「勿論、自分達で食べる分は、二人で買いに行きますよ?」

「あまり意味が分からないが……」

「それともやっぱり、市販のチョコの方が良いですか? それもいつかのように、冷やした物の方が良いというなら、腕によりをかけてキンキンに冷やして」

 沙織がそこまで言ったところで友之が勢い良く向き直り、真顔で訴えた。


「ちょっと待て、それは勘弁してくれ。あれは正直、歯が欠けるかと思った」

「そんなに血相を変えて、懇願するような事じゃ無いでしょう」

 思わず失笑した沙織だったが、友之の切迫した表情での訴えは続いた。


「笑い事じゃ無いから。結婚して初めてのバレンタインであんな物を出されたら、本当に歯だけではなくて心まで折れる」

「はいはい、リクエストは確かに承りました。甘くて柔いケーキにしましょう」

「頼むからロシアンルーレット的な、中に何か仕込んで複数準備するのも無しで頼む」

「どこまで被害妄想が酷いんですか。そんな事までしませんよ!」

 とうとう本気で笑い出した沙織を見て、友之も自分の情けない言動に苦笑するしかなく、それからは嫌な事は忘れて二人でのひと時を過ごした。そんな友之は知る由も無かったが、最近の憂いの原因の一人でもある吉村は、同じ頃、とある料亭の個室で松原工業の幹部の一人と向き合っていた。


「田宮さん、お疲れ様です」

 酌をしてきた吉村に鷹揚に頷き、グラスを差し出しながら田宮は相手に近況を尋ねた。


「ああ、お疲れ。どうかな? 仕事にはだいぶ慣れたかな?」

「はい。従来取り扱っていた物と、同様の製品ですから。勿論、松原工業の取り扱い商品の方が質が良いですし、ラインナップも豊富ですが」

「それはどうも」

「ところで、田宮さんから頼まれている事ですが、まだはっきりとした事は掴めていません。申し訳ありません」

 大吟醸の小瓶を座卓に置き、面目無さげに頭を下げた吉村だったが、田宮はそんな彼を苦笑気味に宥めた。


「いや、それは構わない。配属されて一ヶ月もしないうちに掴めるようなら、とっくに社内の噂になっているだろう。焦らず探ってくれれば良い」

「分かりました」

「それで……、君の目から見て、松原課長はどうかな?」

 田宮が探るような視線で尋ねると、吉村はまるで認めたくは無さそうな口調で答える。


「……仕事は、できるみたいですね」

「まあ、そうだろう。目的の為には、手段を選ばないタイプだな。前例もある」

「そうですか……」

 苦虫を噛み潰したような顔で同意した田宮に、吉村も憮然とした表情で相槌を打つ。しかし流石に田宮は即座に気持ちを切り替え、いつも通りの顔で吉村に指示を出した。


「引き続き、よろしく頼むよ。彼はなまじ仕事ができるだけに、色々と厄介でね。今後の事を考えると、おとなしくさせるネタがあれば、それを掴んでおくに越した事は無い」

「お任せください。こちらで拾って貰った恩は返します」

「君には色々な意味で、期待しているよ」

 そこで含み笑いの表情を浮かべた二人は、それからは社内の情報交換をしつつ、機嫌良く飲み進めた。


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