決行当日、定時を過ぎて残業をしていた沙織は、時計で時刻を確認しつつ静かに腰を上げた。
(うん、そろそろかな? 課長の残業を中断させるのは申し訳無いけど、後から謝ろう)
そう心の中で謝罪しながら課長席に歩み寄った沙織は、神妙に席に着いている友之に声をかけた。
「課長、今宜しいですか?」
「ああ、どうした?」
「少々、お付き合い頂きたいのですが」
「何だ?」
「移動をお願いします」
唐突過ぎる申し出に、瞬時に友之の表情が怪訝な物に変化する。
「……どこに付き合えと?」
「一階のエントランスホールです。人一人の人生がかかっているので、ぐちゃぐちゃ言わずに付いて来て頂けると非常に助かりますし、今度食事を奢ります」
すこぶる真面目にそんな事を言われた彼は、数秒彼女の顔を凝視してから小さく溜め息を吐き、諦めて席を立った。
「分かった、付き合う。これまでの経験からすると、下手に断ったらもの凄く面倒な事になりそうだ」
「快諾して頂き、ありがとうございます」
そして連れ立って歩き出した友之だったが、廊下に出るなり沙織を問い質した。
「それで? 俺に一体、何をさせる気だ?」
「誠に申し訳ありませんが、茶番の当事者になって下さい」
「はぁ? もう少し具体的に」
「これまでの経験で、課長はフェミニストだと信じています。信じても良いですよね!?」
並々ならぬ気迫で自分を見上げて確認を入れて来た沙織に、友之は若干引きながら答える。
「あ、ああ……、これまで人並み程度には、女性に敬意を払ってきているとは思うが……」
「それでは今日も、その方向で宜しくお願いします」
「関本……。お前、絶対説明する気が無いよな?」
それを悟った友之は顔を引き攣らせたが、退社する為にエレベーターを待っている社員達の集団と遭遇した為、変な事は口にできないと思い直した。それから少々時間を要して一階まで下りた二人は、迷わずエントランスホールを横切り、明里が待っている場所まで歩いて行った。
「木曽さん、お待たせしました」
すると明里は、連れ立って来た二人を、苦笑いで出迎える。
「本当に、松原課長を連れて来ちゃったのね……」
「はい。連れて来ちゃいました」
そうして女二人が微笑み合っているところに、友之が控え目に声をかけてみた。
「ええと……、確か、経理部の木曽明里さん、だったかな? もしかして、俺に用があるのは君かな?」
「はい、お仕事中に個人的な事でお時間を頂いて、申し訳ありません。ですが所属の他に、私の名前まで覚えていて下さったとは、思ってもいませんでした」
軽く頭を下げてから、少し意外そうに述べた明里に、友之が弁解するように答える。
「それは……、うちの関本が色々お世話になっていたみたいですし、彼女から何かの折に聞いたのを記憶していましたから」
「そうですか。それでは余計なお時間を取らせるのは申し訳ありませんので、さっさと済ませる事にします」
そこで明里は、嬉しそうに綻ばせた顔を引き締め、真剣な面持ちで真正面から友之に申し出た。
「松原さん。私は入社以来、ずっとあなたの事が好きでした。私と結婚して下さい」
「…………え?」
明里は絶叫などはしていなかったが、不思議とその落ち着き払った声音は二人の周囲に響き渡った。その途端、付近を歩く者達のざわめきが止み、足を止める者も続出して、二人に視線が集中する。
(木曽さん、偉い! 良く言った! さて、向こうの方の仕込みも、上手くいったかな?)
二人から数歩離れた所から、沙織が心の中で声援を送ると、周囲から困惑気味の囁き声が伝わってきた。
「あれは何?」
「今、『結婚して下さい』とか聞こえなかった?」
「あれは営業部の、松原課長だろ? あの人と付き合ってたのか?」
「でも確か松原課長は、社内の人間とは付き合わないって言ってたよな?」
「じゃあ、どういう事なんだ?」
ざわめきは一向に収まらず、真正面から明里に見つめられたままの友之は密かに狼狽し、彼女の斜め後ろに立っている沙織に向かって、目で訴えた。
(おい、関本! どういうつもりだ、これは! この事態を俺にどうしろと!?)
その訴えに沙織は拳を握って、無言のまま力強く頷いてみせる。
(課長、この場を丸く治めて下さい。信じてますから!)
(全く! 今度と言わず、今日夕飯を奢って貰うからな!)
彼女が全く助ける気のない事だけは分かった友之は、完全に諦めて再び明里に向き直った。そして慎重に口を開く。
「あの……、木曽さん? 好意を持ってくれた事は嬉しいんだが、俺は君に恋愛感情を持った事は無いし、当面誰とも結婚する気は無いので……」
「はい、分かりました」
「え?」
「松原課長がそう仰るのは当然です。付き合ってもいない人間からいきなり『結婚して下さい』と言われて、『はい、結婚しましょう』なんて承諾する人はいませんから」
「はぁ……」
あっさりと返された上に穏やかに微笑まれて、友之は安堵しながらも、少々茫然としながら相槌を打った。
「ですからこれはあくまでも、私なりのけじめの付け方なんです。こんなつまらなくて個人的な事にお付き合いして頂いて、本当に申し訳ありません」
「そうですか……。それで、あなたの気は済みましたか」
「はい、ありがとうございました」
「それは良かった」
そう言って笑顔で深々と頭を下げた明里だったが、再び顔を上げたその時、顔は笑ったままながら、両眼から涙が一筋ずつ零れ落ちていた。それを見た友之が、さり気なくジャケットの左のポケットからハンカチを取り出し、彼女に向かって差し出す。
「それではこれを使って下さい」
「え? あの、でも……。松原課長がこれからまだ、使うかもしれませんし……」
困惑して瞬きしながら遠慮した明里だったが、ここで友之は苦笑しながら、右のポケットからもう一枚ハンカチを取り出しつつ説明を加えた。
「俺は普段から、ハンカチは二枚以上持ち歩く事にしているんです。それでこちらは今日使いましたが、これは未使用のままですので」
そう言って左手で持ったハンカチを再び差し出してきた為、明里は反射的に受け取りながら、不思議そうに尋ねた。
「松原課長はどうしていつも、ハンカチを複数枚持ち歩いているんですか?」
その問いに、彼は苦笑を深めながら答える。
「実は昔、とある知り合いから『女性が泣いたり怪我をした時に、咄嗟にハンカチの一枚も出せなくてどうする』と薫陶を受けまして。それ以来ハンカチは常に複数枚持ち歩くのが、習慣になっているんです。ですから、遠慮せずにどうぞ」
「それでは遠慮無く、使わせて頂きます。洗ってお返ししますので」
「ああ、返さなくて良いですよ。良かったら差し上げます」
「……分かりました。今日の記念に頂きます。ありがとうございました」
そして軽くハンカチで頬を押さえて涙の後を消した明里は、再び頭を下げてから明るい笑顔でその場を立ち去って行った。すると一部始終を見守っていた沙織が、如何にも感心した様子で上司に歩み寄る。
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