「いつまでいていいの?」
「別に俺はいつまででもかまわん。ずっとおってもええ」
本当はもっと強い言葉で引き止めたかった。だが、千尋の人生だ。
彼女が望むなら、一緒に苦楽を共にしたい。ただ、今千尋は武史のその言葉は望んでいない。
なら、と掠れる声で千尋は伝えた。
「年内は、居ていいかな?年が明ける前にはどうするか決める。……柳田さんのことも含めて」
武史は一言だけ返した。
「ええよ」
千尋にはこの言葉だけで充分に伝わったはずだ。
千尋はあることを決めていた。
12月にこの間翻訳した本が出る。
それが出たら、インターネットでこの本のレビューを検索しようと。
今までしたことは一度もなかった。怖かったからだ。
出版翻訳は産業翻訳と違い、決まった型がない。
自分で0から1を生み出すことは出来ないのに、自分のした翻訳でその本の運命を決めてしまう。
そのことが怖かった。
最初の柳田に紹介された詩集を除いたら、千尋が訳していたのはビジネス書ばかりだった。
だが、今回は違う。
大衆向けの恋愛小説だ。読み手も格段に増える。
更に翻訳に当たってはいつもと違う言葉のチョイスをしている。
新しい分野で文体も変えた。そのことがどのように評価されるか怖い。
それでも……
「これが評価されたら、私はもう大丈夫」
お金を貰って仕事をした以上、自信がない物は入稿していない。
そしてもしこれが評価されたら、千尋の指標は柳田ではなくなる。
柳田に、彼に評価されたい。
出版翻訳の目標は彼の目にどう映るかだった。それはずっと柳田に支配されるということだ。
先日柳田に会い、より鮮明に自覚した。
思っていたよりも強く、彼の評価が全てになっている事実。
離れてみないと分からなかったこと。
心と向き合う機会がなかったら気づけなかったこと。
この町に来て武史に出会わなければ気づけなかった。
「どうしたらいいんだろう……」
仕事はある程度やりたいことが見えてきている。だが、武史のことと柳田のことはまだ結論が出ない。
それぞれの望みは知っている。あとは千尋が決断するだけだ。
ただ、どれだけ考えても、中々答えは出なかった。
そっと抽斗を開ける。そこには柳田に渡された連絡先が入っていた。
連絡するように言われていたが、千尋は出来ていなかった。
何度も手に取り、かけようとするのだがどうしても躊躇う。
今日もそうだった。
(私は柳田さんに何を求めているんだろう?)
それはまだ分からなかった。
「また千尋ちゃん、出かけとんのか?」
「おう。今回は大阪やけん、明後日には帰ってくるわ」
12月の半ばを過ぎた頃だ。武史は秀樹と飲みに来ていた。
お互い年末にかけて仕事が忙しく、やっと時間を合わすことができた。
忘年会という名目でいつもの行きつけの店に行く。
千尋は今日は家にいなかった。
東京に行ってから、千尋は月に2,3回泊まりで出かけるようになった。
仕事だ、と言って出かける千尋を武史はひたすら見守っていた。
こちらに来たばかりの頃のように体を壊すような働き方をしているならいつでも止めるつもりだった。
しかし、今のところそんな素振りはないため、ひたすら静観していた。
「武史、このまんまでええんか?」
心配そうに尋ねる秀樹に苦笑する。
「ええも何も千尋が決めることや」
年内という期限の終わりに千尋がどんな決断をするのか武史にも読めなかった。
「俺の気持ちを知った上で真剣に考えよるんは分かっとるけん。なるようにしかならんのやし、考えてもしゃーないやろ」
「そやけどさ……」
「言うてもうすぐや。後10日足らずで今年も終わるけん」
まだ何か言いたそうな秀樹だったが、これ以上何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
呆れたようにため息をついた秀樹はビールのお代わりを頼んだ。
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